第4話 オリンピックの発想

 理由はいくつかあるが、まずは、

「経済的なところ」

 というものから攻めることにしよう、

「オリンピック」

 というものは、基本、4年に一度行われるもので、その開催国は、約7年くらい前に決定することになっている。

 そもそも、10年くらい前から、行動を始めるわけだが、まず、その国家で、誘致先の都市を決めるのだ。

「オリンピック」

 というのは、

「国を挙げての競技だ」

 と思われがちだが、実は違っていて、あくまでも、

「国家の中の一都市」

 というものが決まるのである。

 だから、まず、その国の中で、

「今回推挙する都市」

 ということで代表を決め、さらに、そこから、世界のオリンピック協会が、その開催地を決めるということになる。

 まずは自国で決める時の候補は、大体、3つくらいであろうか、

 オリンピック誘致のできる国というのは、元々、大きな国である必要がある。小さな国としてであれば、候補地になるようなところは、それこそ、首都となっている都市くらいで、そんな国に、おの都市を援助できる力があるわけもなく、招致ができる国としては、ある程度の先進国に限られていて、実際に開催できる都市は、それらの国で、ある程度、まんべんなく、

「持ち回り」

 というような体制になっているのが普通であった。

「オリンピック招致なんて、結局、出来レースなんだ」

 と考えている人も少なくないだろう。

 特に、

「国内の招致先を決める」

 というのも、ほとんど、出来レースである。

 それは、

「いつも、同じ都市しか立候補しない」

 ということであった。

 それは、

「オリンピック招致を行っても、問題ない」

 というところで、招致を行うことで、

「メリットがあるかも知れない」

 と感じるところしかないからだ、

 というのは、ある程度の水準以下の都市というのは、

「オリンピックを行っても、メリットはない」

 ということであり、却って、デメリットの方が大きく、下手をすれば、

「都市全体が破綻してしまいかえない」

 ということになるのだ。

 というのも、

「かつて、オリンピックの聖地」

 ということで、

「発祥の地」

 と呼ばれるところが、ちょうど、記念となる、

「世紀またぎ」

 という都市に立候補し、他を寄せ付けずに、決まったことがあった。

 だが、ふたを開けてみると、最初は、

「オリンピック特需」

 ということで、都市も国も大いに潤ったのあろうが、終わってしまい、その反動から経済が、究極に疲弊し、都市も国もやっていけなくなったことで、

「国家の破綻」

 と言われるまでにあったのだ。

 特にオリンピックというのは、

「スポーツという健全な世界」

 というものであることから、経済を支えているという、

「町の経営には、当然あるべきの、エンターテイメント性の強いもの」

 であったり、

「労働者の憩いとしてお。風億営業」

 であったりなどの商売は、

「オリンピック協会に対して、

「オリンピックの精神に反する」

 ということで、招致から外されるなどということになると、困ることになるわけで、

 完全に、

「臭い物には蓋」

 という形で、

「そんな産業は、規制を掛ける」

 ということで、営業停止であったり、廃業に追い込まれていき、そういう一帯は、少しでも店が減っていくと、街全体が、一気に疲弊するのだ。

 そういうところの経営者は、

「風俗のようなものは、少しでもヤバイと思えば、一気に撤退をしないと、沈む船に取り残されることになってしまう」

 ということで、まるで、

「クモの子を散らす」

 かのように、一気に撤退し、一気にその一帯は、

「まるで、空襲で焼け出されたかのように、人っ子一人いないゴーストタウンの様相を呈してくる」

 といってもいいだろう。

 だが、そんな状態を、都市の首脳も、国のトップもわかっていない。

 オリンピックという、一瞬だけのことのために、ここまで街の発展を支えてきた産業の息の根を止めるということは、

「オリンピックが終われば、後は、衰退していくだけ」

 という街を、今自分たちで作ろうとしていることを分かっているわけではないということなのであろう。

 そんなオリンピックにおいての、

「経済効果」

 というものを、開催都市はどのように考えているのだろうか?

