帝国戦記 ー貴族の物語ー
@0ctpus
誕生
“古の世、天下は灰に覆はれき 人は空に手伸ばし、日模倣し、命の密事操り、神に近づきき されど、その世は長く続かざりき 神にとりて代はらむといふその業は神の怒りに触れき 大地は音立て動き、山々は血の涙をも流し、海は荒れ狂ひき 嗚呼、天下は灰に覆はれき わたりはうつろひうつろひになりき 草木も、生類もその多くがさまを消しき 嗚呼、天下は終はりけり。”
皇都バハダートの北、ザグールスの山々を超えてさらに北、緩やかな谷の狭間にその大きな集落はあった。
粗末な石造りの家屋が点在し、飼育しているマーゼトン達があたりを闊歩している。普段ならこの時間は夕食の支度で各家の煙突から煙がモクモクと出ているのだが、今日は人の気配が全くない。
集落のはずれにある、谷間を一望する大きな石の城に集落の住人達が集まっていた。城内は大忙しのようで、女子供は厨に詰めて、老人達は広間で祈り、手持無沙汰な男共は城中をうろうろとしている。
そんな折、広間にある城主の居住区へと続く扉が突然開き、中から女が勢いよく出てきた。
「無事に、無事にご誕生なさいました、男子であらせられます!」
その言葉を聞くや否や広場にいた者は喝采の声を上げ、男共は走ってその旨を城中触れ回りに行く。幾人かは毛長馬を駆り、遠くの地域にも吉報を知らせに行く。少したって料理を作り終えた女子供が広間で宴の準備を始める。城中の酒樽の栓が開けられ、食糧庫から大量の干し肉が出てくる。皆一様に喜色満面、中には涙で足元のおぼつかない者もいる。
宴の準備が終わって城主が広間に入り、皆から祝福の言葉を雨あられとかけられる。
そんな平和な春の日が、ヤーリク・サクロン・アンナビリの誕生の日だった
谷底に流れる川に架けられた木の橋の下に一人子供が座っていた。身なりは整っていて、顔立ちもすっきりしている。黒髪黒目、短髪で色白、この地域に住まうサクロン族の特徴である。何やら考え事をしているようで、ボーっと川を眺めている。満5歳を迎えたヤーリクである。
川がうねっているのを見ながら思索にふける。俺は困惑していた、困惑し続けていた。というのも生まれてこのかた俺はどうも違う世界の記憶を持っているようであったからだ。その記憶は朧気で、もはや思い出すことも困難ではあるが、どうも人格や精神、知識といった事柄はほとんど完全に“前の俺”から受けついだらしく、今大変に困っている。
明らかに“前の俺”は俺よりも先の時代を生き、成人も果たしていただけに、この時代、この体に俺は馴染めていない。
まず、飯が不味い。その上レパートリーも少ない。一日二食なのはいいとして、そのほとんどが硬いパンとマーゼトンの乳と根菜を混ぜて作ったスープなのはいかがなものか。週に一度は肉と彩色豊かな野菜が出るが、たいしておいしくはない。これが最も耐え難い。
次に価値観が違いすぎる。“前の俺”はただの小市民であって人を使うような立場になったことはない。しかし、俺は曲がりなりにもこのアルワーディという地の長の嫡子であり、かつ、サクロン族の族長の嫡子であるのだ。人を使う側の人間である。慣れない。
三つ目は健康であることの重みである。ここでは病=死だ。子供はなおさらのことである。俺にはラディオンという父上の側室から生まれた異母兄がいたのだが、去年、風邪のようなものをこじらせそのまま冬を越せずに亡くなった。異母妹も一人いたが、これも生まれて一年もたたずに亡くなった。比較的裕福な我が家でもこの有様、医療が未発達であるのは言うまでもないだろう。
最後に、この世界である。明らかに“前の俺”がいた世界とは違う。動植物は見たこともないものが大半で、父上も魔法のようなものを扱っているし、大鯨という大きな鯨が空を飛んでいた。それらについていろいろと調べたい思いはあるが城の中に本などは一切ないし、わが身の幼さ故に読み書きを教えてくれる者もいない。悪目立ちして気味悪がられたくはないので、子供の時分、行動を起こそうにも何もできない。歯がゆい限りである。
そうこう考えているうちに日が傾いてきた。城に帰る時間である。橋の傍で待たせていた目付け役の爺さんの牽く毛長馬に乗って城に帰る。
数日後、俺は城の広間で支族も含めた一族の成人した男衆に囲まれて座っていた。全員正装し、帯剣している。普段は騒がしい皆が床に置かれた食事を黙々と食べている。明らかな異常事態。俺の右隣、最も上座に座っていた父上が重い口を開いた。
「さて、皆もすでに聞き及んでいることとは思うが、アデノの主、ツァーバノン族がその族長の代替わりに伴い、我らの臣従を要求してきた。彼我の戦力差はもはや歴然で、我らに勝てる道筋はない。祖父の代から三代に渡って奴らとはうまく付き合ってきたつもりだったがついにその時が来たのだ。」
父上の言葉に場の空気はさらに重くなる。泣く者も出た。沈黙を破ったのは父上の異母弟、アルワティ・アンナビリであった。
「族長、一矢報いる事かないませんでしょうか。我らはかつて故アティコン帝の元、槍を手に数多くの戦で武功を上げた勇士の末裔であります。祖霊の手前、座して降伏するなど許されるのでしょうか。」
父上は首を横に振り、悲しげに口を開いた。
「我が弟よ、その心意気、祖霊も満足しておられよう。しかし、抵抗すること相ならん。交渉を重ね、臣従した後の待遇も破格のものとなったのだ。それに、アデノは肥沃で、貿易の要衝でもある。ここに臣従すれば我らの将来は安泰だ。民は富み、我らも飢えることはない。祖霊も納得してくれるだろう。」
再び沈黙が訪れた。大人の多くは涙を流し、我らサクロン族の成人男性の特徴であり、誇りでもある顔の精霊の傷跡を撫でている。
正直、俺は事のあらましをよくわかっていない。アデノという地は聞いたことがあるが、ツァーバノン族や故アティコン帝の下りはまったく分からない。
ただ、一つだけ確信を持っていることがある。それは恐らく、その破格の待遇とやらに俺の処遇が関係しているということだ。だから子供の身で俺だけがこの場に呼ばれているのだろう。
婚約か、人質か。
父上がこちらを向いた。
「ヤーリクよ、そなたはアデノに行くことになる。ツァーバノン族の族長、ガハヅーン・ツァーバノン・ティジーアトンの嫡子、イステラ・ツァーバノン・ティジーアトンの従者としてお仕えするのだ。実質的な人質ではあるが、そなたの働き次第では我らの扱いや家中での地位が変わるだろう。よくお仕えし、その信頼を勝ち取るのだ。そなたは目付け役から、頭がよいと聞いている、安心して未来を任せられる若君だと。我らの信頼を裏切ることなかれ、頼んだぞ。」
「畏まりました。父上。」
人質の方だったか。気は進まないが致し方ない。父上の言うように、精一杯お仕えしよう。
後のヤーリクにとってこの出来事は、この出来事こそが人生の最も大きな転換点であった。
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