第5話 地獄堕ち

 虫食いの記憶を掘り起こすと、確か夕飯を食ったところまでは覚えている。

 しかし、どうにもその先が思い出せない。九朗は歯で濾して息を吐いた。一体何を食わされたのやら、などとぼんやり危機感薄く考えて、そして吐いた分を取り戻そうとした。

 その瞬間全身が総毛立つ。ガラクタの嘶きのような汚い音と共に九朗は嘔吐した。

 臭いである。

『狐穴』の中に満ちていたのは、腐敗と汚物と薬品を混ぜて窯で煮込んだような、最低の悪臭だった。鼻と口を塞いでも全く意味を為さない、脳の内側にそのままへばり付いて粘度を増してゆくような──

 九朗の目からとめどなく涙が落ちた。あまりの刺激臭に肺の中身は燃えるように痺れた。そのまま、更に少し胃液を零す。垂れた酸がずぅっと下に下に、落ちてゆく。

 は、と正気を取り戻すと、まず九朗は自分の位置について考えた。焦って考えた。少なくとも此処は『狐穴』の中で間違いないだろう。上も下も暗闇に包まれて位置は判然としない。しかし、ここが底だとは思えない。

 どうやら、何かに引っかかって奇跡的に中途にとどまっているようだった。不要な物などという曖昧な基準でものを放り込んでいたものだから、何処ぞで詰まったのだろう。

 ゴミの分別くらいしやがれ、と憤りそうになって、そんな自分に少し笑う。頭を振るとぱらぱらと屑が落ちた。相変わらずの悪臭と汚れ、気分は最悪で絶体絶命。

 しかしどうにも死ぬ気がしないのは、なに故か──

【おおん おおん】

 九朗の思考を股裂きにして、はるか下から音が響いた。

 獣の叫び。

 狂獣が贄を求めているのだと、九朗は漫然と、しかし確信する。

 真黒に塗りつぶされた足元の闇に視線を傾ければ、牙の並んだ口がぽっかり開いている。そんな荒唐無稽な幻覚が呼んだ怖気は稲光となって、背筋でジグザグと猛る。

 九朗は臭い生唾を飲み込んだ。

 そして深く、長く、身体に詰まった汚物のような停滞感を吹いた。

「僕はこの村に何をしに来た」

 その声は、獣のものに対して小さく微かなものだった。自分自身に問えればそれで十二分だったからである。九朗という男は──この村に何をしに来たのか。

 ひっそりと、九朗は口角を引き上げた。


 ボタンが千切れて、遥か下へと落ちていった。シャツの裂ける音を何度か聞いた。

 何かが刺さった左腕が熱く痛む。帰ることができたのならば、破傷風の検査は必須だ。などと、どこか気楽に九朗は穴を下っていた。いや──こんな非現実から脳を離さねば、やっていられなかったのかもしれない。

 おおん、おおんという鳴き声は、一度聞こえたきり二度と聞こえる事はなかった。九朗は念のため壁に隈なく触れながら更に下へ、下へと降りてゆく。壁は木製だった。やはり人工のものらしい。

 地獄へと近づきながら、九朗は只管に頭を回転させる。何かを考えていないと狂いが伝播する予感があった。

『狐穴』は不要な物を捨てる穴。この扱いを見るに、俺は不要と見なされたか。なんて、そこまで考えてつい笑う。ただ飯喰らいは、そりゃあ邪魔だろう。

 夜目が効いてきて、なんとなく穴の中身が見えてきた。

 板張りの壁に沁みついた黒っぽい沁みは、果たして単なる汚れなのだろうか。

 上がった息を整えようとするだけで肺の中身が腐ってゆく。下へ向かえば向かうほど、悪臭は強くなっているように感ぜられた。すべての感覚に分厚いゼラチンの膜がかけられたみたいに、何もかもが判然としない。

 喉が渇いていた。舌が縮んで、歯を撫ぜると不快な味がした。心臓の音が破裂して、それが千回、狭い頭で反響した。耳から脳味噌が零れるのではないかという異常な頭痛。しかし何やら寒くって、血の流れが遠のいてゆく。

 そんな生き地獄が永遠のように続いて、どれだけの細胞が死しただろう。

 永遠は絶たれた。

 九朗は転げ落ちるようにして『狐穴』。

 その最底に降り立った。


 空間は思った通りに随分広かった。微かな音だって遠くまで反響する。長い食道を下った先の胃の底は、この世の不浄の全てを溜め込んだ蕾のように、醜く膨れていた。

 床(地面なのかもしれない)には形も内容も様々に物が散乱していた。踏みつけると水っぽい感覚と共に、濁点を伴った汚らしい音が響く。

 強すぎる悪臭は覇気のように漂って、肌の上で燻っていた。

 しかし風は無い。

 だからやはり、風音ではないのだ。

 九朗は左腕を抑えたまま、汚物の海に足首まで突っ込んだ。今更汚れを厭う余裕はなかった。

 帰るアテはある。だから今は、自分にできることを為すのみだった。

 魂の律動を含有しない深い沼は、彼が歩むことを拒んだ。

 たった一歩が果てしなく重く、遠い。目は霞み、鼓膜は残響に揺れるのみ。

 悍ましい吐き気が、背骨の上で黒く燃えていた。

 彼はその瞬間、生涯最も野生に近く、孤独に近かった。つまりは獣に狙われれば一溜りも無い。死の気配が、九朗の心臓から去ってはくれない。

 九朗が『それ』に気づいたのは、十分ほど歩いた後だった。

 もっとも彼にとっては、永遠に思えるほどの時間だっただろうが──


 汚れた手で触れたのは木枠だった。

 賽の目に組まれた木枠は、腕一本通すのが精いっぱいで、此処から何処へも行けはしない。

 木枠は延々と続いていた。その長大さを呆然と眺めることしか出来なかった九朗には知り得ぬことであったけれども、それに果ては無く、終わりは完璧に壁と融合していた。つまりは城壁とも相違ない。

 九朗は悟る。これは、牢だ。

 篝火の最期の熱すら込めた息を吹き、手のひらで顔を覆った。

 木枠に背中を預けて嗚呼と声を漏らす。

 腐食の海の真ン中で、世の果てが超え得ぬ壁だと気づく。

 見えた希望の入り口は、あるいは出口はハリボテで、何処へも行けはしない。

 どうにも、そんな風だ。

 九朗は空気を殴りつけるみたいに勢いよく両腕を放った。

 その顔は、満足気にほころんでいた。


 音が遠くで鳴っている。

 朦朧とする頭の中で、無限の反響と共にその輪郭は融解し、言葉の意味は見えない。

 けれど、それを何度も、味わうみたいに反芻して

 理解する。

 九朗さん、と。

 

 天から垂れた蜘蛛の糸を何とか身体に結び付けると、九朗は欠片となった満身をもって叫んだ。

 声に意味は無かった。けれども、その怒涛に意味を見た『狐穴』の入り口の彼女は、九朗を全力と共に引っ張り上げる。

 九朗もまたそれに全力を以て応えた。





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