 確かに、オリンピック前というと、

「インフラ整備」

 であったり、競

「技場の整備や新競技場の建設」

 などで、需要が増えて、雇用の安定はしてくる。

 だが、オリンピックが終わってしまえば、どうなるというのか?

 作り上げた競技場など、その後誰が使うというのか、

 維持費も結構なもので、正直、オリンピック用に作った競技場なので、かなりのものであるため、その使用料もかなりのものであろう。

 例えば、学生競技の会場として行うとしても、それだけの金を遣うというわけにもいかない。

 それこそ、県大会程度では、競技場は、昔からの寂れたところになるだろう。

 だからといって、国体や、総体などのように、各地区で持ち回りのようなものには、

「オリンピックを行ったところ」

 ということで、特権があるわけでもない。

 それこそ、野球でいえば、甲子園。ラグビーなら、花園というような、

「聖地」

 と呼ばれるようなところがあれば別だが、そうでもないのであれば、その競技場をずっと使うなどということはありえない。

 そうなると、競技場は、どんどん寂れていき、どこも使うところもなくなることで、観客が据わるスタンドなどには、ひびが入ったり、そこから雑草が生えてくるなどという悲惨な状態になっていくのだ。

 それは、オリンピックを終えた都市において、2,3年え訪れるという、実に悲惨な状況である。

 また、オリンピック前に、

「インフラ整備」

 あるいは、

「競技場建設」

 ということで、あつめてきた人足が、オリンピックが終われば、いらなくなってしまい、失業者があふれるということになる。

 失業問題も起きてくるし、オリンピックに関わった企業の業績も、どんどん下がってきて、

「リストラしないと、会社が成り立たない」

 ということになるのだ。

 オリンピックによる経済効果というものは、この状態になることを予想してのものだったのか、特に、

「国家の破綻」

 というところまであったくらいで、その理由は明らかに、オリンピック景気の反動によって、巻き起こった不景気による破綻だったのだ。

 これは、ある国において起こった、

「バブル」

 と呼ばれるものと似ている。

 といってもいいだろう。

 会社というものが、結局、先ゆかなくなると、都市の景気もどんどん、ひどくなってくる。

 しかも、そんな

「破綻した都市」

 あるいは、その都市を抱えている国までもが、破綻したという状況を見ておきながら、それでも、オリンピック誘致を考えるというのは、一体どういうことなのか?

 さぞや、

「国家や都市が破綻したとしても、そんなものは関係ない」

 ということで、

「一部の人間だけが、潤えばいい」

 というような、

「汚れた金」

 というものを生み出して、そのツケは、その都市の住民であったり、国民が背負わされるということになるのだろう。

 だが、オリンピック招致を考えるというところも増えてきているようで、そのうちに、帖地候補は、いなくなるのではないか?

 とも考えられるのではないだろうか?

 オリンピック招致においては、前述でも、少し触れたが、もう一つの問題としては、

「それまで、この都市を支えてきた産業であったり、経済効果をもたらしてきたものを、オリンピック開催というものが、抹殺してしまう」

 ということに誰が気づいているか?

 ということである。

 都市部というのは、しかも、

「オリンピック開催」

 というものを行うということには、それなりの目的であったり、スローガンというものが必要だといってもいいだろう。

 都市の規模にもよるのだが、ただ、オリンピック開催というには、それなりに、

「金がある都市」

 である必要があるだろう。

 たとえば、それなりの先進国の首都であったり、第二、せめて、第三くらいの都市、あるいは、合衆国や連邦国における、州都や、その中心都市などの大都市が、最低限となるのではないだろうか?

 それか、発展途上国であっても、

「資源が見つかった」

 あるいは、

「経済成長著しい国で、諸外国からの支援が集まっているところ」

 といった、

「「今注目の」

 そして、

「トレンド」

 となっている国や、都市がその対象になっていて、その都市において、その時々の、

「都合」

 によって、オリンピック招致の目的があるというものである。

 大都市などでは、急速に伸びてきたことで、

「その状況を世界に発信する」

 であったり、かつての東京オリンピックのように、

「戦後からの復興」

 などというのが、たぶん、ほとんどではないだろうか?

