第2話 ある研究

 死刑というのは、この国家では、昔から行われていた。

 というより、

「世界で、死刑制度のない国はない」

 と教えられていて、

「死刑になってしかるべき人間がいるから、死刑執行を行うのだ」

 というのが当たり前になっていた。

 というのも、犯罪に対しては、

「公平であるべき」

 というのが世界的な見解だった。

 世界には、さまざまな主義主張があるが、この件に関しては、全世界的に一致した意見であった。

 というのは、

「政治などであれば、体制や主義によって、利益不利益がハッキリし、どちらの主張が、公共の福祉に近いか?」

 ということで、その優先順位が決まってくるが、

「こと犯罪というのは、

「善悪の考え方から言えば、その優先順位に変わりはない」

 ということになる。

 もちろん、その時の情状による場合もあるのだが、基本は、

「犯罪を犯した人間が悪い」

 ということは、明白なことなのだ。

 他の世界で問題となるのは、

「犯罪者側」

 と、

「被害者側」

 という観点である。

 他の世界では、

「被害者側」

 などという観点から、本人だけでなく、家族のことを考えるのが普通だったりする。

 たとえば、

「凶悪犯の手によって、数人が虐殺された」

 とすれば、被害者側からすれば、

「死刑にしてほしい」

 と考えるのも当然だろう。

 そして、犯人側の家族に対しては、誹謗中傷のあらしということで、

「まるで家族が犯罪者と同等ということで、悲惨な目に遭っている」

 ただ、これも難しいところで、犯人だって、人を殺したくないと思いながらも、

「誰かの復讐」

 をするということだってあるだろう。

 それをいかに考えるかということになるのだが、そのすべてに、同情したり、あるいは、憎しみだけをぶつけるということになると、裁判も難しいということになる。

 確かに、

「罪を憎んで人を憎まず」

 という言葉があるが、本当にそうなのだろうか?

 一つ一つ吟味していると、

「本当は、もっと吟味しなければいけないことがおざなりになってしまい、不公平がまかり通ることになる」

 といえるだろう。

 いかに、事件を解決させるかということは、

「裁判の簡素化」

 ということにもつながり、何をすればいいのか、そのあたりを考える必要があるというものだ。

「裁判の簡素化」

 というのは、どの世界でも、考えられていることであった。

 しかし、そうなると、

「裁判の公平さが失われる」

 ということから、なかなか実行されることはなかった。

 他の世界においては、

「犯罪を裁く裁判というもので、国によって、温度差が違う」

 ということがいわれるようになっていた。

 そもそも、それは前述の。

「被害者側の家族」

 と、

「犯人側の家族」

 のどちらを重んじるか?

 ということからであった。

 普通に考えるならば、

「被害者側の家族」

 に対して同情的になってしまうとどうなってしまうだろうか?

 加害者側は、完全に悪者になってしまい、家族は犯人よりもひどく言われたりするに違いない。

 逆に、被害者側が置き去りにされるというような社会であればどうだろうか?

