マーキング

『アイツ、強いんだな……』

 ナイフで地面や木に括りつけられた真っ黒いヘドロの塊に、ボロボロの状態で捕らえられ、真っ黒い網の中で牙を剥き出しにしたままフーフーと荒い呼吸を繰り返すエレメールを見て、ロイが呆然と感想を漏らす。

 メリィとしては愛してやまないロイを死守したわけだが、彼からしてみれば自分の所有権を巡って二人の魔族が争ったに過ぎない。

 自分を嬲るのがメリィになるのか、あるいはエレメールになるのか。

 ロイは生に執着しているので、ひとまず死を逃れたことは嬉しかったが、正直どちらが勝っても大差がないのだ。

 二人が争っている間には「同士討ちしてくれ!!」と願っていたほどである。

 しかも、目の前で繰り広げられた激しい戦闘のせいですっかり忘れていたが、そもそもロイは脱走の途中だ。

 自分を追いかけてきたメリィがそのことを知らないはずはない。

 ツカツカと無表情で自分の元へ戻ってくるメリィに恐怖が募る。

『ヤベェ、殺される!』

 メリィと目が合って、ロイの心臓が縮み上がる。

 脳裏によぎるのはナイフで的確に魔獣の額を貫き、エレメールの柔肌を裂き、冷酷に彼女を捕らえたメリィの姿だ。

 警戒心をとどめたままのつもりでも日々のメリィの態度に慣れ、彼女をすっかり自分を甘やかしてくる無害なお姉さんとして認識していたロイは若干パニックに陥っていた。

 いつかのように彼女が伸ばしてくる手に怯え、目を見開く。

 しかし、数秒後にやってきたのは自身の身体を嬲る衝撃ではなく、ふんわりとした柔らかさだった。

 メリィはいつもよりもほんの少しだけ力強くロイを抱き締め、彼の胸元に顔を埋めていた。

『なんか、ぬるい?』

 顔が押し付けられているのだから多少は温かくて当然なのだが、何故か胸元がしけっている気がする。

 視線を下げると、ロイとは反対に顔を上げたメリィと目が合った。

 メリィはほんのり頬を染め、目を真っ赤にしてボロボロと声もなく泣いている。

『私の、私のだもん……』

 どうやらメリィ、ロイに抱きつくことでようやく安心することができたらしい。

 ロイに脱走されて悲しかったことや、自分が来るのが一秒でも遅かったら彼を永久に失っていたことなど、恐怖、不安、怒りといった様々な悪感情がいっぺんに胸へ押し寄せる。

 しかも、それが彼に抱き着くことでほんの少し解消され、同時にもう一度、悪感情が湧きあがるということを繰り返している。

 激しい感情の揺れと戦闘後の興奮などでメリィの情緒は滅茶苦茶になり、ロイにしがみついてむせび泣くことしかできなくなっていた。

 先程までは恐ろしいモンスターとして君臨していた女性が、今では自分よりもずっと弱い小動物のように映る。

 酷いギャップに困惑し、妙に庇護欲と罪悪感を覚えた。

『なんかなぁ……考えてみたら助けてくれてたんだよな、多分。あ、いや、こういうのが罠って可能性もあるし、どうせコイツに殺されるなら一緒だろ! 絆されない、絶対に絆されない、けど』

 心が揺れて思わずメリィの頭を撫でると彼女は余計にロイに抱きついてきて、放すまいと力を込めだした。

 相も変わらず困ったままのロイは随分と油断していて、普段からメリィに向けているような警戒心を解いたまま、彼女を宥め続けている。

 すると、急にメリィがモソモソと動き出してロイの腕をひとまとめにし、彼の唇に自分の唇を重ねて塩味のキスをした。

 驚く彼の口内に舌を突っ込み、片手では彼の両手を押さえ、もう片手で頭を自分の方へ押し付ける。

 歯茎や歯、舌そのものなど口内に自分を擦りつけるような激しくて熱いキスを一分以上も続ける。

 メリィのコレは性的な愛情表現ではなく、魔族特有のマーキングだ。

 ディープキスで対象者に自身の魔力を刷り込み、魔族の匂いや魔力を纏わせる。

 そうすると、マーキングされた人間は魔族から同族とみなされるようになる。

 魔族が同族を襲った時の「嫌悪」というものはメリィを傷つけたエレメールの反応で確認した通りだ。

 いかに下等な人間とは言え、自身に激しい害をもたらす者を積極的に襲う者など、そうはいない。

 また、まとう魔力や匂いはマーキングをつけた者によっても微妙に変化が生じる。

 メリィのように強い性質の魔力を持つ者がマーキングをすれば対象者のまとうソレも強力になり、より一層、他の魔族を退けるほか、匂いを嗅がせることで、

「コイツに危害を加えたら私がお前を木っ端微塵にしてやるぞ」

 と、間接的に相手を脅すことも可能になる。

 加えて、魔族の掟でマーキングをされた人間は襲ってはいけないことにもなっている。

 そうすると、マーキングをしない場合に比べて対象の人間の生存率や嬲りの回避率は極端に上がるのだ。

 時折、マーキングされた人間をあえて狙うような性根の腐った魔族も存在するので完全に油断はできないが、基本的にメリットの方が大きいのでコレをしない手はない。

 だが、そうであるのにもかかわらず、これまでメリィがロイにマーキングをしてこなかったのは、自宅付近にエレメールや仕送り配達員の魔族以外がやってこなかったからだ。

 エレメールは出禁にしていたし、配達員には「食うな!」と伝えれば済む話だったので、メリィは他の魔族の脅威について思案の中にすらなかった。

 それに、ディープキスというのは魔族にとっても、あるいは人間にとっても性的な行為だ。

 懐いてもらえる前にマーキングをし、ロイに嫌われてしまうのが怖かった。

 しかし、冷静に考えてみればメリィの自宅は協定で定められた「襲ってはいけない場所」の範囲外にあるし、エレメールも再びロイを襲わないとは限らない。

 仮に嫌われようと、ロイが嬲られた挙句に貪り食われるよりはマシだ。

 メリィは抱き着いている間に覚悟を決め、それからロイの唇を奪ったのだが、どうせ嫌われるくらいなら思いっきり、満足するくらいしてやろうとかなりキスを深くしている。

 逃げ出された仄暗い怒りもぶつけつつ、勘でキスをしているので、擦られ続けたロイの舌はいっそ痛いくらいに痺れていた。

 ロイの出身地は田舎過ぎて若い女性が少なく、恋人もロクにできたことがないのでキスなど軽いものですらしたことがない。

 ロイはなかなか放してもらえない上に動揺し、困惑しているせいで鼻呼吸すらもロクにできず、体内から酸素を減らしていた。

 おまけに体温が高くなって体中から汗が噴き出す。

 数分後、やっと過度なマーキングから解放されるとロイはフラフラになり、少し浮いていた体を脱力させてポテンと尻もちをついた。

『これが、家出の罰?』

 ロイはビリビリと痺れっぱなしの舌を濡れた唇よりも奥に押し込み、真っ白な頭でクルクルと目を回し続けていた。

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