 ただ、そんなオリンッピク招致であっても、

「世界的に、共通の災害による禍」

 ということがあったことで、開催が延期されたり、中止になったりしたことがあった。

 かつての、

「世界大戦」

 の時などそうであろう。

 ただ、オリンピックの元々の目的は、

「戦争をしている国でも、オリンピックの期間は、休戦」

 という時代もあった。

 それなのに、戦後の世界情勢において、

「東西冷戦」

 というものがあった時、

「東側で開催される時は、西側がボイコット」

 逆に、

「西側で開催される時は、東側がボイコット」

 なることがあった。

「これでなにが、スポーツの祭典だ」

 と思った人も多いことだろう。

 そういう意味で、

「スポーツが禍を防ぐ」

 などというのは、

「お花畑的な発想でしかない」

 といってもいいだろう。

 その証拠が、

「世界的なパンデミック」

 というものだったのだ。

 この時、ちょうど、日本という国の、

「東京」

 というところで、流行った時、ちょうど開催都市になっていたのだ、

 当時のソーリは、最初こそ、パンデミックを甘く見ていたのか、それとも、利益しか見ていなかったのか、

「開催」

 を言っていたが、急に、それを延期の方向に持って行き、延期にしたのだが、翌年までの間に、病気を理由に、自分の体制がヤバくなってきたので、病院に逃げ込んだことで、ソーリを退陣ということになった。

 それが、翌年になっても、パンデミックが収まるどころか、さらに、ひどい状況になってきた。

 相手は、

「菌」

 ではなく、

「ウイルス」

 なのだ。

 ウイルスというのは、変異を繰り返し、何とか生き残ろうとするので、何度も、波がやってくる。

 ちょうど、翌年のオリンピックを開催するかどうかという時期に来た時、パンデミックは、最悪の状態になっていたのだ。

 何と言っても、

「救急車を呼んでも、受け入れ病院がない」

 という、いわゆる、

「医療崩壊を起こし、たくさんの人が、病院に入れず、救急車の中で亡くなる」

 という悲惨な状態を引き起こしたのだった。

 それを考えると、

「オリンピックを再度延期するか、中止にするか?」

 という選択肢しかなかったはずだ。

 実際に、日本という国の世論調査では、

「80%以上の人が、延期、あるいは中止」

 といっていたのだった。

 しかし、実際には、次のソーリは、それを強硬したのだった。

「もう、費用から考えると、延期はできない。中止にするか、強硬開催するかしかない」

 ということであった。

 それを、ソーリは強硬開催に向けて舵を切ったのだ。

 しかも、開催までには、パンデミック以外のいろいろな問題が起こっていたにも、関わらずにであった。

 さらに、もっと悪いことに、今回のオリンピックを、何と、

「パンデミックからの復興がかなったオリンピック」

 もっといえば、

「パンデミックに打ち勝った」

 という言い方をスローガンに掲げてのオリンピックということだった。

「国民のほとんどは、反対しているのに」

 ということで、

「国民の大半を敵に回してまで行うというのは、世界オリンピック協会なる、組織に忖度してのことなのか、それとも、自分たちの私利私欲だけを考えてのことなのか」

 ということで、結局、

「カネ」

 というものが、

「国民の意見を打ち消した」

 ということでの強硬開催であった。

 実際には、入国後にパンデミックに罹っていると分かって、隔離された連中も結構あったりしたので、とりあえず最後まで強硬したことで、

「成功した」

 と政府は言っているようだが、

「その根拠は?」

「何をもって成功というのか?」

 ということであったのだが、そのあたりは一体どうなのだろうか?

「しょせん、オリンピックなんて」

 と言われるまでに、落ちたということであろうか?