 これは、いわゆる、

「疑わしきは罰せず」

 ということで、本当に犯人として裁かれなければいけない人だけが、証拠を持って裁かれるということになり、

「その心がどこにあるか?」

 というのは、

「冤罪を生み出さない」

 ということにあるのだ。

 犯罪捜査というものを、人間が行っていて、決定的な証拠でもない限り、冤罪というのは、生まれる可能性は相当にある。

 だから、警察においての。

「冤罪発生」

 というのは、大きな社会問題であり、下手をすれば、

「隠蔽しよう」

 として、却ってそれが明るみに出てしまって、結果、警察が責められる。

 などということは、日常茶飯事だ。

 そもそも、冤罪を生むのは、警察というものの考え方や、その体制にあるのかも知れない。

 確かに、警察は、一つの組織ではあるが、細分化していけば、どこまでも細分化できる。

 警察は、階級制度なので、

「縦のつながりは、まるで軍隊並み」

 といってもいいだろう。

 しかも、横というのも、結界と言えるくらいの垣根がある、

 これも、軍隊と同じで、海軍と陸軍では、かなりバチバチの抗争を繰り広げている。その理由は、

「予算獲得」

 ということでのいがみ合いだが、そのために、わざわざ同じような仕組みになっていうのに、名前を変えてみたりいと、まるで子供の喧嘩のようではないか。

 警察も、似たようなもので、ちょっとでも管轄を外れれば、何もしないというような、

「縄張り意識の強さ」

 には、かなりの問題があるのだった。

 警察というところは、

「完全になくなってしまった軍隊」

 を彷彿させるもので、正直。

「悪いところだけを受け継いだ」

 といってもいいだろう。

 ここの世界の警察は、そんな

「親方日の丸」

 ということはなく、公務員というわけではないのだ。

 もっとも、以前、

「警察を公務員にしよう」

 という意見もあったようだが、

「国が持つと、軍国主義になる」

 ということで、最初は専用軍直轄から、政府とは一線を画した国家体制に乗っかる形になったのだった。

 そうなると、刑法というものと、警察では、

「疑わしきは罰せず」

 ということになるのだ。

 つまり、

「怪しいだけの場合は、シロ」

 ということだ。

 となると、被害者は、

「泣き寝入り」

 ということが多くなる。

 しかも、犯罪をあまり作りたくないとなると、いわゆる、

「親告罪」

 というのが多くなるのかも知れない。

 婦女暴行などが起こると、基本的には親告罪なので、訴えがなければ、裁かれることはない。(どこかのパラレルワールドでは、親告罪ではなくなったようだが)

 だから、弁護士にかかると、

「起訴しない」

 であったり、

「起訴されていても、被害者が取り下げたり」

 などということがあるのだ。

 これは、どういうことなのかというと、

 特に、加害者も、被害者も未成年などであったりして、さらに、加害者の親が、金持ちだったりなどすると、加害者側の親は、

「子供可愛さ」

 などということで、いい弁護士(弁護士としての職務に対して優秀だということなのだが)をつけるということになる。

 すると、まずは、お金にモノを言わせる形で、弁護士は、お金での解決を図ってくるのだ。

 つまり、頬を札束で叩くかのような態度に出て、言葉では、謝罪を述べながら、やんわりと、

「裁判を起こしても、利益がない」

 あるいは、

「起こすことによってのデメリット」

 というものを離すのであった。

 何と言っても、

「裁判を起こしても、未成年だから、そんなに重い罪はない」

 ということを言われ、さらにデメリットとして、

「裁判において、被害者はいいたくないことも言わなければならなくなる」

 ということであった。

 さらに、

「本当に暴行だったのか? ひょっとすると合意ではなかったのか?」

 というようなことを聞かれたりもする。

 と弁護士はいう。

 確かに、弁護士側からすれば、それくらいしないと、被告を守れないとなれば、そこまでやってくることは当たり前のことだ。

 こちら側に、

「暴行された」

 という証拠を示さないと、

「疑わしきは罰せず」

 ということからも、裁判官たちの印象は、どんなものに写るというのだろうか?

「それなら、示談金を受け取って、本人もトラウマにならないように、早く忘れる」

 という方が、本人のためにも、支えているまわりにもいいのではないだろうかといってくるのだ。

 被害者側のまわりからすれば、はらわたが煮えくり返ってはいるが、

「娘が晒し者」

 になったり、何よりも、

「トラウマとなって後遺症となってしまうのであれば」

 ということで、どうしても、娘が、

「訴える」

 ということにならなければ、これ以上、必要以上に、

「裁判を起こす」

 ということを言い張らないだろう。

 疑わしきは罰せず」

 という世界もあれば、ここのように、

「疑わしくは、罰するので、もし、自分がやっていないというのであれば、その証拠を立証する義務は、容疑者にある」

 という形になった。

 しかも、それを警察に、

「お金で依頼をする」

 という形になるのだ。

「無罪認定をしてもらうのに、金がかかるなんて」

 ということであるが、それはあくまでも、

「警察官が公務員」

 ということだから考えられることであった。

「警察官が、公務員でなければいけない」

 ということはない。

 ただ、警察官というのは、他の職種と比べると特殊であり、その目的が、

「治安を守る」

 ということであり、

「個人を助ける」

 ということではないからだ。

 世界が違えば、

「警察官が助けてくれる」

 という発想は通用しない。

 そもそも、

「警察官が公務員」

 という世界であっても、

「警察官が助けてくれるはずだ」

 という発想は、そもそも間違っているのだった。

「治安を守る」

 ということは、本来であれば、

「犯罪をなくす」

 ということと、同意語でなければいけないのではないだろうか?

 しかし、それが本当であれば、警察に仕事として、

「犯罪を未然に防ぐ」

 ということが、一番の優先順位ではないだろうか?

