第6話 安楽死

 死刑執行には、あまりにも人数が多いということで、刑務大臣は、

「なるべく人を殺す人間を減らしたい」

 と考えていた。

 実は、今の死刑囚という人間の人数は、実際の刑務の数と、白書に報告されている数とでは、若干違っているのだ。

 実際の数の方が、死刑囚と記された人の数よりも多いのだった。

 そこで、

「少しでも、数を少なくすることができるのだろうか?」

 ということであり、そこで考えられたのが、

「皆同じ顔にしてしまうと、数をごまかせる」

 という、まるで小学生のような発想であったが、刑務大臣は、そんなことを考えていた。

 だが、その研究を、別の意味で行っていたのが、黒岩博士だった。

 彼は、

「人間というものが、同じ顔になると、どういう心境になるのだろうか?」

 という研究を考えていた。

 これを知っている人はほとんどおらず、大学でも一部の人間が知っているだけだった。

 もちろん、

「そんなことが、国家を通してできるわけはない」

 ということで、

「机上の空論だ」

 ということで考えられていたが、黒岩博士と、大門博士は、正直、

「できないわけはない」

 とまで思っていた。

 大門博士というのは、黒岩博士に比べると、かなり年齢が若い。まだ40前であったが、すでに博士号を取得していて、黒岩博士のグループの中でも、

「天才肌」

 として、他の人と、明らかに違った頭を持っていたのだった。

 そんな彼の閃きというのは、黒岩博士も、

「私にも及ばない」

 と言われたほどで、

 黒岩博士も、最高国家機密と言われていたが、このことを話したのは、大門博士だけであった。

 大門博士の、

「口の堅さ」

 というのは、すべての人に定評があるといってもいいだろう。

「黒岩博士が、自分を信じてくれている」

 ということに恩義もあるのだが、

「ここで誰かにばらしたりすれば、せっかくの自分の研究が水泡に帰する」

 ということが分かっているので、

「絶対に、誰にも話すことはない」

 といえるだろう。

 それを考えると、黒岩博士は、

「絶対的に信じられるのは、大門博士だけで、それ以外の人は、信じてはいけない」

 ということになることを分かっていた。

 黒岩博士は、大門博士に、今回のことを話すと、大門博士から、提案があった。

「死刑囚の顔を皆同じにしてしまってはいかがでしょう?」

 という。

「どうせ、彼らは長い命ではないのだから、せっかくなら、研究材料になってもらおう」

 ということだったのだ。

 これが普通であれば、

「人権問題」

 ということで、問題になるのだろうが、

「しょせんは、死刑囚」

 その考えが、心理学者には、蔓延っているのだった。

 法律的に、問題となっているのが、どこの世界の、どの国でも、一度は大いに問題となり、議論されることとして、

「安楽死」

 という問題があるだろう。

「不治の病」

 と呼ばれるものであったり、

「交通事故」

 などに遭ったことで、いわゆる、

「植物人間」

 と言われるものになった場合、その人は、基本的には、

「意識が戻ることはないと思われるが、死んでいるわけではない」

 という状態である。

「死んではいないが、生きているわけでもない」

 ということで、生かされているのは、

「人工呼吸器」

 などというものを中心とした、

「生命維持装置」

 というもので、生かされているだけである。

 医者も、

「いつ目を覚ますか分かりません。このままということも十分にあります」

 と言われて、生命維持装置などの説明を受け、さらに、

「治療の施しようがありません」

 ということを言われるのだ。

「治療の施しようがない」

 ということをいわれると、

「ああ、このまま、死んでしまうということが目の前に迫っている」

 ということで、その人を死を受け入れることで、そこから先の覚悟ができてきて、先に進めるということになるのだ。

 しかし、

「植物人間」

 ということになれば、

「いつ、目が覚めるとも知れない」

「目が覚めないかも知れない」

 そんなことを考えると、普通であれば、

「安楽死」

 というものを考えるであろう。

 確かに生かしておけば、そのまま生きられるかも知れないが、だからといって、蘇生する可能性がほとんどなく、さらに、生命維持装置を使うということは、それだけ、費用も掛かるということで、下手をすれば、

「保険で賄えないかも知れない」

 といえるだろう。

 しかし、法律では、

「安楽死」

 というものは、基本的に認められていない。

 いろいろな国で、たくさんの条件を組み合わせて、それに引っかかれば、安楽死を認めることもあるだろう。

 しかし、実際に、安楽死というものは、基本的には認められておらず、

「いくら金が掛かろうとも、生命維持装置を外すということは、それは殺人罪に抵触するのではないか?」

 と言われているのだった。

 実際に、家族が生命維持装置を外したり、医者が、その役を引き受けるなどということで、医者は、

「医師免許はく奪」

 さらには、

「殺人犯」

 として、収監されるというようなことにもなりかねないのだ。

「一時の感情で、維持装置を外した」

 といえるのだろうか?

 人間には、生きるという権利があるのだから、

「死にたい時に死ぬ」

 という権利はないのだろうか?

 家族が苦しんでいるにも関わらず、安楽死が認められないというのは、本当にありなのだろうか?

 そんな時に考えられたのが、

「顔の整形」

 という考え方であった。

 死んだ人間を、

「別人」

 ということで、葬るということであるが、

「いくらなんでも、写真もあれば、家族もいるだろうから、そんなことはできないのではないか?」

 ということであった。

 しかし、

「植物人間になった人が、そのまま生きているということは、誰に対しても、損になるとしかいえないだろう」

 ということである。

 家族であっても、恋人であっても、

「葬ってあげて、弔ってあげることが、本人のためであり、まわりの人間の覚悟と、先に進むということで、何が悪いというのか?」

 ということであった。

 確かに、生前から、

「本人の意思」

 ということで、

「自分が植物人間になったら」

 ということを、まるで、

「遺言のように書き残しておくこと」

 がまずは、最低条件であり、

 今のような、

「脳死」

 というものではなく、

「心臓が停止した時点で、植物人間化することが分かっていて、2、3日経って、回復の見込みがないということが分かると、安楽死を認める」

 というような国は、結構あるのだ。

 だが、この国では、今のところ、

「安楽死に対しては、まったく認められていない」

 ということであった。

 どうやら、国民性なのか、

「人を殺す」

 ということに対して、非常に敏感になっているといえるのではないだろうか?

