出発


数日後にアデノから兵が俺を迎えに来るらしい。少なくとも数年はここに帰ってくることはないだろう。

見納めとして目付け役の爺さんとともに集落に繰り出す。


緩やかな山々の谷間にあるこの集落はお世辞にも肥沃とは言えないため、大型のヤギのような動物、マーゼトンを飼育し、その肉や毛皮、角、乳製品を他の都市の穀物と交換することで成り立っている。その穀物を交換している最大手の都市こそがアデノであり、これまで百年程、その生命線をサクロン族はアデノの主、ツァーバノン族に握られ続けてきた。

それでもサクロン族は対等な立場として上手く付き合ってきた。ツァーバノン族にとって毛長馬に乗って苛烈に戦う我らサクロン族は脅威で、穀物を輸出するだけでその武威を傭兵のように使えるため、現状維持が長く続いていた。しかし、サクロン族がそんな傭兵まがいのことを続けているうち、ツァーバノン族はその領を伸ばし続けたが、サクロン族は伸ばせなかった。結局サクロン族はこれに有効な手を打てず、力の差はどんどん開いて、今代になって結局臣従を余儀なくされたのだ。

嘆かわしい話だ。


そんなことを思いながら集落の中を目付け役の牽く毛長馬に乗って行く。飼育しているマーゼトン達の糞が往来にポロポロと落ちている。この独特のにおいともお別れかと思うと少々悲しい。

ふと目付け役の爺さんがこちらに振り向いて口を開いた。


「若君、僭越ながらこの老い耄れが家臣としての心構えをお教えします。これより必要とならめば。」


「うむ、爺、その心構えとはなんだ。」


「はい。一に、主君に二心を持たぬこと。二に、主君には忌憚なく意見すること。三に、他の家臣とは争わぬこと。この三つでございます。特に、三つめは忘れぬやうお願いたてまつる。家中の乱れは主君の未熟、引いては主家の権威の低下とみなされます故に。」


「分かった。気を付けよう。忠告ありがとう。」


「はい、若君ならばきっと良い家臣となられるでしょう。」


老人は満足げに頭を下げ、また前を向いて毛長馬を牽きだした。長年我がアンナビリ家に仕えた翁の忠告、硬く心に刻もう。

そうこうするうちに橋を超え、対岸の家々も超えて城とは反対の山の稜線上に出た。木と岩石が点在している谷を一望し、遠くの城を見る。春の緑が美しい。マーゼトンの群れがちらほらと見える。

改めて、この地を、生まれてこのかた出たことのない地を出ることへの不安と悲しみ、そして一抹の未知への期待が脳裏をよぎった。




三日が過ぎた。

今日はアデノから迎えの使者たちがやってくる手はずだ。昼頃に到着し、明日の朝に出発の予定となっている。ツァーバノン族の族長に臣従したことを報告するため父上と長老の一人がサクロン族戦士団を率いて俺と一緒にアデノに行く。


使者を迎えるため正装に着替えて短剣を帯剣する。午前の内は最後のあいさつ回りである。母上や長老たち、父の側室たちに乳母と乳兄弟、主な家臣と支族長に挨拶し、激励される。昼が過ぎて、父上と主な家臣とともに川の下流に使者たちを迎えに行く。毛長馬に乗る目付け役の爺さんの前に座らせてもらってとことこと行く。


集合場所について目付け役の爺さんと雑談しているうちにツァーバノン族の使者たちがこちらに向かってきているのが見えた。しばらくして、父上以外の者は皆毛長馬を降りて平伏し、使者たちを迎える。

鬼のような角を額に着けているツァーバノン族の戦士達に囲まれた壮年の男が声を上げた。


「私はツァーバノン族族長にしてアデノ候であるガハヅーン・ツァーバノン・ティジーアトンの弟、ラスール・ツァーバノン・ティジーアトンであります。」


「ようこそおいでくださいました。私はサクロン族族長にしてアルワーディ候、アッタジニーブ・サクロン・アンナビリであります。」


二人は硬く手首を握り合うような握手を交わした。

父上がラスール殿を案内するように集落の方へ馬脚を向け、俺たちも騎馬の許しが出たので騎乗し父上たちに続く。父上とラスール殿は名乗りの堅苦しい感じから初対面かと思っていたがどうも違うようで親しげに話している。双方の戦士たちもそれぞれ顔見知りがいるようで手を振るなどしている。

思ったより平和なようで少々拍子抜けだ。もっとギスギスした会談になると思っていた。やはりこの臣従はもはや皆分かりきっていた話だったのだろう。


ツァーバノン族の戦士達は皆鬼の角のような飾りを頭に着け、サーベルに似た武器を持ち、馬に乗っている。毛長馬でない普通の馬を見るのは久しぶりで、毛長馬ではない馬は馬ではないような気がしてなんだか変な気分だ。

