第8話 誰そ彼や

 村の男衆に引っ張り出され、穴から這い出た男──岸波大慈は、変わり果てていた。

 衣服などは当然身に着けていない。代わりのように全身に張り付いた夥しい汚物が筋肉のように皮を腫れあがらせて、彼は冬の鳥のように膨れていた。けれどもノソと歩く度、汚臭と共にそれはばたりばたりと剥がれ落ちる。やがて肉が露出すると、九朗と由理子は思わず目を背けた。

 ぶよぶよと、ゴムのように弛んだ肌は、病的なほどに──いや、実際病は抱えているのだろう──、その肌は白く、白く、色を知らぬほど白く、色など忘れてしまったかのように白く。しかしそのあまりの透明故に迸る血管はその道程を隠すこともできやしない。大慈の肌には紫の線が模様のように走っていた。毒魚の肝のようだ。九朗は口元を隠した。

『おあいあ、おあうえお』。啼いた音程は意味を為すのか、為さぬのか。それどころか彼に意は残されているのか、全てを抹殺されたのではないか。彼は果たしてあの穴の最奥で何を想い、『おおん、おおん』と鳴き声を上げたのだろう。それはきっと、この世の誰にもわからない。大慈本人にもわからないだろう。しかし同じ境遇を一瞬と言えど共有した九朗には、それが何だかわかるような気もした。

 ──けれどもそれが何になる。慰みにだってなりはしない。この小さな子供の抹殺された未来と過去は僕が同情してやったところで何か変わるわけでもない。

 僕にしてやれることはここで終わりなのだ。

 九朗は背を向けた。

 大奥様は──大慈と抱き合って、仄かな団欒の温度を取り戻す。

『狐穴』の怪は死んだ。

 岸波大慈は生き返った。






 九朗と由理子は並んで列車に揺られていた。

 目を凝らせば、黄昏時の薄闇の向こうで影が揺れている。長く世話になった『矢切村』が見えなくなるまで、もう少し。

 寂寥は当然、あるのだろう。由理子は村を出てから、唇を縫い合わせたみたいにずっと黙ったまま、山々に囲まれた箱庭を眺めていた。

 九朗は通路側に座っていたから、由理子の表情はわからなかった。けれどもどうにも、その黒髪が濡れたように濃く見えて仕方がなかった。

 そして、そんな景の全てを断ち切るように洞穴に入った、瞬間。

 由理子が息を吹いた。

 彼女の視線は低く落ち込み、新しい世界への憧憬は見られない。

「九朗さんを穴に落としたのは、竹ちゃんですよね」

 九朗は黙ったままだった。答える必要すらない。

 二人の間には欺瞞など意味を持たない。

 由理子には、信じられない物を述べることが、随分と苦痛のように見えた。

 素直な人間は、自己欺瞞にも至れず事実と向き合うしかない。

 降り始めた雨のように一歩ずつ、唇の輪郭を確かめて、反芻しながら口にする。

「優しい……人なんです。私の両親が行方不明になる前からずっと、お兄ちゃんみたいに優しくしてくれて……」

 由理子は呆然と涙をこぼした。

 深く、雫を湛えた瞳は、きっと歪曲の果てに過去を見るだろう。そうして彼女の脳裏に、竹原君が今までしてくれたこと、その在り方を、忘れぬようにと焼き付けるだろう。

 乙女の泣き顔は鑑賞物ではない。九朗は目を逸らした。

 そして肘置きに体重を引っかけて、彼は想う。

『誰そ彼や』

『果たして『狐穴』の怪は、本当に岸波大慈だったのだろうか』

『彼が実際、岸波大慈である証左は何処にも無い』

『あんな地獄の底のような環境で、七歳の少年が生き残れるものだろうか?』

『大奥様は、竹原君にだけでも四十二人、穴に落とさせたわけであるから、その中の誰かが竹原君の甘さ故に実は生きていただとか、誰かが誤って滑り込んだとか、別人である可能性はいくらでも考えられる』

『──何故、岸波大慈は引っ張り出されたときに目を抑えていた?』

『彼は盲目であったはずだ、勿論程度はあるだろう。例えば激しい光は感じられるのかもしれない。闇に慣れた器官が、光に怯えて反射行動を取らせたのかもしれない。他には、大勢の前でコンプレックスの目を隠したかっただとか……理由は幾らでも考えられる』

『けれどもどうにも──引っかかって喉元から落ちてゆかない』

『彼は誰そ彼や』

『『狐穴』に囚われたのは誰そ彼や』

『あの木枠は、空間が元々座敷牢か、それに近しいものだったことを示している』

『座敷童の正体として民俗学上考察される、一種の推論として、何らかの事情で座敷牢に閉じ込めておいた人物が、何かの拍子に出てきてしまった、というものがある』

『故にその肌は白く、埒外の行動を取る、と』

『『狐穴』が座敷牢であるとすれば、狐とは、狐憑きのことだろうか?』

『嗚呼、囚われていたのは肉体だけではない、精神もだろう』

『竹原君も大奥様も『狐穴』に心を囚われて、それは現在だって継続している。誰そ彼や? 洞穴が切り取った生涯は幾つになる?』

『離れに漂う無数の影が『守らねば』と誓ったのは誰そ彼や』

『順当に、あの岸波大慈なのだろうか、いや』

『……これは希望的推論だろうか?』

『影たちが、竹原君に落とされた者たちだったとして、彼らが、竹原君を庇おうとしていたのではないか。これは僕の希望的な予測に過ぎないだろうか』

『あの若者が自らの意を殺してまでしたことに、同情的であったのではないか』

『だって、そうだろう。竹原君の背後には、影は一体だって見えなかった──』

 夢想に耽ればそうしただけ、九朗の身は氷の沼に沈むようだった。

 振り返るように由理子に視線を注ぐ。

 ぼた雪のように降り続けた少女の落涙は、小さな水面を作り上げていた。

 何者も映り得ぬ孤独の湖。その畔で、九朗は思い至る。

【は、】と。水中に墨が一匙垂れ落ちた。

 軌跡は下へ、下へと──すべり、流れてゆく。

『うら若き男女の恋模様を引き裂いたのは誰そ彼や?』

 僕がこんな村に訪れなければ──彼と彼女は何時か順当に結ばれていたのではないか。

 水滴が鏡面を垂れてゆくみたいに、全身の熱が引いて行った。代わりのように背筋を沿って訪れた焦りは、手拭を彼の顔面に叩きつけた。

 しかし、【ばごん】。

 爆ぜる音と共に手拭は吹き飛んだ。

 命の熱。そしてその熱の匂いのしない、冷たく乾いた車内に、白髪交じりの男が衰弱したように身を屈めていた。その隣でただ潤いを失ってゆく若い女は、今にも瞼を閉じようとしている。

 女に寄り添うように立つ──影は、誰そ彼や。




























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黄昏の裏に狐穴 固定標識 @Oyafuco

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