第7話 悪意の園

 日が落ちてから、九朗は座敷に通された。

 後ろ手で障子を閉めると、ハードカバーの本を片付けるような、簡単な音がした。

 それがあらゆる雑音の終止符であったと九朗が気付いたのは、行燈の中で輝く炎の紅さに目を焼いた後だった。

 澄んだ煙の香りにくらくらしてから、自分が酩酊の水中にいたことを思い出す。

 瞳が渇いていた。どのくらい、呆けていたのだろう。

 薄暗い室内は、そう広くはなかった。座布団が一枚足元に敷いてあったので、九朗は胡坐をかいた。

 正面に老婆が座している。

 大奥様は墨で描いたみたいに雄大に、しかし微動だにしない。九朗と老婆は探り合うように対峙して、また気の遠くなるくらいの時間を延ばした。骨が抜け落ちるような湿った音をたてて、悠久が極小の空間に溜まってゆく。

 ──青い唇が、しゃがれた息を吹いた。

「貴方が由理子のお気に入りですね」

「そうなんですかね」

「【狐穴】の怪物が大慈とはどういう意味?」

 九朗と老婆の言葉は接続していなかった。九朗は嗚呼、と妙に静かな心地になる。

 俺は招かれた客ではなく、巣に訪れた餌なのだ。

 聞き出したいことさえ聞ければ、俺にはもう用は無い。

 自然、九朗の背筋が張った。

「大慈は私の息子」

「……らしいですね。離れの家系図で見ました」

 老婆は細い目元を一層細く潰した。嬉しそうにしているようにも見えたし、訝しんでいるようにも思われた。

 しかし九朗は考える。いやらしいほどに喜んでいる、と。

 なに故か。それは九朗の生涯の経験から為る理屈だった。絶対的優位に立っている時に、こういう手合いは相手を態々疑ったりはしない。

 彼らにとって民草とは、所詮手のひらの上で踊る子猿に過ぎないのだから。

「大慈は目が見えなかった」

 音は一定だった。意識的に感情を触発せぬようにと、重しを載せた声だった。

「だから勉強も農作業もできないだろうって、お医者様には言われたわ。夫は悲観して捨てようなんて言ったけれども、そんなの構うものですか、だって私が生んだんですもの。もう出会ってしまった我が子をおいそれと出来損ないだなんて、諦めてたまるものですか」

 九朗は生唾を飲み込んだ。こめかみが震えて、眼輪筋まで張ってゆく。

 怖気があった。

 何故この老婆はこんなにも

 まるで過去を懐かしむみたいに滔々と──

「大慈はやさしい子だったわ。できないことが多いのを恥ずかしがっていたけれども、そんなの私はどうでもよかった。大慈にできることと、やりたいことを見つけてあげるのが親の役目。生んだ役目で責任だと思った」

