第108話 選択

 逃げてもいいよね、と私は思った。

 だって私の人生は――。

 今の私は、逃げて逃げて、逃げた先に生まれたものだ。

 だから今を逃げても、また私には道が生まれる。

 緊急帰投――。

 そのスキルを発動させれば、私はたちどころに、安全な場所に行ける。

 この絶望的な光の化身との戦いから離れて――。

 平和な日常に戻れるのだ。

 平和な日常にさえ戻れれば、私の人生は約束されている。

 私はなんと、自分でもびっくりだけど……。

 億り人、なのだ。

 億の単位のお金を手に入れて――。

 何もしなくしても、ずーっと部屋にいてゲームをしているだけでも――。

 いや、うん。

 配信はするけどねっ!

 ゲーム配信を楽しくしているだけでも、私は生きていける。


 そう。


 私はすでに、完成させたのだ。

 カメでもスライムでもいい、平和な人生を。


 こっそり異世界に渡って、こっそり魔石をゲットして――。

 それを現代世界で売って――。


 そうすれば、それだけで、人生に不自由することはない。

 自由に生きられるのだ。


 無理はいらない。

 無茶もいらない。

 無謀なんて、する必要もない。


 怠惰だけで生きていける。


 そう。


 私はすでに勝ち組なのだ。


 何ひとつ、冒険なんて、する必要はない。


 何もしなくてもいいのだ。


 だから「緊急帰投」して、あとは、すべては夢だったと思って――。

 のんびりと暮らそう。


 私はそう思った。


 冷静にそう考えて、緊急帰投するかとの問いかけに――。


 はい。


 と、答えようと思った。


 答えるべきだと思った。


 だけど、私は――。


 いったい、私はどうしてしまったんだろう――。


 なぜか不思議なことに――。


 気がつけば私は、ここまでの私を支えてくれていた最強のスキル――。


 スキル『平常心』を、オフにしていた。


 当然――。


 当たり前だけど、そのスキルをオフにした途端――。


 私の心には恐怖と不安が吹き荒れた。


 それは気を狂わせそうになるほどの暴風だった。


 だけど、私はそうしたのだ。


 だって――。


 ここで逃げることは、冷静な判断の下に離脱を選ぶことは――。

 私にとっては最善でも――。

 石木さんを見捨てることと同じだ。

 異世界に暮らすたくさんの人たち、特に魔族の人たちを見捨てることと同じだ。


 それでいいのだろうか。

 と思ったのだ。


 でも、冷静に考えれば、いいのだと思う。

 だって、ここは異世界。

 私の暮らす世界とは、別の世界だ。

 ここに暮らす人たちは、私とは本来であれば関係のない人たちなのだ。

 私には関係ない。


 そもそも魔族の人たちが善か悪かもわからない。


 まずニンゲンからすれば、完全に悪だ。

 それは当然だろう。

 アンタンタラスさんなんて、ひとつの国を滅ぼしたというし。


 だけど魔族から見れば、どうなんだろうか。

 私には、未だによくわからないけど。

 ウルミアもフレインも、友達になれそうな、気持ちのいい子だった。

 純粋な悪には感じられなかった。


 だからこそ――。


 私は、恐怖と不安に押し潰されそうになる中――。


 緊急帰投の選択を――。


 いいえ。


 と答えた。


「……あはは。バカだなぁ。なにやってるのかなぁ」


 自分の選択に、思わず失笑する。

 それは自殺と同じだ。

 なぜなら私のMPは、すでに枯渇寸前だ。

 これ以上は戦えないのだから。


 でも、私の脳裏には、今までの私が映し出されていた。

 逃げてばかりだった自分だ。

 私は今まで、なにも戦うことができなくて――。


 なにを言われても。

 なにをされても。


 へらへらと笑って、なんでもないことみたいに受け流そうとして。


 ああ……。


 勝手に浮かんでくる映像だけで、私は気が狂いそうになる。

 それは悪意の、巨大な渦だった。


 思い出すだけで、私はその渦に飲み込まれる。


 私にとっての悪は――。


 先生とは仲良く、クラスメイトとも仲良く――。

 だれとも仲良くしつつ――。

 でも影で、私には狂気を向けてくる――。

 そんな優等生たちだった。


