第3話 狐穴
『狐穴』は屋敷の離れに在った。
正方形の穴である。大きさにして六十センチ四方ほどだろうか?
しかし九朗には、それは穴というより扉に見えた。
綺麗に縁どられた木製の穴が、足元の壁にへばりついていたからである。……ご丁寧に戸まで付いている。金の蝶番は柔らかい。
「穴、というくらいですから床に空いているものだと思いましたが」
言って九朗はしゃがみ込み、いやらしいくらいに『狐穴』を眺めると、直ぐに飽きたみたいに振り返った。
「狐穴は今でも使われているのですか」
「はい、わたくしは三日に一度ほど。大奥様はほとんど毎日です」
大奥様。呼んだ女中の眉がひっそりと下がる。
先代当主が死んだ後に、この家の実権を握ったのはその妻だった。彼女は大層優秀で、岸波家の発展に大きな貢献を果たしたと言う。
彼女は【大奥様】と呼ばれ、村民にはある種の畏れを抱かれている。
九朗は、屋敷の妖怪をやっていたこの数日の間に一度だけ【大奥様】を見かけた。なるほど随分お歳を召した老婆であったが、しかし歳のわりに背筋は鉄骨でも通したみたいにしゃんと伸びていて、つい深く感心したことを覚えている。
瞳は、弛んだ目元の肉でほとんど潰れていたが、信念の沁みた黒色をしていた。
若い内にこんな大きな家の権利を握らされて、さぞかし心労も多かっただろう。などとしみじみと九朗は、大奥様とやらに妙な親近感を覚えていた。他所の家に長居するという疎外感が、彼の冷えた心臓にも多少引っかかっていたのかもしれない。
ぼう、とそんな風に別のことを考えていると女中の咳払いで現実に引き戻された。
九朗は、ばつが悪そうに頭に手をやって、次の問をひねり出す。
「あなた方は……ここに何を捨てていらっしゃられるのですか?」
『狐穴』はゴミ箱だった。
かつてこの屋敷を建てた際に、当時の当主が作ったらしい。ただ、ゴミ箱として使われ始めたのは先代当主の代からなのだから、もともとは別の意図があったのだろう。
扉を開けても、一見小さな空間があるだけのように思われるが、それは暗闇が先を塗りつぶしているからである。
しかし、その中を探ろうとすれば、その者は帰らぬ人となるだろう。
『狐穴』は角度にして六十度ほどの傾斜が付いており、中に入った物は四十メートルほど滑って最奥の空間に吸い込まれる。容赦ない廃棄物の海に放り込まれるのだ。人間が滑り込めば一溜りもあるまい。
穴の奥の空間は相当広いのだろう。投棄を六十年ほど続けてなお満腹にはならず、岸波家の人間は今も狐穴に不要な物を放り込んでいる。
例えば女中は、残飯や傷んでしまった食材を『狐穴』に流していると言う。こうすると巡り巡って土地に帰ってくる。彼女はどうやら、本気でそう思っているようで、九朗は多少身を引いた。
そんな態度に不満を感じたのか、女中は「ふん」と鼻息荒く言う。
「わたくしは七年前から岸波家で働くようになった新参ですが、これによって大奥様の代で岸波家はより大きくなったのですよ」
ぷりぷりする女中に面倒な波動を感じた九朗は、逃げるように『狐穴』に近づいた。
そして思わず、鼻を摘む。
「なんですかこの……お香? 甘いような匂いは」
「残飯なんかも入れていますから臭いの対策です」
巡り巡って土地に帰るんじゃねえのかよ。
言いかけてやっぱり止めて、九朗は後ずさった。鼻腔の奥では、まだケバケバしい臭いが燻っている。
残飯を捨てているのは女中だけではなく、大奥様もらしい。大層な飯を人並の量だけ料理人に頼んでは、一口食して残りはそのまま『狐穴』に流すと言う。
高貴な人間の思考はわからない。
九朗は舌の上で唾を転がして、先程の味を反芻した。旨かったがなぁ。
して、本題である。
『狐穴』には幽鬼が巣食う。
「狐穴の霊は音を放つとのことですが……聞いたのは女中さん、貴女だけですか?」
「いえ竹……原さん、あ、料理人の方です。あの人も聞いたそうです」
「一度きりってわけでもないんですねぇ」
女中は黙って頷いた。
「おおん、おおん、って感じです。最初は風の音かとも思ったのですけれども、『狐穴』は何処にも繋がっていないはずだし、その時は戸を閉めていましたからこちらから風が入ることもありません」
言われてしまって意識を強くすると、いやに離れは(しん)としていた。
沈黙に耐えられなくなったのか、女中は大口開けた。笑顔を取り繕ってはいるが、額には脂汗が浮いている。
「い、いや! ただの聞き間違いかもしれませんけどね⁉」
「二人の人間が同じ場所で同じ聞き間違いをしたのは考えづらいかと……」
