二つの世界と同じ顔

森本 晃次

第1話 死刑というもの

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和5年8月時点のものです。とにかく、このお話は、すべてがフィクションです。疑わしいことも含んでいますが、それをウソか本当かというのを考えるのは、読者の自由となります。今回のお話に出てくる国家や、社会情勢は、どこかの国、世界を彷彿させますが、ハッキリと違う国家であり、世界です。しいて言えば、パラレルワールドのようなものと思っていただければ、幸いです。


 世界的には、今の時代になると、

「死刑廃止論」

 というものが、いろいろな国で起こっていて、実際に、死刑廃止の国が結構増えている。

 死刑を廃止することで、別に犯罪が変わったり、凶悪犯が減ったりしたわけではない。

「ではなぜ、死刑を廃止するのか?」

 というと、表向きには、

「人道問題」

 を掲げているが、そもそも、その連中は、

「死刑に値するような犯罪を犯した」

 ということで、司法によって、死刑判決が出たわけだ。

 そこに来るまでには、警察の捜査から、証拠をそろえて、検察が起訴することになるのだが、相手も弁護士をつけて、

「真実を解明する」

 ということになる。

 これは、あくまでも、

「事実認定されたことによる、真実の解明」

 ということであり、それは、

「状況証拠」

 から積み重ねられ、実際に警察が徴収した、

「物的証拠」

 というものが、裁判所に提出されることで、検察側は、被告を追い詰めていくのだった。

 弁護士というのは、基本、起訴されれば、つくのが当たり前であった。検察側からだけの言い分であったりすれば、

「どんな冤罪を生むか分からない」

 ということもあり、

「どんな犯罪者、被告であっても、裁判においては、弁護士を付けることになる」

 ということだ。

 もっとも、弁護士料は、かなりのものだろうから、簡単には、ついてはくれないだろう。弁護士にでも、

「選択権」

 というものがある。

 言い方は悪いが、

「金にならない案件は、やりたくないだろうから」

 である。

 だから、金のない被告のために、

「国選弁護人」

 と呼ばれるものがある。

「一般の弁護士がついてくれなかったり、被告に雇うだけの金がない場合には、そんな国選弁護人というものがつけられる」

 ということである。

 裁判になるまでに、まずは、事件が発生してから、警察の捜査が入り、被害者の人間関係であったり、利害関係などが、警察によって明らかにされ、その中から、状況証拠として当て嵌まる人間をピックアップして、捜査に入る。

 複数いれば、その人たちのアリバイであったり、現場に残された証拠、指紋であったり、うっかりと残したものなどの物的証拠。

 それらが、次第に

「裁判所への提出証拠」

 というものとして集められ、容疑者による、

「自白」

 などがあれば、そこで起訴に踏み切ることとなる。

 もちろん、容疑者は、警察に逮捕された時点で、弁護士を用意することもできる。

 特に、最近では、警察の捜査というものも、モラルが厳しくなっていることで、最初から弁護士をつけていると、そのあたりも、けん制することができ、弁護士の指示を仰ぐこともできるというものだ。