 抗ったところで、私が悪役にされるだけの、それは正義の存在だった――。

 だって私は、暗いだけの子だった。

 ただの闇だったのだ。

 だから私は正義の味方なんて信じてはいない。


 私はよく覚えている。

 勇気を振り絞って、傷つけられているという被害を訴えた私を――。

 必死の私を見下した――。

 当時の先生の眼差しは――。

 本当に冷たい、うんざりしたようなものだった。

 その時に私は悟った。

 私は先生にとって、単なる迷惑者なのだと。

 先生や学校はいつも、何かあれば言うようにと言っていたけど――。

 味方になると言っていたけど――。

 それは私に対しての言葉ではなかったのだ。


 いや、うん……。


 少しは違うと、わかってもいる。


 お父さんもお母さんも、それにヒロも、嫌がらせを受け続けて元気のなくなっていく私の姿に心配はしてくれていた。

 相談すれば――。

 力になってくれたのだと思う。


 だけど、だからこそ、そんな家族を迷惑者にはできなかった。


 特にヒロなんて優等生だったし。

 正義の側にいられていたのだし。


 だから私は1人を選んだ。

 ごまかして笑って、私は1人になるしかなかったのだ。

 1人になることを選択するしか他に道はなかったのだ。


 だけど……。


 今の私は、今の私なら……。


 1人でも戦える。


 家に引きこもって、すべてを投げ出すことしかできなかった私ではない。


 すべては、ただ、幸運にも、もらっただけの力だけど――。


 私は1人でも戦えるのだ。


 蹴ることのできる足も、殴ることのできる拳も。

 敵の懐に飛び込むだけの体もある。


 億り人になって、平和に怠惰に……。

 お姉様と呼ばれて生きる人生もいいなーとは思っていたけど……。


「まあ、いいよね」


 死ぬまで戦うのも最高に思えた。

 なぜなら、私は戦えるから。

 今の私なら――。

 最後の最後まで戦えば、きっと必ず眼前の敵に勝つことはできる。

 そんな可能性も感じていた。


 だから、やる。


 私はアイテムBOXから漆黒のハルバードを取り出す。


 最後の魔力をすべて刃に集めて――。


 私が何なのかとか。

 そんなことは、もうどうでもいい。


 今は、私の心だけがすべてだ。

 私の決意に呼応して、「自動反応」はオフになった。


 今、この目の前で――。

 私のことを友達と言ってくれた魔の存在を葬ろうとしている――。

 光の化身とやらを――。

 この私の魂の一撃で、倒してやろうと思った。


 私は一気に距離を詰めて、渾身の力でハルバードを振るった。

 斧の刃が光の化身の首を捉えた。


 押し込む。


 サイズ的に切断は無理だとしても、闇の力を叩き込めば倒せるはずだ。


 獣が悲鳴を上げる。

 体に亀裂の走っていくのが見えた。


 届いている!


 いける!


「とどけぇぇぇぇぇ! 私のチカラぁぁぁぁぁぁぁ!」


 叫んで――。


 最後の力を振り絞った。


 魔力がゼロになる。


 どうだ……?


 ああ……。


 苦しみ悶えつつも、光の獣が咆哮を上げた。


 どうやら――。


 駄目だったようだ……。


 ただ、まだ『フライ』の魔法は効いている。

 体も動いた。

 魔力は切れたけど、もうワンアクション、何かすることはできそうだ。


 私は夜空を見上げて――。

 それから眼下に視線を落とした。


 眼下にはドーナツ状に広がるたくさんの浮遊島と――。

 その中央に暗闇があった。

 たしか、そこは無の領域。

 魔力が効かなくて、落ちたら出てこれないブラックホールのような空間だという。

 まあ、いいか。

 多分、それでも『緊急帰投』はできるだろう。

 できなければ、この体をファーエイルさんに返すことになるだけ――。

 だろう。


 私は光の獣の首にしっかりと抱きついた。


 光の獣はまだ動いているけど、その力は明らかに弱まっている。


 ああ、私は何をしているのか……。

 どうしてこんなにも必死なんだろうねえ……。


 そんな自嘲をしつつも――。


 私は光の獣を道連れにして、無の領域への墜落を決めた。

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