第6話 二歩

 目が眩む。

 久方ぶりの光に神の存在を信じたくなる。

「九朗さん、」

 けれども九朗にとっての勝利の女神であった女中は、おいおい泣いていた。

 のほほんつるりと整っていた輪郭も、ゆらゆら揺らいで、今にも崩れ落ちそうだ。

 窓から差し込むのは、月光を追い越した日の光だった。もう、昼頃になるらしい。

「申し訳ありません、申し訳ありません」

「……大丈夫。昨日飯を持ってきたのが貴女じゃなかった時に、僕が疑うべきだった」

 血の色の月が昇った夜、離れに夕飯を持ってきたのは料理人の竹原だった。

 感情を露わに泣きじゃくる女中とは対照的に、九朗の頭の中は冷えていた。離れの床に転がったまま、頭蓋の中は暗い懸念が小魚のように回遊していた。

 竹原はまるで慣れている。


 九朗は水責めに遭った。

 感動の再開を果たし、あわや抱擁にまで至りそうな雰囲気を絹裂きに処したのは、無論と言うか悪臭だった。恐ろしい臭さに辟易した女中に、近くの小川に叩き込まれてから、着替えを持ってきた彼女と共に、こそこそと離れに戻る。

 柔らかな日差しの当たる場所に腰を落ち着けて、二人は(ほう)と肩の力を抜いた。

 傷の消毒と手当を受け、清潔な衣服に袖を通すと、しかし九朗は目尻を吊り上げ、長く息を吐いた。まだ何も終わっていない。

 おそらく、最大の危機は脱した。だから彼がこの先考えるべきことは、どう、生き残るのかという点だった。

 九朗はちら、と女中に視線をやる。ひどく憔悴しているように見えた。どうにも、九朗が穴に放り込まれたことを自分の責だと考えているようだった。

 むずがゆい心地だった。

 命を助けられることは、九朗にとってはあまりにも久しいことであり、同時にそれは恥じるべきことだとも考えていた。彼は生来、無駄な高慢をブ厚く着重ねている。

 だから九朗は白々しくも語る。

「助けてくれて……ありがとうございました。けれども貴女は仕事に戻りなさい。怪しまれてはいけないよ、さあ僕は大丈夫だから」

 けれども女中は納得しないようで、何か、何か私にできることはと食い下がる。

 ふと、腹が鳴った。

 二人して瞼をぱちぱちさせた後、噴き出すように笑う。

 女中が持ってきた握り飯を、ゆっくりと味わって、九朗は物陰に隠れた。


 薄暗い影の中で、九朗は頬杖を突いて待ち続けた。今しがた命の危機に晒されていたというのに、随分思考は透明で、何事も真っ当に行くような青い心が静かに沈んでいた。物思いに耽るには十分すぎるほど、離れの中は穏やかだった。

『狐穴』の中身は随分と音が反響したから、ここは穴の中よりもずっと無音で満ちている。

 九朗は瞳を閉じて闇を思い出す。

 そして額に目を寄せると、やはり何かの気配がした。

 街中を行く浮遊した人々とはまた異なった、足に重い土を被せた人々の悲しい律動が、彼の骨髄を微震させる。

 押し入れの妖怪として過ごした間も、こんな風に集中してみたが、屋敷の中の気配は随分薄かった。ふわりと、微かに風に吹かれる程度である。

 けれども離れには、随分と多く霊が縛り付けられている。

 心の肌に刺さったまま抜け落ちないのはやはり、竹原の躊躇の無さ。そして『狐穴』の中で感じたあの視線は──

 我楽

 と、音をたて離れの戸が開いた。

 目頭を揉む。九朗は腰を持ち上げた。


「竹原くんだったかな」

 若い料理人は激しく動揺していた。乱れた髪と服装は、彼がなりふり構わず走ってきた証拠であったし、その瞳は振り子のように忙しない。

 握られた文化包丁も、ふらふらと所在ない様子だった。

 竹中は額に手を当てた。そうして暫く首を振ったり頭を掻いたりしてから、だらりと両手を垂れ下げた。小さく、しかしはっきりと唇が動く。

「あなたを助けたのは、由理子だろう」

「ゆりこ?」

「……違うのか?」

「あ、いえはい、そうですゆりこさんです」

 文化包丁が角度を取り戻そうとしたのを見て、九朗は諸手を振って肯定した。

 女中の名は由理子と言うらしい。なかなか、古風だ。

 竹原の表情には悔恨のようなものが見えた。歯は食いしばられ、悩まし気に歪む眉と湿り気ほどの涙を湛えた瞳に、正気を感じ取るお気楽な者はいないだろう。

 九朗は身構えた。嫉妬心に満ちた男ほど醜いモノはない。

 九朗の嘲りに近しい警戒は、彼の高慢さからなるものであった。高く脳天から伸びた鉄線は固く、彼の伸長を支えている。

 だが、その腱を断ち切ったのは、竹原の強い意志だった。

 若者は深く、腰を折り曲げた。

「恥を承知で頭を下げる。漢の約束をお願いしたい」

「──は?」

 竹原の語った内容は……彼が幼い頃から由理子に懸想していたことに起因していて、同時にその心を諦めようとするものだった。

 滝のように流れ込む激情を受け止める九朗は、しかし恋を知らない。なに故かと問われれば、彼はシニカルに笑って長ったらしい論を語ることだろう。

 だから九朗は、竹原がどれだけあの女中を好いていようが、どうでも良い。共感し得ないものに対して彼が何かを犠牲にする意味は無い。どうでも良い、

 どうでも良い、はずなのだが。

 なに故か、気が傾いた九朗は二つ条件を出した。

 一つ目は、自分を大奥様ともう一度会わせる事。そしてそのために一つ、伝言をすることだった。

 竹原はそれに強く反対したが、九朗がそれを通さねば『漢の約束』も守らないと断言すると、もう一度だけ反対してから、しぶしぶと頷いた。

 満足げに頷く九朗は、歌い上げるみたいに二つ目の条件を述べた。何事も上手く行くという爽快な心地が九朗の舌を滑らかに回した。

 これこそが本懐、九朗が竹原に求めたい、彼なりの最良だった──

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