第5話 死刑廃止の罠
死刑執行が廃止になるということは、それほど珍しいことではない。この国において、
「死刑執行の廃止」
というのが認められたのは、
「世界の風潮に則って」
ということを言われるようになった。
確かに、その通りなのだが、
「国々によって、その発想は違っている」
ここは、
「微妙に違っているわけではなく、その国の事情であったり、思惑が含まれているのだ」
その中には、
「致し方ない」
という事情があるところもあり、そこには、
「世論」
であったり、それを突き動かすについての、
「マスゴミ」
というようなものが影響していたりする。
前述の、
「世界的なパンデミック」
というのは、何も他の世界だけの出来事ではなく、この世界においても、問題となることだってあるのだった、
例えば、問題となった
「オリンピック問題」
においても、マスゴミの罪は大きいといえるだあろう。
そもそも、
「世界駅なパンデミック」
というものに対して、世間を惑わし、さらに、世間を誘発することで、政府の政策を狂わせた責任は、
「マスゴミにある」
といってもいいだろう。
だから、この国では、マスコミのことをマスゴミと呼ぶようにしている。そもそも、マスゴミの罪は、まだまだ続いていて、今の国家が、かつての、
「独裁国家」
と言われた国に似てきていることを、誰もわかっていないのか、
それは、戦争をしている国の一方に加担し、土地の呼びかたまで、まったく変えてしまうというようなやり方をしてみたりと、
「国家体制」
というものに、興味をもっていなかった人も、今回の、
「世界的なパンデミック」
というものに直面したことで、
「政治の大切さ」
というものが、少しずつ分かってきているようだった。
それまで、
「歴史というものは、暗記物で、何を必死に勉強しなければいけないのか?」
ということで、ハッキリと分かっていなかったのだ。
だが、今の時代において、そんな時代錯誤の考え方は、
「きっと、学校では、その面白さというものを、誰も教えてくれていない」
ということから来るのだろう。
「戦争も、パンデミックも、歴史が出した答えなんだ」
と言っていた人がいたが、その言葉の本当の意味が正直分かっていない。
なぜなら、歴史の勉強というものを、一生懸命にしてこなかったからだ。
「少しでも味目に取り組もう」
とさえ思っていれば、歴史というものが、いかに自分を楽しませてくれるかということが分かるというものだ。
「学校では教えない歴史」
という本を見たことがあったが、
「まさしく、その通りなんだろうな」
ということであった。
そんな中で、大学において、黒岩博士が研究している、
「皆同じ顔にすれば」
という研究であるが、その研究において、その根拠となる考え方が、
「バーナム効果」
というものであった。
この考え方は実に面白いもので、別の世界でも、似たようなものはあった。
しかも、同じ名前だというからすごいではないか。
「あちらの世界にも、同じ名前の人がいるということなのだろう」
と思っていた。
ただ、面白いのは、この、
「バーナム」
というのは、この世界では、
「それを発見した心理学者の名前」
という、普通のつけ方をしているのに対し、別の世界えは、
「その名前の下になった、
「興行師」
の名前だというのが興味深いところえあった。
同じ発想の研究が、別の世界でも行われていて、同じ名前であるにも関わらず、その名前の主の立場が変わっているというのは、実に面白いことだ。
しかも、そのことは、
「栗輪博士にはわかっていた」
ということであった。
黒岩博士は、この世界で、
「パラレルワールド」
というものが存在しているということが、証明される前に、分かっていたことだった。そのことを研究している学者とは知り合いだったこともあり、学生時代から、
「パラレルワールド」
についての話は、結構していたのであった。
だから、
「いずれ、パラレルワールドに対して証明される」
ということもわかっていたし、それを助言したのが自分であることもわかっていた。
しかし、だからといって、
「共同研究」
ということにするつもりはなく、
「この研究は、彼に任せているから」
といって、手柄のおこぼれを貰う気は、サラサラなかったのだ。
しかし、その考えが、
「自分が研究している心理学的な発想に役立つことになる」
と信じていて。
「パラレルワールド」
の存在というよりも、
「向こうの世界で考えられていることを、自分の中で、いかに癇癪するか?」
ということになることを気にしていたのだ。
