自分の体が透明化しているのに気づかないのだろうか
仲瀬 充
自分の体が透明化しているのに気づかないのだろうか
「今日が5月7日ね」
「うん。僕たちのこと、妻にきちんと知らせるよ」
「許してもらえるかしら?」
「分かってくれると思うよ。じゃ、ここで」
駅の改札口を出てそんな言葉を交わした後、正夫と美佐子は夕暮れの街をそれぞれの自宅マンションへ向かった。
正夫がマンションのドアを開けると妻の和子が小走りに出迎えた。
「お帰りなさい。うちの両親も来てるわよ」
「お父さんには飲んでもらっててくれ。先に汗を流すから」
シャワーを浴びてダイニングルームの食卓につくと和子の母親がビールを
「1年ぶりね、正夫さん。毎日、お仕事お疲れさま」
テーブルを挟んで和子の父親はビールの入ったコップを持ち上げ、乾杯のしぐさをした。
「最近は居留守をつかうところも多いというから正夫君の仕事も大変だろう」
正夫は市内の中堅どころの工務店に勤めていて外回りの営業に出ることが多い。
「ええ。だいたいはドアホンごしに門前払いですね」
「それじゃ商売にならんだろう」
「パンフレットを郵便受けに入れる時に『外壁が少し劣化していますが今のところ問題ありません。何かあればご連絡ください』なんて手書きで書き添えたりしてます」
「それで?」
「たいていの同業者は少しのチョーキング現象やコーキングの傷みを見つけると外壁を塗り替えさせようとするんですが、僕は、まだ大丈夫と逆をいくんです。そうしたら良心的な業者だと評価されて注文が入るんですよ。去年、係長になってからは外回りはたいぶ減りましたが」
「仕事も順調ならじゃあもう心配ないな」
そう言って父親は自分の妻と娘の和子を見た。
微妙な空気になりそうなので正夫が話題を転じた。
「お父さんたちは毎日何をしてるんですか。っていうか、その、どんなふうにしてるんですか」
しどろもどろな言い方になってしまい、かえってまずいことになったと悔やんだがすぐに母親のほうが返事をした。
「何かしているとかじゃなくって、そうねえ、毎日のんびりしているわ」
父親が言葉を継いだ。
「楽しくやっとるから心配いらんよ。正夫君がわしたちのことを気にかけてくれるのは嬉しいが、かえってそれが心苦しいんだ」
父親の言葉に和子も母親も頷いた。
それきり話が途切れ、父親が帰りを気にするそぶりで壁の時計を見た。
つられて正夫も掛け時計を見上げると11時を過ぎていた。
もうあまり時間が残されていない。
正夫は椅子に座ったまま両手を膝の上に置いて居ずまいを正した。
「和子、それにお父さん、お母さん、僕には一緒になりたい女の人がいます」
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
目の前の3人、妻の和子と両親は3年前に亡くなった。
本人たちは気にしていないようだが、3人とも体がうっすらと透明化している。
この世とのつながりが希薄化していくのに比例して、会うたびに見た目の存在感も薄れてきた。
再婚話を切り出した正夫は3人の反応を確かめる前に一旦目を閉じた。
するとこれまでの3年間が目まぐるしく脳裡を去来した。
結婚後5年たって妻の和子が初めて身ごもり、その報告かたがた和子の両親のところへ5月の連休を利用して出かけた。
しかし、正夫は和子の実家に1泊すると翌日一人で引き返した。
連休の後半は在宅の家庭も多いので営業の仕事に出なければならない。
数日ゆっくりさせてから和子を送り届けるという両親の言葉に甘えて正夫は一足先に戻ったのだった。
連休明けの5月7日、高速道路は渋滞もなくスムーズに車が流れた。
それが悲劇の一因ともなったのだった。
降りる予定のインターチェンジ近くになってスピードを落とした時に事故は起きた。
和子の父親が運転する車は猛スピードで迫ってきた居眠り運転の大型トラックに追突され、前を走っていた車との間に挟まれて炎上した。
和子と両親、3人とも焼死だった。
遺族への配慮からか、救急病院の霊安室で見た3人の顔は閉じた目の周辺以外は包帯が巻かれていた。
葬儀をすませてから1年間のことは正夫にはあまり記憶がない。
フォトフレームに入れた和子の写真にしょっちゅう語りかけていたことは覚えている。
出勤する時は写真立てを下足箱の上に置いて「行ってくるよ」と声をかけ、帰宅すれば「帰ったよ」と呼びかけた。