 語ること、思い出すことは、老婆の喉に油を差したようで、とめどない水勢が、九朗の意識をイメージの世界へと押し流してゆく。

 彼が水晶体の中心で眺めたのは麗らかな幻想だった。今よりもずっと若く美しい大奥様が、瞼を閉じた幼い少年の手を引いて、歩幅を合わせて足跡を残す。

 笑顔の絶えぬ翡翠色の世界。

「けれども──六年が経って、同い年の子がみんな学校へ行きだして……夫は大慈を外には出さなかった。岸波の恥を広げて溜まるかって、ねえ。今思い出しても虫唾が走る」

 行燈の灯りが、最期に刹那大きく燃えた。梵と音を捨てて火が消える。

「ああ、あの時殺しておけばよかった……なんて、後悔しても遅いのよ」

 夕焼けが細く差す、生ぬるい暗闇が室内に満ちた。


「一年が経ったわ」

 老婆の内の獣を押さえつけていたはずの檻は、キシと音をたてて歪み始めた。

 震えているのは声なのか、神経なのか。しかしそれがどちらであったとしても、この昔話の結末は確定した過去なのだから、何を思おうと価値は無い。

 九朗には何もできない。意味なんて在りはしないのだ。ただこの先にあるのは、終わってしまった胸糞悪い事実だけ。

 両手で目を覆って隠してしまおう。見えなければ見なければ考えずに済む、嗚呼そう考えたのは頭蓋の裏の小賢しい肉。

 けれども虎をも射殺す圧倒的な角度を持つ好奇心は、指の隙間から彼らを眺めていた。

 肉のやわらかい部分を探していた。

 九朗には何もできない。伸ばす手は何物も掴めない。ただ神の気まぐれの様に訪れる波に揺れることだけが、唯一彼に許された行為だった。

「私が学校の説明会から帰ってくると、大慈がいなかった。何処にもいなかった。すぐに気付いたわ。夫が何処かへ隠したんだって。普通に訊いてもとぼけて答えなかったもんだから、脅してやった。いろんなことをしていたからね」

 風音のように鳴ったのは誰の喉だっただろう。

 夕が眩む。白日の下に晒すその全ての気力を失ったみたいに、光が逃げてゆく。

「そうしたら、穴に、と」 

 顔中の皺が反転した。

 真下に垂れ下がっていたはずの緩んだ肉の、その全てが天を突いた。頬骨が浮き上がって白い皮を伸ばす。まるで大笑いするみたいに口角は吊り上がり、その先端は針となって血を落とす。

 老婆は鬼と至る。

 夜叉の面など不要だった。

 老婆は興奮していた。いや、高揚していた。目玉は紅く殺意を重ねている。

 彼女の生涯全ての遺失物が、振り返ったその空間に落ちていた。

 取り戻せぬとわかっていて、だからこそ熱を以て望んだ。その空っぽの蛹の時間は彼女にとって、暴かれた悪意の園だった。

「眩暈がしたわ。目の前にいるモノが人間だなんて信じられなかった。それで穴に入ろうとして、皆に止められて。軟禁までされたのよ。二週間縛られたままだったかしら。それで漸く部屋から出ることを許されて、どうやって生きていいかわからなくなって、そのまま夜になって」

 鬼は吐き捨てた。

「夫に求められた」


『次はまともな世継ぎを作ろう』

 転げたみたいに傾いた光の中で、老婆は大きな影を背負っていた。埋め尽くす悪意が、どくどくと流れ出る。畳の隙間。襖の溝。棚の空白。影が潜んだ、あらゆる不毛なる密着の中から斑の臓器が手を伸ばす。


 背骨から染み出た毒の唾は、九朗の体温を奪った。震え出しそうになる歯の根を、より強い力で押し殺して、彼は衝撃に耐えるみたいに固く、拳を握った。

 強い感情は強い感情を呼ぶ。九朗はそれを強く知っている。

 未練はいつだって殺意に混ざって汚く色を変える。

「抱かれながら誓った。こんな男は必ず殺す。殺して邪魔なモノを全部捨てて、岸波を全部掌握するまで死なない。その一心で、邪魔なものを穴に食わせていたらこんな歳」

 小箱に封じ込まれた悪意の絶頂。水底で冷たい泥を被せて隠していたはずの抑えきれない執念。最早何物も入り込めない無痛の鍵穴。

 記憶の剣に貫かれて、あらゆる熱が抜け落ちてゆく。

 鬼の面は影を吸い込んで漆の色にも重なった。光を吸い込んで膨れてゆく。その膨張はまるで深穴だった。嗚呼この老婆もまた『狐穴』に囚われている──

「哀れでしょう」

 しかし彗と

 老婆に火が灯る。

 白波が帰るみたいに影は焼滅した。

「こんな時間の止まった村で生きる事を選んだ時点で……私の人生は終わっていたの」

 一滴目の雪、その幻覚。

 九朗は、老婆の涙に冷徹とは異なる温度を見た。

 心臓は随分と落ち着いていた。とくとくと、時計の針みたいに一定に走っていた。

 なに故か、九朗はそれを傲慢であると感じていた。

 もう一つの命。悠久にも近しい取り返せない時間。真っ当なる生。その全てを奪われた正面の女性に罪は無い。

 などとは言わない。断じて彼女に正当性は無い。

(殺して邪魔なモノを全部捨てて、岸波を全部掌握するまで死なない。その一心で、邪魔なものを穴に食わせていたら)

