味見……?
とっぷり日が暮れた頃、ロイは辺りに漂う温かなスープの匂いで目を覚ました。
酷く喉が渇いていて、頭も鈍く痛む。
何もせずに寝転がっていたかったが、気絶する寸前の恐怖と焦りをそのまま引き継いでいたロイはいてもたってもいられず、慌てて体を起こした。
しかし、動かすのが急すぎた上に勢いも良すぎたせいで体を持ち上げた瞬間に電気のような鋭い痛みが全身を駆け巡った。
腕や腰、背中、腹、太ももや脛なんかでは電気が滞留したようになってビリビリと痛め続ける。
ロイは思わず声無き悲鳴を上げ、悶絶しながらゆっくりと体を元の位置に戻した。
特に深手を負ったわき腹が痛んで目元に涙が浮かぶ。
少しでも痛みを逸らそうと左手で思い切りシーツを握り締める。
フーッ、フーッと苦しく歪んだ呼吸を漏らし、ギリギリと歯を食いしばって痛みが治まるまで待った。
「マジでイテェ……」
傷口を開かせぬよう、ボソボソッと低い声で文句を溢す。
起き上がった時に少しだけ見えた体中の包帯や柔らかな触り心地で全身を保温してくれるシーツ、ツンと漂う消毒液の匂い、清潔な室内。
何となく、自分が誰かに拾われて治療を施されたのだということを理解できた。
おまけに、隣からは何者かの気配を感じる。
『逃げ切れたんだよな? それにしても、誰が拾ってくれたんだ? 可愛い女の子だったらいいな、なんて』
ロイは軽口を叩けるまでに安心すると、ゆっくりと首を動かして薄目を開け、隣の人物を確認する。
目に飛び込んできたのは、熱心に読書をする女性の姿だった。
椅子にもたれかかり、澄んだ空のような瞳で真剣に紙面を追う。
室内灯に反射して輝く絹糸のような白髪が肩にかかって、ハラリと本の上に零れ落ちている。
ゆったりとした胸は大きく、全体的に緩やかな曲線で出来た体つきは異様に美しい。
神々しい絵画のような女性にロイは瞳孔を開き、ヒュッと喉を鳴らした。
ロイの全身を支配しているのは、美しい女性を目の当たりにした興奮や恋情ではない。
激しい恐怖と焦りだった。
サラサラとしていた全身からじっとりと脂汗が滲みだす。
トクントクンと鳴っていた心臓の動きが早まり、柔らかな表情が絶望に染まって硬化する。
血の気が失せて肌は青く、冷たくなっていった。
『魔族だ。それも、さっきのとは別の……』
女性の角や耳、尻尾ばかりを注視して怯える。
彼女の美しい顔つきや抜群のスタイルなど、もはや目には入らなかった。
今すぐにでも状況を捉え、逃げ出す算段をしなければならないのに脳は真っ白になり、わずかな思考部分も怯えで埋め尽くされてゆく。
『最悪だ。せっかくキチガイから逃げきれたと思ったのに』
魔族が人間に対して善意など持っているはずがない。
何の意味もなく怪我の手当てをするなど、あり得ないのだ。
きっと目の前の化け物は自分で手術、改造ごっこをして遊んでいたのだろう。
包帯の下には数刻前よりも酷い傷がついているに違いない。
女性は目を覚ましたロイに喜び、反応を見ながらグシャグシャとさらに傷を嬲って深くし、遊び倒して拷問した末に殺し、食らうつもりなのだ。
ロイの脳内では最悪の事態がギュルギュルと激しく巡っていた。
少し前に飛び出たボヤキか、あるいは彼女を見つめたまま動かない視線によってだろうか。
ロイの起床に気が付いた女性が紙面から彼へ視線を映し、無表情なままでじっと彼を見つめた。
ガラス玉のような水色の瞳には感情が映っていない。
だからこそ気味が悪くて、ロイはさらに恐怖を募らせた。
蛇に睨まれた蛙のように固まって動けなくなり、呼吸さえも止める。
それから数秒間、酷い緊張の中でにらみ合いになっていたのだが、視界の端で女性の腕がスッと持ち上がったのが見えた。
『殺される!!!』
エレメールに首を絞められた記憶がフラッシュバックする。
ドライアイになりそうなほど大きく目を見開き、瞳孔も瞳全体を覆うほど拡張させていたのだが、そうまでして見つめた女性の腕がロイの首に届くことは無かった。