 弁護士というのは、

「真実を究明するために、その場にいる」

 というわけではない。

 あくまでも、

「依頼人の利益を守る」

 ということで、弁護をすることになるのだ。

 だから、状況によっては、

「明らかに犯行を犯している」

 という場合でも、

「何とかして、無罪に持ち込もう」

 とするのが、弁護士であった。

 たとえば、

「正当防衛」

 であったり、

「緊急避難」

 のような、いわゆる、

「違法性の阻却の事由」

 と呼ばれるものであったり、

「精神耗弱者」

 ということで、

「責任能力を問うことはできない」

 という言い訳を持って、

「被告人の無罪を主張しよう」

 と考えることだろう。

 前述の、

「違法性阻却事由」

 というものであるが、その内容というのは、

「通常は違法とされる行為について、その違法性を否定する事由をいう。日本では、民法上のものと刑法上のものがある」

 というものである。

 そして、刑法上のモノとしては、前述の二つ、

「正当防衛」

 というものと、

「緊急避難」

 というのがある。

 基本的には、

「正当防衛」

 と呼ばれるものを争うことが多いだろう。

 なぜなら、

「緊急避難というのは、有事において、特殊な場面になったことで、発生する場合をいう」

 ということになるからだった。

 正当防衛というのは、

「相手が、自分に危害を加えるというのが分かって、その防衛のために、やむを得ず、相手を傷つけたり、殺害してしまい、罪に問われた場合、その時の被告の行動に正当性があった場合は、正当防衛が成立し、被告の行動によって、被害者が被った被害に対して、責任はない」

 ということになるのだ。

 もちろん、正当防衛の立証というのは、なかなかにして難しい。

「二人の間に、利害関係が存在したりした場合も当然、考慮されることになるだろう」

 下手をすれば、

「正当防衛に持っていく」

 というために、敢えて、自分を攻撃するように仕向けたり、また。

「こちらが、どこまで危ない目に遭っていたのか?」

 ということを、しっかり立証できなければ、

「正当防衛」

 ということではなく、

「過剰防衛」

 ということになり、情状酌量に値するかも知れないが、

「自分の手によって犯した罪を無罪にすることはできない」

 ということになるのだ。

 そして、

「緊急避難」

 というものであるが、こちらも、

「読んで字のごとし」

 なのだが、たとえば、

「自分が乗っていた船が、事故か何かで沈没してしまったとして、命からがら、数名と救命ボートで逃げ出すことができたとしよう。その時、定員が5名のボートに、他の人が寄ってきて、乗ろうとしてきたが、その人が乗ってくると、低位のーバーとなり、全員が、海に投げ出されるということになる」

 という場合のことである。

「乗ろうとしてきた人を、払いのけなければ、自分たち全員が、助からないとすれば、全員で乗って来ようとする人を排除に掛かるはずだ」

 ということである。

 この場合のように、自分の命が危険に晒されるということで、他人を助けないということは、致し方がないということで、

「緊急避難」

 ということで、船に乗れなかった人を見捨てたとしても、やむを得ないということで、この犯行は無罪ということになるのだ。

 刑法においては、この二つが立証されれば、たとえ、相手が死んでしまったとしても、被告には殺意がないということであれば、

「被告に責任を負わせるわけにはいかない」

 ということで、

「無罪」

 となるのが、

「違法性阻却の事由」

 ということになるのだ。

 この手の法律は、どこの国家にもあるというもので、国家というものが、いかに整備するかということであった。

 ただ、この国の法律が実際に作られたのは、かなり前であったが、それまでは、国家体制が違っていたので、同じ法律でも解釈や捉え方が、かなり違っていた。

 というのは、世界が、帝国主義や、専制君主国が多かったりして、発展途上や後進国は、それらの国の

「植民地」

 と化しているのだった。

 実際に、植民地となった国では、宗主国と言われる国に迫害されていた。

 それを解放しようと、立ち上がった国があったが、その国も、結局は、

「宗主国が変わった」

 というだけえ、せっかくのスローガンが、自分たちが植民地を持ちたいということに対しての、

「言い訳」

 として、大義名分が使われていたかのように感じられたことで、世界の列強を相手に戦争を起こしたが、結果、散々な目に遭い、結果、敗戦となった。

 しかし、その後、それら後進国は、

「戦争で荒れた母国が復活してきたことで、再度その存在感を表してきた宗主国に対して、敢然と、独立を目指して、ゲリラ戦などを挑み、見事に独立を達成することができたのだった」

 ということである。

 その独立ができたというのも、元々、

「解放する」

 といって、一時期、植民地化した国が、統治するために送り込んできた軍隊が、母国が敗戦したことで、武装解除したために、残していった武器が、モノを言ったのだ。

 ただ、それだけではなかった、

 解放軍ということで送り込んできた連中は、確かにこの国を、母国と同じようにしようと企んでいて、一種の属国であったのだが、そのおかげで、道であったり、鉄道などと言った、インフラの整備や、自分たちだけでは、決して知ることのできなかった。資源のありかや、その豊富さ。さらには、その量の豊富さを教えてくれた」