「死刑囚」

 に関しては、

「刑務大臣」

 の勝手な言い分から、死刑が執行されなかったということなのだが、安楽死に関しては、何が原因なのか、正直分からない。

「刑務大臣と安楽死」

 という関係は、正直何もないといってもいいだろう。

 ただ、安楽死をしないまでも、

「脳死」

 ということになった場合の、

「内臓移植」

 ということに関しては、この国は、充実していた。

 他の国でも、内臓移植に関しては、かなり進んでいるのだが、一番最初に内臓移植を行ったのは、この国であり、

「生きている人間に対しての尊厳」

 というのは、どの国よりも大切なことであった。

 しかし、

「死んでいく人に対しての尊厳というものに関しては、あまり進んでいない」

 それはやはり、

「安楽死」

 であったり、

「尊厳死」

 というものに対しての理解がされていないということになるのであろう。

 そもそも、この国では、

「安楽死」

 というものを、

「尊厳死」

 だとは考えていない。

 安楽死というのは、あくまでも、植物人間になった人に対してというよりも、そのまわりの家族が金銭的な苦しさに負けて、

「生命維持装置を外す」

 ということが、一番の理由だと考えられているので、

「それは許されない」

 という考えだった。

 ここは、法律にかかわることなので、その問題に関しては、

「刑務大臣預かり」

 ということになるのだった。

 しかし、それ以外のこととして、

「尊厳死」

 というのは、

「心臓停止」

 と、

「脳死」

 との間を、いかに考えればいいのか?

 ということになるのだ。

 他の国では、尊厳死というのは、安楽死と同じものだと考えることで、その結論が難しくなるのだが、この国では、

「別物」

 と考えておきながら、

「刑務大臣という人種が関わってくるから、ややこしくなるんだ」

 と言われるのだった。

 それは、死刑囚に対しての扱いにも似たもので、

 実際には、

「死刑執行に判を押すのは嫌だ」

 というよりも、もっと卑劣な考えで、

「この俺が、死刑囚と関わらなければいいけないのは嫌だ。下手に死刑執行して、自分が呪われたり、祟られたりするのは、困る」

 ということであった。

 以前、死刑執行を行おうとして、今では廃止された、

「電気椅子」

 というものがあったのだが、

「その電気椅子が、水に濡れていた」

 という初歩的なミスで、電流が流れた瞬間に、

「火花が散り、死刑囚が燃え出した」

 ということが起こったのだ。

 それも、死刑囚は一瞬にして死ぬというのが電気椅子だったのだが、放電してしまったことで、なかなか死ぬことができず、しかも、身体が燃えている状態になったので、その刑場は、

「地獄絵図」

 となったのだった。

 そこにいた人たちは、誰も口を開くことはない。まわりの人が驚いて、水をぶっかけたが、火が消えるわけではなく、結局、身体が燃えつきるまで、死刑囚は、苦しみ抜いたということであった。

 刑務大臣は、ちょうどその日、別の場所にいたので、遅れてきたことで、時間に間に合わなかった。

 そのために、刑務大臣は、

「後からその話を聞いたので、悲惨な状況は見なかった」

 ということなのだが、

「聞いた話で想像する方が、相当きつい内容で、それだけに、本人にとって、トラウマになったので、死刑執行には、二の足を踏むというのも当たり前のことであった。

「死刑執行」

 と、

「安楽死」

 との関係というと、これまでは、

「まったく関係のないもの」

 ということになっていたが、

「死刑廃止」

 という法案が通ったことで、

「安楽死」

 さらには、

「尊厳死」

 という考え方が、クローズアップされてきたのであった。

 そもそも、

「安楽死と尊厳死」

 ということの違いというものが、

「人間は、生まれる時を選ぶことはできないが、死ぬ時を選ぶこともできない」

 と言われたのは、

「尊厳死」

 というものを考えた時のことだった。

 確かに、

「生まれる時を選べない」

 というのは、同意語として、

「親を選べない」

 ということであり、

 民主主義の理念として、よく言われることとして、

「人間は、生まれながらに平等だ」

 ということであるが、実際には、

「どの親から生まれるかを選べない」

 ということで、

「本当に民主主義は平等なのだろうか?」

 ということになるのであった。

 民主主義というものが、いかに曖昧ものかというと、

「誰から生まれるか、それは運でしかない」

 ということになると、元々の。

「平等」

 という言葉の意味も分かったものではない。

 それを考えると、

「個人単位での平等というのは、いくら民主主義であっても、叶えることはできない」

 ということで、それこそが、

「民主主義の限界」

 だといえるのではないだろうか?

 よく言われる、

「民主主義の限界」

 というと、民主主義の理論としての、考え方として、

「多数決」

 であったり、

「個人の自由」

 というものをどこまで認めるか?

 ということになるのだ。

 法律において、よく問題になるのは、

「公共の福祉、占領な風俗」

 という大きな単位では、よく言われることである。

「公共の福祉」

 が、

「個人の自由」

 というものを凌駕する。

 といってもいいのではないだろうか?

「個人と公共で考えれば、公共が勝つ」

 という理屈は、民主主義の理論である、

「公共の福祉」

 というものが生きるということになるのであった。


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