 しかし、警察というところは正反対であり、

「犯罪が起こらなければ、何もできない」

 というのが実際のことである。

 確かに、別の世界などでは、

「治安を守る」

 というのは、完全に、犯罪というものを、個人に対してではなく、政治体制であったり、公的なものに対して行ったものの場合んい適用されるという、

「治安維持警察」

 のようなものだったのだ。

 だから、下手をすれば、ちょっと逆らっただけで、

「警察に対しての侮辱罪」

 のようなものが適用され、片っ端からの、

「逮捕、拘留」

 さらに、その時に受ける、拷問というと、

「一般市民に対しての、それはない」

 といえるほどだった。

 だが、

「そこまでしないと、治安が守れない」

 という時代は、本当にどういう時代なのか、人間がそれぞれに、主義主張に真摯に向き合っていることで、過剰な状態になり、

「こうでもしないと、治めることができない世の中になった」

 ということなのだろうか?

 世界というもの、確かにちょっと違っただけで、まったく違うのだろうが、

「結界」

 というものを越えて、知らない世界までも考えてしまうと、本当に信じられないという、

「平行世界」

 というものが広がっているということであろう。

 実際に、

「平行世界」

 というものを見た人はいなかったが、創造する人はたくさんいた。

 しかし、時代背景から、

「宗教的な発想だ」

 ということで、発想することすら、反対されていたというものであり、当時は、それまで戦争のために抑圧されていた科学者が、

「やっと、大手を振って、研究に勤しめる」

 ということで、大学の研究室に籠っても研究が繰り広げられていたのだ。

 密かに、国家も、

「大学のプロジェクト」

 という大義名分で、金をいくらか融通していた。

 といっても、まだまだ戦後の荒廃した世界においては、大っぴらにはできない。

 しかも、まだ、占領下において、そんな不審な行動は、

「国家の存亡にもかかわる」

 と言われかねないにも関わらず、研究を続けられるということは、それだけ、

「国家をうまく運営するためには、この研究の成功を持って、独立後に、国家が、他国を寄せ付けない科学力を持っている」

 ということで、

「抑えつけるということよりも、同盟国」

 という感覚を抱いてくれた方が、

「属国扱い」

 されるよりのとでは、まったく違うというものであった。

 だからこそ、この世界では、

「敗戦国でありながら、より早く、敗戦国の中でも、群を抜いて独立国としての様相を呈することができた」

 ということであった。

 そんな中において、

「平行宇宙の研究」

 だけが行われていたわけではない。

 当時世界は、二つの大きな主義によって、分断されていた。

 その世界をそのままにしておいては、

「近い将来、世界を破滅させる、大戦争が勃発する」

 と言われていた。

 今でこそ、

「最終兵器」

 と言われるものが開発され、その、

「抑止力というものによっての平和」

 という、

「完全に、張子の虎」

 のような、

「見せかけの平和」

 で成り立っているので、いつ、間違いが起こるかという、大いなる危険と背中合わせだったのだ。

 そんな時代において、占領している方の国は、その当事者であることもあって、本当は、

「こんな均衡ではなく、わが国が取り仕切る平和でなければいけない」

 と考えていたのだ。

「敵対するということは、ただ憎らしいからというわけではなく、妥協を許さないほどの主義主張の違いから起こった、静かで冷たい戦争であるから、主導権は、わが国でなければいけない」