そして、
「パラレルワールド」
というものの定義が発見され、その存在が学会をはじめ、この世界の全員に、認知されたことで、博士自身も、
「私の考えは間違っていなかった」
ということが証明されたのだった。
黒岩博士n、助手が多いのも、最初は、大学のゼミ生でしかなかったのだが、皆、博士陶酔しているというのか、その考え方に魅了され、
「博士の右腕になりたい」
と思って、慕ってきているということえあった。
黒岩博士は、そんな中で、前述の、
「日本」
という国を含む世界に注目していた。
そして、その日本という国が、自分の研究に、大いに役立つということが分かってエイルのであった。
その日本という国を考えることが、
「私の研究を正しくするものだ」
といえるのだった。
ただ、世界において、この、
「日本」
という国は、中心にいるわけではない。
どちらかというと、異端な国であり、ただ、世界の中でいえば、
「立地的に幸運な国」
といってもよく、
「自分たちから自覚して進むということがなければ、一度滅ぶということもなかっただろう」
と考えている、
そして。その日本という国は、
「我が国と似ているところがある」
と考えていた。
しかし、近いといっても、
「その距離は、全体から見て近いということであり、実際には、その距離は、気が遠くなりそうな距離であり、普通に考えたのであれば、その間を取り持つということなどありえない」
ということになるであろう。
それを、博士は、理解できているように思えた。
それはあくまでも、
「我々が、別の世界の人間である」
ということが大前提になっているからであり、その考えがなければ、
「日本という国に注目することもなかったに違いない」
博士が、
「パラレルワールドというものを知ったから、日本に注目した」
ということなのか、
「日本という国を知る前から、そういう国があることを、自分の中で想像していて、パラレルワールドが証明され、日本という国の輪郭が分かってきたから、実際に、日本の本質が分かってきた」
といってもいいだろう。
そういう意味で、
「民本という国が、我が国の盛衰を左右しているのかも知れない」
と考えていた。
日本という国をいかに考えるかというと、
「歴史という面で見れば、心理学に近づくことができる」
というものだった。
「歴史が答えを出してくれる」
ということを、日本という国では、時代の節々において言われているが、
それはあくまでも、自分の仲間であったり、自分の考えを皆に浸透させるためのもので、
「決して、歴史が答えなど出してくれるわけはない」
ということが分かっているのであった。
「口にしている人間が、一番よく分かっている」
というのは、日本という国では当たり前のことのようだが、こっちの世界では、それを信じている人はなかなかいない。
ということであった。
それを信じている人は、本当であれば、
「科学者としては、あるまじき考えだ」
と言われているのであって、そんなことを口にしたりすれば、警察がすぐに取り締まりに来る。
それだけ、ここの警察は、
「公共の福祉」
というものに特化していて、個人を尊重してしまうと、解決までに時間がかかるだけで、けっして、その証明を受けることはないということになる。
だから、
「裁判の簡易結審」
というのも、その一環であり、
その考えが、この国での、
「バーナム効果」
という考えにいたることになったのだ。
「日本」
という国のある世界では、
「バーナム効果」
というのは、あまりいい言葉ではないようだ。
占いであったりという、
「他力本願」
というものの中で、どちらかというと、宗教色に近いものが、この、
「バーナム効果」
だったのだ。
つまり、
「誰にでも当てはまるようなことを、さもその人だけにしか当て嵌まらないような言い方をすることで、心理的なミスリードを生み出すことになる」
というのが、
「バーナム効果」
という心理学的な発見であった。
だから、これは、
「あちらの世界」
では、
「バーナム効果」
というものは、
「霊感商法」
などという詐欺商法に使われることが多く、あちらの世界では、あまりいいイメージがなおのであった。
「人間というのは、信じる相手のいうことには、どんなことがあっても、逆らえない」
という考えがある。
それをいったん信じてしまうと、疑うことを知らない。
それだけ、考えかたが、まっすぐで一直線なのだろうが、それを考えると、
「信じるものは、救われる」
という宗教的な発想に近いのではないだろうか?