 ということだったのだ。

 元々、解放軍の母国は、

「この国に眠っている、天然資源がほしかった」

 というのが、その大義名分に隠された目的だったのだろう。

「遅れてきた、第三勢力」

 ということで、

「列強に追いつけ追い越せとばかりに、遅れて進出したことで、最初に進出していた列強と呼ばれるところから、煙たがられるのは当たり前というものだ」

 というのも、

「何をいまさら、出てきたところで、出る杭は至れるというものだ」

 と、列強は思っていたことだろう。

 それでも、元々、天然資源が足りない母国の領土では、どんなに頑張っても列強にはおいつくことさえできないのだ。

 遅れて発展してくる国というのは、どうしても、

「焦りというものがあるもので、それが裏目に出る」

 ということがえてしてあるものだ。

 しかし、列強が今まで、

「どのように進出してきて、その間に巻き起こった問題が、どのようなもので、それをどうやって解決して切ったのか?」

 ということは、

「先人が示してくれた、「生きた教訓」

 となっているはずで、当然それらの勉強はしたことだろう。

「これから発展を目指す」

 という国は、それらを謙虚に考え、それが自分たちの発展となることを分かり切っているはずである。

 今の政府のように、目の前のことや、自分たちだけの利益しか考えないような連中と違い、

「愛国心」

 というものを中心に、国体維持であったり、国家運営と、真摯に向き合っていたということであろう。

 そんな国家というものを真剣に考えた政治家であったり、軍部がいた国だったところが、敗戦ということで、まわりの国によって、強引に武装解除され、

「二度と軍国主義に立ち返らないような憲法」

 というものを制定されたのだ。

 ただ、今の国民は、そんな時代背景を知らずに育ってきていた。

 しかも、学校教育から、徹底的に、

「戦争は悪いことであり、軍隊を持たない国」

 ということで教え込まれてきて、実際に、戦争に巻き込まれることはなかったのだから、その状況は、当然のごとく、

「平和ボケ」

 であり、精神的には、

「お花畑状態」

 といってもいいだろう。

 そんな国家において、

「戦争をする」

 ということが、いかに愚かなことなのかということを、どうやって教えればいいのか?

 確かに、子供の頃から教え込んでいけば、

「戦争はいけないことだ」

 と、頭の中には叩き込まれるのだろうが、

「どうしていけないのか?」

 ということが分かっていないのではないだろうか?