食事の時はテーブルの上に置き、写真の中で微笑む和子にその日1日の出来事を報告しながら食事をとった。
そんな毎日を送るうちに1周忌がやってきた。
正夫は購入した小さな仏壇の前で手を合わせ、3人の冥福を長いこと祈った。
そして線香と蝋燭を消して立ち上がり振り向くと……和子たち3人が立っていた。
その時の気持ちをどう表現すればいいのか、正夫には分からない。
恐ろしくもあったし嬉しくもあった。
霊安室で対面した時と違って3人とも生前のままの姿だった。
和子の手をとってみても生身の人間に近い触感があった。
事故死だからといって私たちはあの世で苦しんでいるわけではないので安心してほしい、あなたが悲しむとこちらもつらくなる。
気が動転していたのでよく覚えていないが、そんなことを和子が話したように思う。
そうこうするうち3人は「もう帰らなければ」と言って日付が変わる12時少し前に玄関のドアを出た。
正夫は後を追ったが3人の姿は見えず、マンションの通路を吹きすぎる風に乗って「また来年ね」という和子の声が聞こえたような気がした。
職場では同僚や上司が気をつかって長期休暇を勧めてくれたが、正夫は1週間後には仕事に復帰して仕事に精を出した。
その姿は周囲の目には
正夫のそんな心中を
会社の経理を担当している美佐子がそうだった。
皮肉と言うべきか何と言うべきか、正夫の営業成績は伸びた。
仕事に取り組むひたむきな姿勢が上司の目に留まり、事故から2年近くたった4月に正夫は係長に昇進した。
それからひと月ほどして3回忌が巡ってきた。
仏教では亡くなって丸2年後の法要を3回忌と呼ぶ。
正夫がマンションに帰ると……3人が待っていた。
正夫は去年みたいには驚かなかった。
むしろ心待ちにしていた部分もある。
3人は明るく出迎えてくれたのだが、1年前と違って「影が薄い」ように感じられた。
和子の手をとってみても綿菓子を握っているような頼りなさだ。
係長になったことを報告すると3人ともたいそう喜んだ。
「管理職としての体面もあるでしょうから、正夫さん、そろそろ再婚したらどうなの」
和子の母親がそんなことまで言い出したので、正夫はドキリとして和子を見たが和子も笑顔だった。
3回忌のこの日も3人は12時に帰っていった。
正夫が見送りに出ても去年と同じようにドアの外に3人の姿はなかった。
寂しくはあるがそれでいいのだと思った。
3人とも生身の人間でこんな夜中にどこかへ歩いて帰るのであれば、そのほうが見送る側にとってはつらいだろう。
係長になってからデスクワークが多くなり、正夫は部下の持ち込む伝票等の処理のために事務室に出入りする機会が増えた。
経理担当の美佐子と正夫は同じ町に住んでいることもあって会社との行き帰りの電車内でも会話を交わすようになった。
月日がたつにつれて二人の仲が親密さを増すと、和子の写真が入ったフォトフレームは仏壇が定位置になった。
そして週末には会社がひけると正夫は美佐子のマンションに寄ってそのまま泊まるようになった。
正夫と美佐子の交際が1年を過ぎると同い年の二人の年齢は30代に入った。
男の自分はともかく美佐子の気持ちを考えて正夫は再婚を決意した。
「来週の5月7日の妻たちの命日に仏壇の前で君との結婚を認めてもらえるようにお祈りするけど、いいかな?」
これが正夫のプロポーズの言葉だった。
和子たちが命日に姿を現すことを正夫は誰にも話していない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
時間にすれば1分にも満たないだろうが3年間の回想から覚めて目を開けると和子が正夫の目をのぞきこんだ。
「一緒になりたいっていう女の人は、さっき駅で一緒にいた人でしょう?」
「えっ、見てたの?」
「うん。ここに来る時は私は最初いつも駅に行くの。電車から降りて歩いて来るあなたを見つけるのが好きだから」
和子のいじらしさに胸が締めつけられ正夫は再婚話を持ち出したことを後悔する気持ちさえ湧いてきた。
するとそれを察したかのように和子が言った。
「よさそうな人ね。私も安心だわ」
それでも正夫が何も言えずにいると和子は話を続けた。
「むこうの世界では人間的な感情はあんまりないの。だいいち、姿かたちもないんだから。こんなふうに生きてた時の姿になるのは念を集中するみたいなことをしなきゃならないのよ。それももう難しくなっちゃって、だいぶ雑になってるでしょ? さっきお母さんが言ったようにむこうではほんわかした気分でいるんだけど、気を悪くしないで聞いてね、あなたが私のことを思って呼びかけたりすると気持ちよく寝ている時に起こされたような感じになるの。嬉しくもあるんだけど」
