脱走

 草木も眠る丑三つ時。

 ずっと眠ったふりをしていたロイがパチリと瞳を開けた。

 今夜は特に暑いからだろうか。

 普段は自分に抱き着いているメリィが、ロイから少し距離を開けてスヤスヤと眠っている。

『コイツ、本当に俺のこと動物か幼児扱いなのな』

 数十分前、そっとキスをされた頬を押さえた。

 少し熱い気がするのは夏の熱気のせいだろうか。

 ロイの頭によぎるのは、昔に絵本で呼んだ女の子が愛犬にキスをしている場面だ。

『こんないい年した図体のデカい男を大型犬扱いとか、どうかしてるよ。魔族ってやつは、本当にどうかしてる』

 キスをされた後、ふんわりと撫でられた前髪をグシャリとかき乱す。

 ロイは上体を起こすと、月明かりに照らされてほんの少しだけ輪郭をはっきりとさせたメリィを眺めた。

 体をやんわりとくの字に曲げ、キュッと片手で大きな狼耳を握りこむ姿からはいつもよりも少し幼くて愛らしい印象を受ける。

『尻尾が体から離れてベッドの端の方に垂れてる。暑いのか?』

 お尻からストレートに伸びて床スレスレの場所まで垂れた尻尾が、時折フサッフサッと揺れるのが面白い。

 軽く掴むとメリィが煩わしそうに眉間に皺を寄せて、邪魔なものを薙ぎ払うかのように荒く、力強く尻尾を振るようになった。

 放してやれば、満足そうな寝顔に戻る。

 その様子が妙に面白くてロイはクツクツと笑いを溢したのだが、その後すぐにハッとした表情に戻り、ブンブンと首を振った。

『遊んでる場合じゃなかった。でも、コイツ、意外と可愛い顔してんのな。それと、スタイルが良い』

 猛暑が続くからだろう。

 メリィは黒いキャミソールに半ズボンを一枚だけ身に着けており、かなりの薄着だ。

 長く伸びた肉づきの良い腕や足が月明かりに反射して、白っぽく発光しているように見える。

 少し神秘的で、スゥスゥと聞こえる寝息がどこか色っぽい。

『首なんて俺でも折れそうだし、ナイフ突き立てりゃって気がするけど、まあ、魔族相手じゃ無理だろうな。ただ、それにして油断しすぎっつうか』

 上下する豊満な胸は随分と柔らかそうだ。

 基本的に夜眠る時、ロイはメリィに抱きつかれたままで眠るのだが、たまに顔を胸に挟み込まれたまま起きることがある。

 その時の感触や匂いが思い起こされて、ロイの心臓がドクドクと鳴った。

 パッと目を逸らせば、プリンと張り出た丸っこくてハリのあるお尻が見える。

 涼しさ特化でギリギリまで布面積を削られた裾からは太ももとの境が見え、妙に蠱惑的だ。

 一瞬、手が伸びかけたが、ロイは大慌てでブンブンと首を振ると悪戯をする前に引っ込めた。

『深夜だからって訳わかんねーテンションになるな! 珍しく抱きつかれてねーし、今夜は満月だからな。逃げ出すのには絶好の機会だ。大体、魔族にセクハラなんかしたら死んだほうがましな目に今すぐ遭わされる! そんなの絶対にごめんだからな!!』

 息を殺し、そろりとベッドを降りる。

 ロイの今の格好は白いタンクトップ一枚に七分丈のズボンだ。

 室内の夜は蒸し暑いが、外に出ると暗い冷気で一気に体が冷える。

 外套を羽織ると護身用に刃渡り三十センチほどのナイフを懐に忍ばせ、玄関へと向かった。

 音が出ぬよう、静かにドアノブを回す。

 それから外に向けて一歩、足を踏み出した瞬間、すぐ隣から何かが飛び出してきてロイのわき腹に激突した。

『うわ……なんか、デジャブ』

 ぶつかられた瞬間の衝撃も、跳ね上げられてから地面に到達するまでがスローになる間隔も、どこか覚えがあった。

 走馬灯が脳内を巡り出す前に、

「———! ———! ———!!」

 という、知らぬ言語の怒り狂った金切り声が鼓膜を貫く。

 トラウマと共に刻み込まれた生理的嫌悪感を催す声。

 エレメールの声だ。

 彼女か、あるいは彼女の従える魔獣にでも吹き飛ばされたのだろう。

 空中を派手に舞うロイはロクに受け身も取れないままで地面にぶつかり、うつぶせのまま倒れ込んだ。

 腹を酷い衝撃が襲う。

 雑草に滴っていた夜露で顔面が濡れる。

 濃い草の匂いと皮膚を裂く鋭い石、口に入り込む砂利が非常に不快で、ロイは苦しそうに咳き込むと顔面を上げようとした。

 しかし、完全に上げきる前にエレメールに後頭部を足蹴にされ、地面へと叩きつけられる。

 唸る魔獣を侍らせ、ひたすらに怒鳴り続けるエレメールは大層ご立腹だ。

『なんで俺はこうもツイてねぇんだよ! クソッ! 死にたくねぇ! 死んでたまるか!!』

 懐にしまい込んでいたナイフを握りこむ。

 それから、エレメールがロイを更に痛めつけようと襟首を掴み、持ち上げた瞬間にナイフを彼女の腕へ思いきり突き立てた。

『嘘だろ! 通らねぇ!!』

 刃先がブニッと肌をわずかにへこませるばかりだが、シュッと横にずらせばわずかに血が滲む。

 だが、それでも焼け石に水程度の効果しかなく、全くもってエレメールにダメージを与えられていない。

「———! ———、———!!」

 傷が痛むというよりは劣等種として見下している人間に怪我をさせられたことが不満だったのだろう。

 激高したエレメールがロイを木の方へぶん投げた。

 ふわりと体が浮き上がり、空を切った瞬間、ロイは背中に走る激痛を覚悟して何とか受け身をとろうと必死になったが、数十秒経っても痛みは襲ってこない。

 恐る恐る背中に手をやると、そこには固く棘だらけの木の幹ではなく柔らかいクッションのようなものがあり、ロイの身体全体をモッチリと受け止めていた。

 そっと目を開けると、エレメールの背後にメリィが立っているのが見える。

 その足元からは弾力のある影を伸ばしていて、謎のクッションの出所は彼女なのだと察せられた。

 無表情なメリィにしては珍しく、ハッキリと憤怒をくみ取れる鋭い目つきでエレメールを睨んでいる。

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