女性は寝転がっているロイの胸元に顔を埋め、体重をかけぬようにしながらもフスフスと匂いを嗅ぎ始めたのだ。
また、伸ばした腕はロイの髪に置かれ、モチャモチャと撫でまわしている。
顔のすぐ近くにあるモフモフの髪からは、木のような清潔で良い香りがした。
女性の柔らかで温かな体にピシリと固まっていると、彼女が顔を上げ、無表情に自分の困惑顔を覗き込む。
それからロイが特に抵抗しないのを見ると、再び胸に顔を埋めて、今度はちゅっちゅと剥き出しになった胸元や鎖骨にキスをし始めた。
妙に鼻息が荒く、興奮がちにキスをすると、唇で鎖骨をハムハムと食んだり、跡が残らない程度に肌を吸い始めたりもする。
ピンと立ったモフモフの狼耳やパタパタと揺れる大振りの尻尾も相まって、まるで大型犬が好物を貪っているかのようだ。
『何だコイツ!! 味見か!? 気持ち悪っ!!』
純粋なつまみ食いにも映るが、様子を見ていると食事とは違う意味合いで襲われているような気もする。
魔族を刺激してはいけないと分かっているはずなのに、ロイはつい、舌打ちをしてしまった。
すると女性がビクリと肩を跳ね上げ、無表情のまま恐る恐るロイの顔を覗き込む。
ロイの嫌悪するような、あるいは困ったような表情を見つめる女性の表情は「無」だ。
しかし、大きな耳は不安がるように伏せられていて、彼の位置からは見ることの出来ない分かりやすい尻尾もしょぼんと垂れていた。
女性は無言でロイを手放し、それから大慌てでパラパラと本を捲り始める。
『なんだ、あの本。表紙に人間が描いてある?』
じっと睨みつけても表紙から内容を察したり、中身を覗いたりすることはできない。
また、仮に中を見ることができたとしても内容が魔族特有の文字で書かれているため、ロイには本の正体が何であるかを知ることはできなかった。
『人間の調理方法とか、痛めつけ方とかの本じゃないよな? いや、そんな希望的観測は無駄だ。十中八九、いたぶり方が載ってるんだろ。最悪だ』
落ち込んで目線を下げれば、ふと、鎖骨の下あたりに赤い跡がついているのが見えた。
「キスマーク? いつの間に?」
ボソッと声を出せば、女性がバッと勢いよくロイの方を振り返る。
ロイが胸元にできたキスマークを睨んだ後に女性のことも睨めば、疑われていると察したらしい彼女がブンブンと首を振り、パッと両腕を広げた。
まるで、怖くないよ! お友達だよ!! とでも言っているようだ。
大きく振られる狼尻尾も非常に白々しく、胡散臭い。
ロイがギリッと歯ぎしりをすれば、今度は耳と尻尾を同時にピンと立てて飛び上がり、大慌てで台所へと去って行った。
すぐに戻ってきた女性はお盆にスープの入った器とスプーンを一つずつ乗せている。
少し冷めたスープからはかろうじて湯気が出ている。
女性は椅子を大分ロイに近づけてから座り直し、無言でスプーンを差し出した。
スープで不機嫌なロイのご機嫌取りをしようと必死になる姿は、警戒心の高い野生動物に餌付けをする姿にも重なる。
一向に口を開く気配のないロイにスープを食べさせるため、スプーンに乗せた具材を変えたり、フーフーと冷ましたり、自分で食べてみたりして策を尽くす女性の名前はメリィだ。
彼女はひょんなことから拾ったロイに一目惚れし、彼を溺愛している。
しかし、メリィは人間の言語に詳しくない上に諸事情から言葉を発することもできない。
そのため、何とかロイから好感度を集め、条件を満たしてテレパシーの魔法を発動させることで会話を可能にしようと全力で愛情を示していた。
だが、頓珍漢な行動ばかりのメリィと魔族を心の底から嫌悪し、疑い、警戒しているロイとでは、なかなか思いが通じ合いそうにない。
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