最後は付けたしみたいにも聞こえたが母親が和子の話を引き取って言った。
「和子の言うとおりよ。正夫さんが再婚して幸せになってくれることが私たちにとってもありがたいことなんだから」
12時近くになるとやはり3人は腰を上げた。
「和子がこれまで世話になった。ありがとう。もう会うこともないだろうが正夫君も元気で」
和子の父親はそう言って母親と一緒に外へ出た。
続いて和子が「じゃあね」とドアのノブに手をかけた時、正夫は和子の名を呼んだ。
振り向いた和子の背に正夫は腕を回した。
すると正夫の両腕はしっかりと和子の体を抱きすくめることができた。
最後の最後に和子が念を凝集させてくれたのだろう。
時計の針が12時を回った。
正夫の腕の中で和子はふうっと消えた。
正夫は急いでドアを開けて外の通路へ出た。
和子の姿も両親の姿も見えなかった。
ただ、和子が正夫の腕の中で消える時に吐息のように漏らした言葉の響きが夜気の中に漂っていた。
「好きよ……」
6月に入って正夫はマンションを引き払った。
和子との思い出につながるものは仏壇以外すべて処分して美佐子のマンションに移り、二人は入籍をすませた。
美佐子との新しい日々が始まり毎日が穏やかに過ぎていく。
正夫は和子の
それ以外には和子のことを思い起こすことがほとんどなくなっていることに思い至ると正夫は胸が痛むのだった。
そんな時は記憶を薄れさせまいとするかのように和子の残した最後の言葉が正夫の胸によみがえる。
「好きよ……」
やがて年度が替わり、事故から4年目の
自分では意識していないつもりなのに正夫の胸はかすかに波立ち始めた。
一つベッドで横になっても正夫は時折小さなため息をついたりする。
そんなようすに美佐子が気づかないはずはない。
「もうすぐ4年になるのね。まだ思い出してつらいんでしょう?」
「え? ああ、いや、そうでもないんだけどね」
「私に気をつかわなくていいのよ。和子さんのこと、無理に忘れようとしないで」
美佐子は正夫の肩先に顔を寄せた。
「Time goes byよ、時間が解決してくれるまで私、気長に待つわ」
正夫は美佐子の髪をなでながら冗談めかして言った。
「そんなこと言うとた
「いじわるな上に下手くそね。君、おばあちゃんになっちゃうぞって言えばいいのに」
そう言って美佐子はふふっと笑って目を閉じた。
その眼尻から涙が
命日の5月7日の夜、美佐子は先に休み正夫は眠れないままリビングでウィスキーのグラスを傾けていた。
12時近くになって「やっぱり来なかったな」と思っていると、開け放してある窓からの風がカーテンを大きく揺らした。
すると、その風に乗って1枚の紙きれがひらひらと正夫の前に舞い落ちた。
見覚えのある和子の筆跡だった。
「お元気のことと思います。もうあなたの前に姿を現すことはありませんが、一つだけお願いがあってお便りします。『去る者は日々に
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
読み終えた時、ちょうど時計の針が12時を指した。
すると、それが合図であるかのように手紙は少しずつ透けていき、消滅した。
正夫はグラスを手にしてウィスキーを口に含み目を閉じた。
心の中は自分でも不思議なほど静かだった。
グラスを重ねていると夜明けにはまだ間があるのに複数台のバイクの音が路上に聞こえる。
マンションの近くの新聞販売店に集まる配達員たちだ。
広告チラシを折り込んだらそれぞれの受け持ち区域へ出発していくだろう。
もうすぐ日が昇り今日という1日が始まるのだ。
そんな当たり前のことを思った時、わけもなく涙があふれた。
空がわずかに白み始めた頃、正夫は寝室のベッドに入り美佐子の側に身を横たえた。
眠っていても気配を感じるのか、美佐子が寝返りをうち、いつものように正夫の肩先に顔を預けた。
正夫は小さな寝息を立てている美佐子の肩を壊れやすい宝物に触れるかのようにそっと抱いた。
自分の体が透明化しているのに気づかないのだろうか 仲瀬 充 @imutake73
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