つまり、
「信じる」
ということが、美徳とされ、それがゆえに、
「騙されたとしても、信じたほうが悪い」
あるいは、
「信じ込ませよう」
とする方が、頭がよく、賢いということになり、いくらモラルに反するといっても、結局、
「悪いのは、自分なんだ」
ということで、泣き寝入りということも少なくはない。
だが、それも、時代とともに、そんな
「霊感照応」
というものが悪いことだ。
といって、考えるようになった。
それまで、なぜ、被害者というものに、冷たかったのかというと、そこには、
「政府と宗教の癒着」
というものが蠢いていたからだった。
そもそも、新しい民主主義憲法では、
「政教分離」
ということがいわれてたはずだった。
しかし、実際には、そんな、新しい民主主義憲法ができてから、それほど間のない時期から、
「政治と宗教の癒着」
というのが、水面下で進められていた。
それこそ、
「裏取引」
のようなもので、実は占領軍もわかっていた節がある。
ただ、それでも、
「利用する方が得だ」
ということで、大きな問題にしないことで、ずっと国民も、マスゴミもごまかされてきたのだろう。
いや、マスゴミはわかっていたかも知れない。
それが暴露されれば、国家転覆になりかねない。
ということも言われていた。
せっかく復興という、国民一丸となっての大事業を、途中でやめてしまうと、日本という国は、行き場を失ってしまい、滅亡の一途だったからであろう、
さすがに、それを助長するだけのバカでは、マスコミもなかったということであろう。ただそのせいで、民衆というものが、騙される形になったのだが、それは致し方のないことだ。
だが、そのせいで、やつらは、野放しにされてきて、
「政府の庇護の下、着実に、裏祖粋としてのし上がってきた」
といえるのだろう。
そんな宗教が、日本という国で、50年近くも幅を利かせてきた。
その間には、宗教問題ということで、
「世間を騒がせたものも少なくはなかった」
一つが何とか解決しても、その後から、次々に湧いてくる。宗教音大。
本当は、同時多発的に起こった問題ではなるのだろうが、一つのその時に強い勢力だけが表に出て、その勢力を社会問題にすることで、
「悪は必ず滅びる」
という発想からか、その世界において、
「一つ一つが、潰されていく」
ということになるのだった。
日本という国が、それをわかっているのか、
「政治家が、宗教と手を握っている」
などということは、分かっていないのかも知れない。
そもそも、
「政教分離」
という考えかたからいけば、
「存在してはいけない政党」
というものがあった。
最初こそ、
「野党」
さらに、下からか終えればいいところであったのだが、それが、甘んじてその位置にいたのは、
「政府与党が強い存在だった」
からである。
途中から、政党がまるで、湧いてくるかのように、生まれてくると、政府与党の力というのが、少しずつ薄れていった。
気が付いた時には、あいぶ遅かったようで、すでに、
「連立を組まなければ、政権を維持できない」
というところまで来たのだ。
その党は、正直、政府与党とは、どうしても馴染めないところがあった、
にも関わらず、連立を組むということになったのは、
「組織票がほしい」
というだけのことだった。
その組織票というのが、宗教団体であり、
「そこが票をくれるので、安心して、政治ができる」
ということであった。
それまでは、他の野党と連立を組んだりしてみたが、
「一度だけ」
ということで、二度と一度組んだところとは組まなかった。
それだけ、その考え方が、かけ離れているかということであった。
与党の連中も、
「裏には、宗教がある」
ということは分かっている。
ただ、
「なぜ、裏に宗教が絡んでいるのに、誰も意義を申し立てないのか?」
ということを、真剣に考えようとしないのかということである、
それは、政府与党の政治家が、
「新憲法ができてからも、宗教団体と裏取引をしていることから、大っぴらに、その党を批判できないからだ」
ということであった。
「国民には分からないところで、政府はその問題を抱えているのだが、結局、なあなあになることで、感覚がマヒしてきて、宗教団体の党を許可してしまう」