 そもそも、

「それを教える先生に分かっているというのだろうか?」

 確かに、先生くらいの年齢であれば、子供の頃に戦争を味わったはずであった。

 今でこそ、

「驚異のスピードでの復興」

 というものを成し遂げたこの国においては、元々の国民性が、

「勤勉で真面目」

 ということで、

「吸収する」

 ということには長けていた。

 ただ、元々は開発力というものは、世界でも軍を抜いていた。

 特に、戦争中などにおいての兵器開発力では、あまり目立っていないというだけで、かつては、母国を、

「連戦連勝」

 に導き、さらには、

「不敗神話」

 を気づいたことで、世界から、恐れられた時代があったくらいである。

 だが、そのせいで、列強から疎まれたのだ。強すぎるがゆえに、その制御が利かなくなっていることで、

「目の上のタンコブ」

 だったのだ。

 だから、

「出る杭は打たれる」

 ということであり、彼らも、列強とは一線を画したところでの大陸進出ということをもくろんでいたのだ。

 そうなると、国家における進出計画は、

「そのうちに、列強との衝突は免れない」

 ということであっただろう。

 そもそも、大陸などへの進出は、いずれ訪れる、世界の大国との対立に向けた、

「自給自足」

 という国家体制の確立のためであったわけなので、母国としても、

「一度走り出してしまえば、逃げることのできないところまでやってきた」

 ということになるのだった。

 それが、

「世界における我が国の立ち位置なのだ」

 ということであった。

 この地球という星には、

「パラレルワールド」

 という考えが昔からあり、

「いくつもの、時系列に閉口した世界が、複数存在する」

 と言われているらしい、

 自分たちが今住んでいる世界は、その中でも、かなり発達した世界であり、

「開発は不可能ではないか?」

 と言われていたこと以外は、かなりのスピードで、開発させられていた。

 というのは、それだけ、この世界でのこの国の人たちは、

「無駄なことをしないで、最先端技術を、最速で作ることができる」

 ということに長けた、

「人種」

 だったのだ。

 複数存在すると言われる、この世界においては、基本、

「人間が世界を支配している」

 というもので、我々の技術では、

「ここまでしか分かっていない」

 という発想があるので、さらに、

「世界の広がり」

 つまり、

「平行世界」

 といわれる、

「パラレルワールド」

 というものが、もっとたくさん存在していて、そのほとんどが、実は、

「人間以外の生物が、支配する世界なのではないか?」

 という考えに基づいているのであった。

 他の世界のパラレルワールドでは、

「どうやら、パラレルワールドというものが存在している」

 ということは分かっているが、

「それはどのようなものなのか?」

 というところの研究までは進んでいないようだった。

 一つの世界においては、

「パラレルワールドだけではなく、他の研究も別の研究所がやっていて、それぞれに主張があることで、下手をすれば、お互いの主張で、せっかくの発見であったり、ただしいアイデアを打ち消してしまっている」

 ということになりかねなかったりする。

 しかし、この世界においての研究というものは、

「何か一つを研究するのであれば、その一つのことに向かって、他を考えずに突っ走る」

 という考えを持っていたのだ。

 もちろん、一長一短あり、

「長所と短所は紙一重」

 と言われるのと同じことで、

「範囲が狭いだけに、ガチの考えが交錯することで、考えが、闘争というものが、喧嘩になりかかることもあるくらいで、それだけ、考えは似ているのだが、中に入ってみると、天と地の差があるといってもいいくらいだ」

 といえるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、やはり、

「自分たちが一番正しい」

 という考えにいたるのは無理もないことだ。

 自分たちの中でも、

「このままではいけない」

 ということは分かっている。

 だから、人間の発想は、、自由であり、その自由さゆえんに、

「結論付けなければいけない」

 ということになった時、最終的に選ばれることは、

「多数決」

 ということになるのだ。

「多数決の危険性」

 というものを、どれだけの人が感じているのか、考えさせられるというものである。

 そんな国家が、戦後、

「パラレルワールド」

 や、

「タイムマシン」

 などというものに特化して研究をしていた。

 ただ、最近、その国家で、

「これは迷走しているのではないか?」

 と言われるような研究が行われるようになったことを、国民は知らないのだった。

「国家が、勝手にもくろんだ計画だ」

 といえるのかも知れないが、

「この話になると、奇抜すぎて、国家というものが、介入してくるということは、考えにくいのではないか?」

 とも言われている。

 それは、あくまでも、話がそこに行くまでに、いくつかの前提があったり、考え方があったりするので、それを踏まえると、

「国家体制の全体像を、どこかでしっかり理解しておかないと、この国を語ったり、まわりの世界を考えることはできないのではないか・」

 といえるだろう。

 そして、その前提としてあるものは、

「この国が、約20年くらい前までは、軍国主義国家として、世界に進出し、ある程度までの地域ナンバー1国家として君臨できていた」

 ということは間違いないようだった。

 しかし、

「資源に乏しく、国家体制が、他の国とはまったく違い、違った体制の下に、独自の国体を持っているということで、世界からの独立路線をとってしまったことで、追い詰められていった」