 この時、なぜ、

「オリンピックを強行したのか?」

 ということであるが、何といっても、

「票を減らしてもいいくらいのもの」

 でなければいけないはずなのに、それが何かということになれば、それは理由が一つということはないだろう。

 と、いうのは、まず一つとして、

「世界オリンピック協会に対しての忖度」

 というものである。

 今回もし、オリンピックができなかったとすれば、次の誘致はということになると、

「数十年は先のことになるだろう」

 特に、もう、16年くらい先のオリンピック候補地というのは、締め切られている。

 実際に決定するのは、8年前くらいであるが、それまでに、国内での候補であったり、そこから地域の候補が絞られて、最終選考となる8年前くらいまでには、3つくらいの候補に絞られているということで、いくら、

「世界的なパンデミック」

 というものによるもので、仕方がないといっても、

「縁起が悪い」

 とでもいわれて、実際の候補になるには、さらに、そこから10年以上の年月を費やさないと無理であろう。

 さらに、もう一つは、もっと実質的に、

「国内のスポンサーというものを敵に回す」

 ということである。

 これは、国内だけに限ったことではないだろうが、まずは、問題なのは、国内のスポンサーであった。

 スポンサーというのは、

「金が動く」

 というだけが問題ではない。

 放映権の問題であったり、いざとなれば、いずれやってくる選挙の問題にもかかわってくることになる。

 そのことを、ソーリなら、当たり前のように分かっていなければいけない。

 何といっても、スポンサーというのは、

「表向きの宣伝」

 というだけではなく、

「影のスポンサー」

 ということで、裏で動く人たちがいても、

「オリンピックの開催」

 なのだ。

 彼らが、

「自分たちが儲かる」

 ということで、動いてくれるから、政治家が、無能でも、イベントを成功させることができるのだ。

 スポンサーが一度つけば、

「政権は安泰だ」

 といえるのだろうが、逆に、スポンサーが、一度離れてしまうと、政権の維持は、まず難しい。

 それほど、

「影のスポンサーの力は強い」

 ということだ。

 彼らからすれば、

「オリンピック開催」

 というのは、必須だった。

 延期でも仕方はないが、

「なくなってしまうとどうなるか?」

 ということになれば、

「政府と一緒に共倒れ」

 ということになる。

 つまり、彼らにとっても、政府にとっても、お互いに一蓮托生。二人三脚でうまくやっていかなければいけないし、何よりも、癒着が国民にバレることは許されなかった。それこそ、政府にとっての、

「最高国家機密」

 といってもいいことであろう。

 そんな最高国家機密の中には、

「元政治家の、起業」

 というものがある。

 政界を引退してから、起業した人、あるいは、

「天下り」

 という連中に対しての忖度をしておかないと、

「自分が政界を引退した時、どうなるか?」

 ということが問題となるのだ。

 なぜなら、

「円満に、政治家を引退できれば、スムーズな転身がうまくいくことになるのだが、失敗すると、ロクなことはない」

 といえるあろう。

 ちゃんと、ソーリの座を2期ほど守り抜くことができれば、もし、

「再登板」

 という依頼が来ても、

「私はキッパリと引退する」

 と言えば、

「あの人は、ちゃんとやり切って引退したんだ」

 といういいイメージを持ってくれる人が多いだろう。

 しかし、それをまるで、政権にしがみついているかのような素振りを見せると、

「あいつは、中途半端なことしかしてないので、政権に未練があるんだ」

 と言われかねない。

 これは、少しでも、

「いいソーリだった」

 と言われて引退していれば、他にどんなに悪くいう人がいても、他の歴代ソーリに比べれば印象がいいだろう。

 実際に、

「私は2期で引退する」

 といって、キッパリ引退した人がいて、今でも

「いいソーリだった」

 と言っている人もいるくらいだ。

 昔、アイドルで、

「引退する」

 といって、キッパリと辞めた人は、実に今でも、伝説のように言われる。

 しかし、少しでも未練を残して戻ってきた人の多くは、最後にはスキャンダルに塗れる人が大半である。もちろん、普通に最後の引退をする人もいるが、どうしても他の人のイメージが悪くされることで、ちゃんと引退した人も悪く言われることもあったりする。実に理不尽である。