ということになるのだった。
だから、政党の下にある宗教団体と手を組むことが悪いことではないと思っていて。しかも、その資金を与えてくれるのは、
「別の宗教だということで、ある意味、まったく別の宗教が、政治という隠れ蓑で手を結んでいる」
といってもいいのかも知れない。
そんなことを考えていると、
宗教団体は、政府の政治家に対しては、金をばらまき、そして、そのお金の出どころは、ハッキリとはしないと言われているが、黒岩博士が調べたところによると、
「霊感商法でしかない」
ということであった。
悲しいかな、日本という国には、
「黒岩博士」
は存在していない、
しかも、
「政治家を糾弾するという特殊組織は存在しない」
ということであった。
黒岩博士の世界では、戦前から、
「政治家を糾弾する」
という特殊警察が存在した。
だから、誰もが、政府を批判することもできるし、それが事実であれば、国民が十分な証人にもなれるということで、下手をすれば、
「一人の国民に、政府が、総辞職に追いこまれる」
ということになるといってもいいだろう。
ただ、日本という国にはそれはなく、
「どうしても、水面下に潜りこまれると、よほどの何かがなければ、表に出てこない」
ということであろう。
だが、その、
「何か」
というものが、日本という国に起こったのだ。
それというのが、
「元ソーリ暗殺事件」
というものだった。
その暗殺されたソーリは、その宗教団体の被害者である男から、
「逆恨みを受けて」
という暗殺だと言われているが、本当にそうであろうか?
実際に、どこまで暗殺計画がうまく行っていたのか、それも分からないところであり、ただ、その男が暗殺事件を起こしてくれたことで、
「政治家と、宗教団体の癒着」
ということが明るみになったのだ。
その団体は、20年くらい前から、
「霊感商法」
などという、明らかな、
「詐欺集団である」
という認識があったのに、どうも、捜査は鈍かったようだ、
それもそのはず、
「政府と癒着があったのだから、それも当たり前だ」
といえるだろう。
そんな世界をいかに誰が想像できたというのか、
暗殺は気の毒であるが、
「膿が明るみに出た」
ということでは、
「ソーリの時にはできなかったことを、死んでからできたのだから、何とも皮肉なソーリではないか」
と言われたのも、ある意味無理もないことだろう。
「これが、日本という国の政治というものか」
と、心理学者からの目であったが、黒岩博士は、そう感じていたのであった。
あくまでも、日本は、あちらの世界の国であり、比較にはならない。
しかも、あちらの国は、完全に、
「戦争放棄」
という憲法の下にあるので、ライバル視することもなければ、
「仮想敵」
と規定する国もないだろう。
しかし、彼らには、
「自衛隊」
なる、
「国防及び、災害時や緊急時の対策部隊」
というものがある。
「防衛のため」
ということでの、先制攻撃は許されておらず、それにより、
「相手が攻めてこないと何もできない」
ということで、だから、あの国の警察は、
「何か事件が起きなければ、動かない」
という、悪しき伝統となっているのだ。
もっとも、それは、憲法のせいではなく、
「昔の特高警察のような状態にしてはいけないからだ」
という人もいるが、確かにそれはいえることではあるが、それは、警察というものの、
「詭弁でしかない」
といえるだろう。
もっといえば、
「自衛隊」
という軍隊は、最初こそ、
「防共」
ということで、共産主義の脅威に対しての国防であったが、今はそうではない。
確かに、
「災害時の部隊」
としては、強力であるが、
「政府が見ている自衛隊の存在意義」
というのは、
「我が国を属国としている国から、武器を買うように強制されているので、その受け口としての、自衛隊の存在」
ということになるのだ。
もちろん、世界的な有事に、
「憲法の範囲内での行動」
を考えると、当たり前のことであるが、そのせいもあってか、
「日本における自衛隊の威力は、世界でも有数の力がある」
と言われている。
ただ、