 ということになるのだ。

 それを、占領している国に委ねると考えたのは、

「相手国が、こちらの軍事力に、すぐに追いついてくる」

 ということが分かるからだった。

 そうなると、お互いの軍事力というものを背景に、

「永遠に終わることのない冷たい戦争が、抑止力という、いつまで続くのか分からない」

 というような世界を終わらせるしかないということであった。

 だから、占領国は、統治している国の研究を、黙って見ているということしかないのだった。

 この国家では、

「世の中をいかによくするか?」

 ということもさることながら、

「個人の尊厳をどこまで尊重できるか?」

 ということを重視して考えられていた。

 そうなると、どうしても、

「犯罪者というものをいかに扱うか?」

 ということが問題になってくる。

 そこで、論争になったのが、

「死刑廃止論」

 というものであった。

「実際に、死刑に値する人間を、生かしておいてもいいものなのか?」

 ということであったが、逆に、

「そういう人間を簡単に死刑にせず、終身刑ということで、死に値する。あるいは、それ以上の苦しみを与える方がいいのではないか?」

 というと、

「だが、恩赦などで出てくる人だっているではないか?」

 というと、

「じゃあ、終身刑の中でもランクをつけて、絶対に恩赦にはならず、死ぬまで牢屋の中というものを、死刑の代わりにすればいいではないか」

 という意見が出た。

 もちろん、終身刑の最高刑であっても、生きている間は、人権というのが保障されるので、病気になったり、余命が分かったりした場合など、

「特例のシャバへの出ることが許される」

 ということは、法律の但し書きに書けばいいということであった。

 それを考えると、

「死刑廃止論」

 というものを、国家が国会で論じているということが、世間に分かると、世間は世間で、いろいろなことを言いだした。

 特に、反対が多かったのは、

「被害者の家族たち」

 であった。

「極刑をなくすと、犯罪が助長され、法律というものが、犯罪の抑止に繋がるということがなくなってしまう」

 という思いだった。

 だが、同じ、被害者の家族の中には、

「いやいや、あいつらは、簡単に殺すのではなく、一生刑務所から出られないという、一切の権利を比定して、ただ、死ぬためだけに生きているという究極の苦しみがあるだけだということを自覚させることが、最高のバツではないのか?」

 ということを主張し、

「死刑廃止」

 および、

「終身刑の重たいものを、最高刑とする」

 ということに賛成だったのだ。

 どちらの意見も、国会議員もわかっていた。

 しかし、法律というのは、なかなかシビアなもので、どちらが正しいと国会議員個人で考えても、

「所属政党の考え方」

 というものがあるので、手放しに、自分の意見を言えない場合もある。

「この法律の成立いかんによっては、政権交代も夢ではない」

 などという状態の時、多数決の票が拮抗していう場合、一人の票が重たかったりした時に、

「政権交代ができなかった」

 あるいは、

「政権交代してしまった」

 ということで、その責任が、自分にあった場合は、せっかくの党を、

「除名処分」

 となり、次の選挙を無所属で争うことになるだろう。

「この人がいたから、自分たちの意見が通った」

 といって、一時期は喜んでくれるだろうが、だからといって、選挙の時、彼らが、自分を助けてくれるということはないだろう。

「のど元過ぎれば、暑さを忘れる」

 というものだ。

 この国では、結構早く、

「死刑廃止」

 という法案が成立した。

 やはり、

「死刑に変わる、終身刑に対しての法律」

 という代替案が国民の心を捉えたのだろう。

 もちろん、賛否両論はあったが、それよりも問題となったのが、

「その時点における、死刑囚の処分」

 であった。

 ちょうどその時、死刑が確定し、後は、執行を待っている人が、100人近くいた。

「その人たちをどうするか」

 という問題で、国民のほとんどは、

「早く死刑執行すればいい」

 と思っていたことだろう。

 でないと、新法案が施行されてしまうと、

「死刑執行できなくなるのではないか?」

 ということであった。

 これまで、もちろんのことであるが、

「死刑囚に対しては、恩赦というものはない」

 とされてきた。

「死刑判決は、刑が確定された瞬間から、執行されるまでの間、死刑囚には人権はない」

 ということであった。

 だから、

「死刑判決」

 というものに対しては、かなりの吟味があった。

 他の国で死刑判決が出るよりもかなり深いところまでの吟味が行われる。

「死刑案件で、死刑が確定するまでに、かかる年月は、他国に比べ、倍くらいではないだろうか?」

 ということであった。

 それでも、この国の死刑確定は、他の国に比べて、多くも少なくもない。政治家の中には、

「どうせ他の国と変わらないのであれば、他の国と同じような捜査にて、死刑を確定させればいいではないか」

 と、死刑判決までに確定の遅さを懸念している意見もあった。

 それこそ、

「死刑判決までに、時間を掛けるということは、金も掛けるということで、経費のムダではないか」

 とも言われてきた。

 というのは、

「死刑囚に時間と労力を掛けていては、他の犯罪裁判がおろそかになる」

 ということであり、その意見ももっともなことであった。

 それを考えると、

「死刑囚に対して。そこまで配慮する必要があるのか?」

 ということになり、そのあたりから、

「死刑廃止論」

 というものが出てきたのだ。

 この廃止論というのは、

「死刑ということに対しての、道徳的な発想」

 ということではなく、もっとシビアな、裁判における、

「効率の問題」

 であり、

 だが、この問題がひいては、

「裁判における優先順位」

 という問題にもかかわってくることで、けっして無視することはできないもんだいだった。

 実際に、裁判所が少しずつであるが、減ってきているということが問題になりかかっていたので、

「先手を打った」

 といってもいいだろう。


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