 ただ、ソーリに限っては、それまでは、キッパリ辞める人はいい人が多かったのだが、最初から、人気絶頂で、人気があるまま、2期で辞めていったソーリは、実はひどいものだった。

「今の国家を滅亡に近づけているのは、そいつのせいだった」

 と、専門家をはじめ。有識者から言われ続けているにも関わらず、一般庶民には人気があるのだ。

 まるでヒトラーのように、宣伝がうまかった。これこそ、

「劇場型」

 の典型であり、

「激情型」

 でもあったのだ。

 感情を爆発させることで、いかにも国民に寄り添っているかのように思わせる。それこそ、

「独裁者のやり口」

 ではないか。

 その内閣で財務大臣をしていたやつが、

「政界を引退し、起業をしている」

 ということで、オリンピックをやりたいと言ったソーリが忖度しているやつの正体だったのだ。

「九十数パーセントの中抜き」

 分かる人には分かるのであった。

 そのオリンピック関係者で、一人の男が、実は死刑囚になっていた。

 オリンピック関係の話の裏を知っていて、それを暴露されるということを恐れた政府が、男に濡れ衣を着せて、のっぴきならない追い詰めた上、死刑判決が出るように仕向けた。

 男は、秘密を暴露しようと思えばできるのだが、

「誰が死刑囚の言うことなど、まともに聞くと思うか?」

 と言われて、何もいえなくなった。

 確かに、暴露しようと思えばできなくもないが、

「誰もが知っている話で、ただ、信憑性がないということなので、彼が、収監者で、しかも、死刑囚」

 ということでなければ、まともに聞いてくれるかも知れないが、

「死刑囚のいうことなど、誰が聞くと思うか?」

 といっておいて、弁護士に、

「ここは、余計なことは言わず、少しでも、こちらに有利に話をすれば、死刑はおろか、うまくいけば、無罪を勝ち取ることもできるかも知れない」

 といって、何も言わないように仕向けていた。

 しかし、それだけでは政府も安心できない。

 そこで、彼に薬を盛って、死なないまでも、精神的に、気弱になるように仕向けていたのだ。

「監獄で自殺でもしてくれれば、こちらの思うつぼ」

 とでもいうような、

「これが政府なのか?」

 と、他の誰にも絶対に知られたくないような側面を持った政府の世界だったのだ。

 そんな政府をバックにして、今、この世界での、この国は、大きな何かを抱えている。

 それが、他の世界の、

「日本」

 という国がある世界とは違っていて、

「あちらでは、絶えず、戦争が起こっているが、こちらの世界では、ほとんど戦争がなくなっていた」

 ということである。

 すなわち、

「どちらが正しくて、間違っていないのか?」

 ということは分からない。

 そもそも、正悪の基準というものが、どこにあるのか、それぞれの世界で違っているので、その判断は難しい。

 しかも、どちらかが、

「世界の中心」

 というものが、どういう理屈なのかということを分かっているのかは、難しいだろう、

 少なくとも、それぞれの世界の秩序や基準は、

「相手の世界のそれではない」

 といえるだろう。

 お互いに基準が分かっているのか、いないのか、そのことが、こちらの世界では、結構大きなカギを握っているのだった。

「彼らが、死刑執行というものに、どうしてこだわったのか?」

 ということが、明らかになっていないことで、国民は、

「どうして、そんなことにこだわるのだろうか?」

 と考えてはいるが、

「だからといって、世間において、何が正しいのか?」

 ということを、追求しなければいけないわけではない。

 ただ、自分たちの正当性を追求することが、政治を行う上で、どうしても必要な時というのはあるもので、政府が日ごろ、

「陰で動いているのは、その時の到来を見逃さないためではないか?」

 と言われているのだった。

 そのやり方として、第一段階での方法として、まず法案で、

「死刑執行を、なくす」

 ということであった。

 それは、

「人道的かどうか」

 ということではなく、政府として、その裏で、暗躍していることが大きな影響を与えるものだと考えられるのであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る