「実戦経験に欠けているので、どこまで武器を駆使した作戦に従事できるか」
というのが、実に大きな問題なのだろう。
それを考えると、自衛隊というものが威力を発揮できるかどうか、本来なら、
「自衛隊の出動がない世界」
というのがいいに決まっている。
「災害だって、ないに越したことはない」
といえるからである。
「こちらの世界の我が国も、戦争放棄を中心とした憲法を制定したが、どうも、それが壊れかけている」
といえるだろう。
ただ、この国に迫っている危機は、想像以上に早いもので、その危機をたくさんの学者が危惧している。だからこそ、秘密裡に、部隊を形成する必要があるのだが、その作戦として今考えられるものの第一歩として、
「死刑廃止」
というものがいわれているのだった。
そして、死刑廃止に伴って、
「死刑廃止」
となった状態で、死刑が確定していて、後は執行を待つばかりであった死刑囚は、かなりの数があった。
全国で、数百名がいるという。
そもそも、
「死刑執行」
が存在する国であり、凶悪犯に対しての、
「当たり前」
といえる死刑判決において、刑の執行を言い渡す職にある、
「刑務大臣」
というのは、その人の心次第で、執行されることになっていた。
前の内閣の、刑務大臣から、ほとんど死刑執行は行われていない。
というのも、
「俺の代で死刑疾呼汪が行われたら、俺の名前がのこるじゃないか?」
というそれだけの理由だった。
だから、死刑執行は、
「次の刑務大臣にやってもらうか」
と思っていたのだが、結果、内閣が変わっても、また刑務大臣は自分であった。
ということである。
正直、刑務大臣というのは、
「やりたくない大臣のワースト3に絶えず入っている。やはり、死刑執行を言い渡し、それを見届けなければいけないというのは、誰もしたくないのだろう」
それが、なかなか最近死刑執行が行われない理由だったのだ。
だから、死刑執行が行われなかったわけだが、今回はそうはいかない。
「新しい警報が施行されるまでに、死刑囚を生かしておくわけにはいかない」
ということである。
今度の法律は、死刑はなくなるが、生存しての刑は重くなった。
終身刑が二段階方式で、
「今まで死刑となるような案件は、高度の終身刑ということになり、恩赦などはまったくなく、それこそ、死ぬまで刑務所の中」
ということになるのだ。
「だから、シャバに出ることがあるとすれば、病気になり、刑務所では治療ができない場合、病院の中に備え付けられた、
「終身刑の人間用の習慣場所」
ということで、
「もちろん、自由などあるわけはなく、ただ、治療というだけに専念するという独房である」
独房にする理由は、
「他の人と一緒にして、脱獄をできないようにする」
ということで、いくら病院とはいえ、終身刑用の病棟は、
「絶対に逃げられない」
という形になっているのであった。
独房というところで、もし逃げ出そうとすれば、鉄格子は三重になっていて、真ん中のところには、高圧電流が流れていて、
「表からも、中からも、高圧電流を切らない限り、絶対に逃げられない」
ということだ。
そんな状態において、逃亡は絶対にできないようになっている。
しかも、それは、
「死刑囚に対してのものよりも、厳しいもの」
ということで、
「ワンチャン逃げられる」
などと思ったら、大きな間違いだ。
高圧電流に触れれば、少なくとも、一瞬にして即死であり、下手をすれば、
「電気椅子」
といってもいいくらいで、それこそ、
「どこが、死刑廃止なのか?」
といってもいいだろう。
それだけに、法律施行前と後とでは、同じ立場であった、
「死刑囚」
と、
「最高終身刑」
という立場では、同じなのだろうが、刑務者としては、最高終身刑という方が、本当はつらいことになるのだろう。
「人間らしく、生きることもできなければ、死ぬこともできない」
それが、最高終身刑であったのだ。
だから、これだけ違う刑務ということなので、
「法律が変わるまでに、今の死刑囚は、すべて、整理する必要がある」
ということなのだ。
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