父上が俺を呼んだので目付け役が馬をラスール殿に寄せる。


「君がヤーリクか。アッタジ(アッタジニーブの略)から話は聞いている。なんでもたいそう賢いそうだな。」


「お褒めにあずかり光栄です。ヤーリク・サクロン・アンナビリです。これからお世話になります。よろしくお願いします。」


ラスール殿は驚いた顔をした。


「なるほど。アッタジの見栄かと思ったがそうではないらしいな。5歳でこの受け答え、波の頭ではなさそうだ。これならば従者としてきちんと任を果たせるだろう。」


「お褒めにあずかり光栄です。ありがとうございます。」


そうこう話しているうちに城が目前に迫っていた。

城に着いたころには既に日が傾いていて、すぐに使者たちの歓迎の宴が開かれた。父上とラスール殿は臣従の条件の話を再確認しているようで主な家臣も交えて話している。


俺はと言えばツァーバノン族の戦士たちにアデノのことを根掘り葉掘り聞いていた。こういうものはサクロン族の誰かから又聞きするよりも当事者に聞いた方がいいのだ。


「それで、ヤーリク様はどのようなことをお聞きになりたいので?」


当然彼らは他部族の次期族長には例え子供であっても敬語である。もっとフランクに接してほしいが叶わないだろう。身分社会とは息苦しいものなのだ。


「アデノはどんな都市で、なぜ貿易の要衝と言われているのだ?」


戦士はしばし考えて説明を始める。


「アデノは周りを肥沃な穀倉地帯に囲まれた豊かな都市で、人が5人ほどの高さの街壁が都市をぐるりと囲っており、非常に戦に強い都市です。近隣の都市の中では一番大きく、貨幣も多く流通しています。西にタッキア王国王都アッカラ、東に帝国旧都ターハラーンに伸びるタリクエハレリ街道の中間に位置しています。さらに商いの税を極端に下げ、街道の治安維持や宿の整備に力を入れているので多くの行商人がアデノを通っていくのですよ。」


なるほど。肥沃であることを生かす都市運営をしているのか。明らかに経済というものを戦闘しかない我々よりも理解している。

これではサクロン族は敵わないな。余力が全く違う。今まで本当に対等だったのかも怪しいほどだ。


「なるほど。では、ツァーバノン族についてはどうだ?どれほどの勢力圏でどれだけの部族を従えているのだ?」


「はい。我がツァーバノン族は、北はアルワーディ、南はジャンヌヴ、西はアルハルヴ、東はアリヤバーンまで勢力を拡大しています。一つの小さな王国程の大きさです。帝国内でも大きい部類に入ります。また、従えている部族は小さいものも含めると30以上あり、主要な部族はサクロン族の隣で北のアルト・サーラヴン族、西のヴォーラーヴォン族、東のジュンマロン族、アデノ近くのカルブ族、この5つです。」


「ふむ。知らない言葉ばかりだ。」


「賢いヤーリク様ならばすぐに覚えますとも。」


「ありがとう。ところで先ほどから話題に上がる帝国とはなんだ。」


「帝国は我々ツァーバノン族が所属する大国家です。皇都は現在バハダートにあって周辺国の中では最も大きい国です。今回の件でサクロン族もこの国家の構成員になりますね。」


「だがそれにしては皆、帝国の所属になることを意識していないな。これは何故だ。」


「元々サクロン族も帝国の半構成員状態でしたからね。爵位も授かっていますし。」


「爵位?」


「ええ。家の大きさや影響力によって決まる順位のようなものです。上から大公、侯爵、伯爵、子爵、男爵、準男爵、騎士という風になっていて、伯爵はさらに上から辺境伯、宮中伯、島嶼伯に分かれています。大公と騎士、宮中伯は領地を持たない爵位です。」


「なるほど。」


「ツァーバノン族は辺境伯で、サクロン族は準男爵です。しかし正式に臣従したことでサクロン族は男爵になることが決定しています。」


その後も質問の雨を浴びせ、なんとなく俺たちサクロン族が使えるツァーバノン族や貿易都市アデノ、そして帝国のことが分かってきた。

質問を浴びせられた戦士たちは俺が本当に5歳なのか疑っていたが、アデノに行くことが不安そうに振る舞ってみると年相応と納得してくれたようだ。



さて、朝がやってきて眠りから覚めた。支度はすでに済ませてあるのですぐに城から出て使者たちのもとへ行く。目付け役や俺の世話係の奴隷達が少しずつ編んだという別れのスカーフをもらって涙が出そうになった。ここではスカーフは旅や戦に行く者への安全祈願として贈られるのだ。話を聞くと、二日ほどでアデノに着くらしく、案外アデノが近いことに驚いた。

毛長馬に乗るサクロン族の戦士の前に座っていざ出発である。


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