第4話 躓き石
『大奥様』との謁見を許された九朗は、三日ぶりに外の空気を呑んだ。野焼きの香ばしい匂いが肺に沁みてゆく。囚人のような心地で顎を擦ると、髭はちくちくと鬱陶しい。
多少身なりでも整えてから行くか、と顔を洗う最中、九朗は女中の呟きを聞いた。それは水音に掻き消されることを望むような微かな声ではあったが、確かに振動していた。些細な瀑布を裂いて鳴るのは、まるで恨み言のような羽音。
しかし九朗にはそれが、音としての震えであるのか、恐怖に類する感情からなるものであるのか判別しかねた。
気を悪くされないでください。
上の空のような音は排水溝に吸い込まれていった。
老婆が一人座っていた。
平穏な面で茶をすすり、そよぐ微風を感じては、眠たげな瞼を少しだけ持ち上げる。
屋敷の縁側に佇む『大奥様』は、ただの年寄りに見えた。
麗らかな庭園を背景に、まるで動かぬ地蔵のようにそこに在った。
九朗は無礼にもその隣に遠慮なく腰掛ける。そして姿勢を屈めて、じッとその案山子のような女を眺め続けた。
対して老婆は微動だにせず。
我関せずと言った風ではない。どうにも、元より九朗など眼中に無いように見える。
しかし九朗もそんな泰然自若は気にしない。ただ、会話よりも信じられる真実を探すために、彼は今ここにいる。
突き刺すような視線にも、やはり老婆は動じない。
彼の視線が何を見ているのか、果たして誰にもわからない。いやそもそも、彼は本当に何かを見ているのだろうか? 彼の意識は何処か遠い所にあって、実際その眼球は、光景を眺めるだけにとどまらない情報の土をかき分けているのではないか?
雲の影が通り過ぎて行った。
時の水勢が、粘つくみたいに遅くなってゆく。
そうして幾重にも連なった静寂が、どうにも増した濃度で白々しくなってきた頃。
九朗が薄く、唇を開けた。
「貴女が──何者に対してそんなにも怯えているのか、僕にはわからない」
老婆は動じない。
「貴女の背後には無数の影が憑いている」
老婆は動じない。
「けれどもその中に、一人だって子供はいませんよ」
老婆は茶を啜った。
「明日帰ります」
九朗は昼食の焼き魚を一口に呑み込んだ。
女中はお盆を取り落とした。寡爛、冷たい音が鳴る。
「明日の夕方に列車が来るから、それに乗って東京に」
女中はどうにも呆けていた。何を述べていいんだかわからない。
しかし丸く開かれた瞳は、騒がしく揺れている。
「ああそれと狐穴の音ですが、あれは霊の所業じゃありません。まあそんな説明をしても納得してもらうには足りないかもしれませんが、多分、聞いても何にもなりません。身の危険は、少なくとも大奥様が生きてる間は大丈夫です。はは、死んだ後どうすんのって、まあ何とかするでしょう、あの魔女なら」
女中の機嫌や事情など眼中に無いように、ただ言葉を並べる九朗に、彼女はずい、と詰め寄った。怒りや呆れのような感情は見えない、ただ、驚くように瞳は丸いままだった。
「帰っちゃうんですか?」
「元より帰るつもりでした。予定よりだいぶ早いですがね」
「でも……その、ああ、東京って怖いのでしょう?」
「まあ」
少なくとも此処よりマシだが。
などと態々口に出すほど、九朗も不用心ではない。女中は納得しないようで、諸手をしゃかしゃか振りながら続ける。
「ひ、人が冷たいとも。あ、九朗さんのことではありませんよ」
「……都会の人間だって優しい人は優しい」
しょぼくれて眉を下げる女中から、九朗は思わず目を背ける。
九朗だって、情が無いわけではない。ただ、他人に向けるよりも自分に向けることが優先されるだけだった。
あの魔性と同じ場所に長居するなど、尻の座りが悪いこと、この上ない。
「はーあ、東京かぁ」
女中は肩の力を抜き去って、瞼を閉じた。きっとその暗幕には煌びやかな都会の風景が広がっているのだろう。そう思うと何やら面白くなってきて、九朗はにや、と笑う。
「憧れでもあるのか田舎娘よ」
高い鼻を更に持ち上げて九朗が意地悪く言うと、しかし女中は素直に溜息を吐いた。
「竹ちゃん……あの、うちの料理人の竹原君です。実は幼馴染でして。彼がですね、私が都会に何時か行ってみたいって言うと、すごく怒るんです。怖い所だぞって、一人で何をしに行くんだって、ずっと兄気取りなんですよ」
めんどうくさそうに長ったらしく語るわりに、嫌悪感は出ていない。もじりもじりと所在ない様を見れば、他人の情に鈍感な九朗でも流石にピンと来る。
「ふぅん。それが嫌なのか」
「嫌ってわけじゃあ……?」
女中自身もわかりかねる部分があるようだった。ぺたぺた熱を吸わせるみたいに卵肌に手を添えて、首はふりふり忙しない。
若いなあ、なんて九朗は年寄りの気分になった。
あの竹原とか言う男、案外独占欲でも強いのだろうか。屋敷の妖怪として過ごしていた間、何度かすれ違ったが、なかなか目つきは冷たかった。
しかし事情を知ってみれば、先に面白さが登ってくる。
同じ場所で同じ時を過ごし、その上で何も感じることのない人間など少ないだろう。ましてやこんな、閉鎖されきった牢獄では。
女中のつるりとした卵肌に、警戒心が強い雰囲気は微塵たりとも感じられない。そりゃあ心配もするだろう。九朗は心密かに竹原君とやらにエールを送った。
「明日の朝食は楽しみにしておいてくださいね」
ふん、と鼻息荒く、女中は腕まくりのジェスチャーをした。健気である。都会の汚い空気に晒したくない気持ちもわからんでもない。
少しだけ、此処に留まりたいという気持ちが湧いてきて、九朗は頭を振った。
その夜の月は明るく、うっすらと血の色をしていた。
ような、気がするのだ。
ただ九朗にはそれを確かめる術がない。
それどころか生きる術だって残されているのか、皆目わからない。
九朗は『狐穴』に落ちていた。
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