 嗚呼と九朗は眉を歪める。離れの無数の霊は──

 生涯最悪の納得が、頭蓋の真ン中で霧散した。重たい視線を持ち上げれば、老婆は何事も無かったみたいに平然と影に沁みている。

 一体、何人殺したのだろう。一体、どれだけの未来を奪ったのだろう。

 どれだけ共犯を作って、どれだけ捨てたのだろう。

 竹原の次は、誰を人形にするのだろう。

 刹那九朗の脳を過ったのは離れで交わした『漢の約束』だった。

 若者は言った。

『大奥様は、由理子があなたを助けたと知ったら、由理子も穴に落とすでしょう。俺に落とせと言うでしょう』

 文化包丁が軽い音をたてて離れの床に落ちた。

 毒を目の前でなみなみと注がれて、呑めと命じられるようなものではないか。

 若者の顔面は脂汗と涎、涙でぐちゃぐちゃに濡れて、大層醜く歪んでいた。

『俺ぁ、それだけはできないんです』

 遂に彼は膝を突き、堪え切れない嗚咽を垂れ流した。声を殺して悲鳴を叫んで、嗚呼何処までもこの男は不自由で何処へも行けない。九朗の腹の底で尖ったモノが暴れまわる。

 苦悩。苦悶。ふらと訪れた素性もわからぬ男に、ずっと好いていた幼馴染を託さねばならない若者。

 九朗は恋を知らない。けれども、この若者に凄まじいものを感じない鈍らでもない。

『だからあなたには生きて欲しい。生きて、由理子を攫って欲しい。大奥様に会いたいだなんて、そんな願い全部突っぱねて今すぐにでも追い出したいんです』

『──自分で攫ってしまえばよいではないか‼』

 九朗は叫んだ。突然の波浪に竹原は目を丸くする。九朗自身も驚いていた。

 叱咤のようで激励のようで、まるで彼の主義とは反する感情の発露だった。しかし毒々と加速し続けるこめかみの血流が、足踏みを認めない。

 蹴り上げるように叫んだ。

『君が! 君が、由理子さんを連れて何処へでも逃げればいい! 都会は怖いだのなんだの言っておいて、自分が付いて行ってやりたいとは微塵も思わんのか。君は──』

 怒涛の音の波に傷ついて、九朗は激しく咳き込んだ。しかしどうにも止まらない。頭蓋の窯の中で溶鉄が煮えていた。激情の暴走は誰にも掌握できない領域まで蝕んでいた。

 赤黒い視線を持ち上げると、竹原は妙にすっきりとした表情をしていたものだから、それも九朗の癪に障った。正座で姿勢を正した若者は、落ち着いた調子で語る。

『俺の家は貧乏で、小学校にだって行けなかったんです。それを大奥様は拾ってくれて、こんなになるまで育ててくれた。飯を食わせてくれたし、飯の作り方も教えてくれた。今はなかなか話すこともできませんけど、昔は遊んでもくれたんですよ』

『下らん! 小学校に行けない男児を自らの庇護下に置くだと⁉ 君は知らんようだから教えてやる! あの婆はかつて七歳の息子を喪っている。君を、息子の代わりにしただけだ、君は……代替品だ‼』

 しかし竹原は動じなかった。薄々感じていたのかもしれない。大奥様が、自分を透かして別人を見ていたことに。

 どれだけ怒涛、暴風と叫んでも、九朗の怒りは竹原には通じなかった。透明な壁が双極を隔てているように感じられた。言語が異なるみたいに九朗の叫びは届かない。

 何処までも怒りが昂ってゆく。この感情を溜め込む壺に底は無いように思われた。

 悔しいと、嫌だと。竹原は完全に理解している。理解の上で、自分までもを殺そうとしている。九朗は絶叫する。それは最早悲鳴だった。

『その果てに……殺人の処理だと⁉ 笑わせるんじゃアないよ! 君は! ただ利用されているだけだ。莫迦だ! 大莫迦者だ。どうしようもない! 救いようもない!』

 嗚呼何故、僕はこれほどまでに声を荒げているのだろう。九朗の頭のもう片方で、呆れ顔の男が見ていた。けれども九朗は止まらない。青筋をはっきりと浮かせながら、彼は怒る。