 という歴史を踏まえなければいけないだろう。

 結果として、

「異ぶり出されるということになり、戦争に対して消極的だった」

 というものを、

「強引に、戦争の渦に引きずり込まれたことで、最初から、引きずり出すつもりで、その大義名分まで用意されていれば、世界から孤立していたということからも、一気に、世界の中での狂犬と言われるような国に成り下がってしまったのだ」

 そうなってしまうと、

「戦う前から負けていた」

 といってもいいだろう。

 どこの国も味方をしてくれないことで、

「これ以上の戦争継続は難しい」

 と、判断した国家は、

「何とか和平交渉でうまいところを少しでも引き出せればいい」

 ということをもくろんでいたのかも知れないが、結果的に、どこの国も、

「和平交渉にすら、協力してくれない」

 ということになり、そうなると、

「国土がなくなるまで、戦争をやめることができなくなった」

 ということになり、最悪の、

「本土決戦」

 ということに突き進むしかなかった。

 いわゆる、

「全国民が、玉砕覚悟状態」

 であった。

「戦争をやるからには、負ければ捕虜になるわけにもいかない」

 ということは、さすがに国民も、それまで、軍が言っていた、

「士気を鼓舞する」

 というような戦果についてが、ウソだったということが分かると、もうこの国にいる以上、

「玉砕しかない」

 と思うのだ。

 受けてきた教育が、

「愛国心中心だった」

 ということで、それ以外の選択肢は、国民にはなかったのだ。

 何とか、国土が焦土になる前に降伏することで、何とか、

「民族の滅亡」

 という最悪の結果を免れることができ、そして、その後に訪れた、

「占領軍による統治」

 というのも、

「戦争中よりもさらに、物資がない」

 ということで、生き抜くには苦しい時代であったが、それを乗り越えた国民が、復興を成し遂げることで、

占領下」

 ということではなくなり、

「独立国家」

 として、新たな国家体制を持つことができた。

 ちなみにいえば、パラレルワールドでも、似たような敬意を辿った国があったようだが、そこは完全に、占領国家の属国に成り下がり、国内は、この国家よりももっと最悪という意味で、

「政治家というものが、私利私欲に走り、平和国家という名の下ではあるものの、実際には、政府自体が平和ボケし。さらに、元占領国の属国として、完全に、

「金ずる扱い」

 という国家に成り下がっている」

 というようなことを、この国家では知らなかった。

 そもそも、この時代までは、国家が、

「パラレルワールド」

 であったり、

「タイムマシン」

 なるものを研究しているというようなことは、

「もし知っている人がいるとしても、それは、ごく一部で、ほとんどの人に対しては、最高国家機密」

 とされていたということであった。

 それを考えると、

「これだけ開かれた国家としての、民主主義が確立しかかっている国であっても、最高国家機密というのは、存在するんだ」

 ということであった。

 国家機密は、実はそれだけではなかった。

「刑法の改正」

 というものが、最高国家機密となっていたのだ。

「なぜ、刑法の改正が、最高国家機密に当たるのか?」

 ということになるのかというと、今回問題になっている、

「刑法の改正」

 というものが、国にとっての、最高国家機密である

「パラレルワールドの研究」

 というものに、密接にかかわっているからだった。

 その詳しい話は、次章以降となるのだが、水面下で、進められていた、

「刑法改正」

 というものの内容は、

「死刑の廃止」

 というものであった。

 当時から、死刑というものに対して、国家として、

「不要なものだ」

 ということが、いろいろなところから叫ばれていて、実際に、最近では、

「死刑の廃止」

 というものに踏み切った国も少なくない。

 この世界において、国家として、

「死刑の廃止」

 が行われたのは、先進国に多く、まだ、後進国であったり、発展途上国というところは、まだまだ死刑が主流であった。

 その差がどこにあるのかということは、正直難しい解釈であったが、その解釈をどう理解すればいいのかということが、研究材料にもなって、そこから、この国における、

「最高国家機密」

 というものがいかに考えられてきたのかということが分かってくるというものであった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る