 何者かのために、なに故か怒る。

 けれども竹原の調子は変わらなかった。終わってしまったものを眺める瞳だ。

 悔しいような痛みが足の裏から這い上がってくる。九朗は勢いよく床を踏んだ。

 まだ終わっていないと言うのに!

 後退した先が断崖ならば、前方に進めばいい。ただ死ぬよりも千倍マシだ!

 そう、叫ぼうとして、竹原の冷えた言葉が喉を締めた。

『それでも、俺にとっては母親なんです』

 瞳は九朗を見ていなかった。振り向いて雪に残った足跡を見れば、竹原の軌跡が曲がりくねって歩いていた。永劫に消えない足跡を目印に、彼は自分の立ち位置を理解する。

 何処へも行けないのだ、と。

 春を諦めた若者は、明けない夜を歩き続ける。

『それに俺は……今まで殺めた四十二人を弔い終えるまで、此処から出られない』

 四十二

 四十二。

 目が回る。吐き気が燃える。

 自分の意志と関係なく。

 親子などという名ばかりの隷属の元にあらゆる望みと自由を奪われ、

 その上で此処に残ると言うのか。

『時間稼ぎくらいはさせてもらいますよ』

 言って腕まくりのジェスチャーをする竹原に、九朗は本気で殴りかかろうとしていた。それは見覚えのある仕草だった。同じ場所で由理子もまた、こんなポーズで気取っていた。

 長い時間を共有して、動作も思考も似通って、互いのことを想い合っていて、それでいてなお引き裂かれることを自ら望む。麗らかな笑顔の背景に絶望の影が降る。

【泣け!】と【叫べ!】と九朗は怒り猛った。

 先刻のように情けなく浅ましく、生まれたての赤子の様に泣き喚け! 由理子を自分の手で守りたいと、我儘を言え! 道を閉ざすな、春を望め!

 激痛をも厭わぬ歯軋りが呼んだ古びた歯車の音は、九朗を懐古させた。僕がこの若者くらいの齢だった頃。何を考えて生きていただろう。

 周りの人間が全員下等に見えて、言葉は信じられず、文字だけを信じて生きていた。

 ああ竹原君はどれだけ上等なのだろう。何故お前が贄にならなければならない。

 何故だ。何故だ、何故だ!

 突如九朗の身体は立つことを諦めた。全身の力が抜けてその場に座り込んだ。

 今まで何度も理屈の通じない相手と向き合ってきた。その度に敵意を燃やしたし、命の危機も乗り越えてきた。それに比べれば眼前の若者は言葉も理屈も通る。通ると言うのに──

 信念があった。揺るぎないものがあった。素晴らしいことではないか、信じたいものと守りたいものがある。ただし、自分を犠牲に払ってでも。

 九朗は口の中で『僕の負けだ』と独り言ちる。

 そして強く、竹原の肩を掴んだ。

『君は必ず由理子さんを迎えに来い。絶対だ』

 それは叫んでも意味のない、ただ一人の人間としての願いだった。

 盤石の地面を踏んでいるという自覚が、九朗の言葉に楔を刺して、願いは袈裟懸けに深く染み込んだ。

 けれども竹原は黙って、ただ笑うばかりだった。


 九朗は現状に立ち帰る。

『漢の約束』などと言われた時には鼻で笑おうとしたさ、僕を殺しかけておいて、何をほざくかと蹴り飛ばしそうになったさ。けれども──

 拳はその握力と緊張で、血管も閉ざされ冷えている。

 冷え固まって死体のように、石のように此処にある。

 彼は心中、目いっぱいにそれを振り上げ、老婆に向かって降すように息を吹いた。

「大慈さんは生きていますよ」

 九朗は最後の札を切った。





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