「なんでこんな時に限ってそんなこと言うの……?」
素が出ていた。
あまりにも失望に満ちた視線に耐え切れず九朗が視線を逸らすと、スライディングの要領で女中が視界から外れまいと滑り込んできた。なんだ、元気じゃないか。
「早く、早く。訊くことがあるなら早く」
肩をがんがん揺さぶられて、九朗の思考もシェイクされる。さっさと出てゆきたいのだろう、置いていけば良いものを、真面目な人だ。
九朗は崩れた襟元を正しながら女中に問うた。
「『狐穴』って、なんで狐なんですかね」
「知らん!」
限界が近かった。女中は九朗の襟を引っ掴み、離れを出た。
九朗は息を切らした女中をあやしながら、はたと思いついたことを述べた。
「寝床の変更を願いたいのですが」
「……まさか離れに?」
「はあ、それ以外にはないと思いますが」
女中は
もはや何も言うまいといった感じで息を吐いた。
「かしこまりました。布団を運び込んでおきま……」
言いかけて顔が青白くなる。
九朗は不謹慎にも笑いそうになった。咳払いで誤魔化した。
「自分で運びます」
離れは物置として使われており、あちらこちらに物が敷き詰められていた。あまり褒められる広さではない。しかしそれ故に、九朗にとってはなかなか居心地が良かった。
歴史と感情の渦の中で、黴臭い空気と湿度を吸い込む。資料室に籠り切りだった学生時代を思い出す。薄暗さもまた、妙にそれっぽい。
離れの空気は涼しく湿っていたが、明かりはどうにも乏しかった。
故に天井付近の嵌め殺しの窓から、慰みのように降り注ぐ月光は、東京のものよりもずっと眩しく、瞼に沁みてゆく。
寂光だ。
九朗は呟いた。
ただ、時折空気の回転に伴って訪れるケバケバしい臭いだけは、九朗の眉を歪ませた。
離れの物は自由に閲覧してもよいとのお許しをいただき、九朗はますます機嫌を良くした。九朗自身も、何も掴めず進まないことを良しとしているわけではなかった。
それらしき資料を片っ端から床に並べて、満足そうに腰を下ろすと、九朗はもくもくと目を通し始めた。
列車が来るまで、あと四日。
九朗だって長居がしたいわけではない。可能であればそれまでに、何者かの存在を、もしくは不在を証明せねばなるまい。
『狐穴』の怪異を待ち伏せようと離れで寝泊まりをして、はや二日経つ。
しかし聞こえてくる特異な音など、せいぜい野犬の遠吠えくらいなもので、どうにも『おおん、おおん』などという声は聞こえてこない。
ガセでも掴まされたか、と昼飯を持ってきた女中の顔を見ながら考えかけて、すぐに「いや」、と首を振る。
のほほんつるりときれいな肌である。食器の固い音すら反響しそうな丸い風。
彼女が悪意の持ち主だとは思えないし、同時にあの怯えようが偽物だとは思えない。仮に偽物であったのならば、俺の目玉も腐ったものだ。
上の空で飯を喰らうと、女中は「ほんっといつも早いなあ九朗さん」と、ぶつくさぶつくさ、ぼやきながら帰っていった。
なんだか最近馴れ馴れしい。九朗様はどうした、九朗様は。
「ああ、ちょっと待ってくれ。頼みがある」
「はーい?」
九朗が呼び止めると女中はめんどくさそうに振り向いた。
「大奥様に会いたい」
九朗もその雰囲気に引っ張られて、半分ほど投げやりに宣った。
瞬間女中の顔が青くなる。
「は」
彼女のそのような表情に初めて対面した九朗は眉を顰めた。
「不可能ですかね?」
黙りこんだまま視線を右往左往と落ち着けられない彼女に、姿勢を低くして問いかける。
縮こまった身体のまま、女中は無理やり、笑う。
「不可能では、ないと思います。はい。訊いてみます」
出来るだけ考えたくないような、そんな様子だった。さっと話題を切り上げてしまいたい、そんな願望が透けて見えた。普段より一層狭い背中がとぼとぼと歩いてゆく。
離れの扉の閉まる音は、いつもより重く響いた。
残響を飲み込むと、九朗は重苦しい息を吹いた。
胡坐を掻いて目を瞑ると、九朗は額に意識を集中させた。
汗と涙と血、流動する体内の力を一点に集めてゆく。
すると様々な感覚が薄くなり、何者かの存在を見ることがある。
霊感などという不確かな物を九朗は嫌ったけれども、こればかりは彼を何度も救ってきた。
瞼の帳を上げると、九朗は全身の力を抜いて、
「変わりない」
確かめるように呟いた。そう、変わりなく
離れには無数の影が立っている。
しかしどうも禍々しい雰囲気や敵意は感じられない。ただ感ぜられるのは、彼らに何か未練が残されていることだけだった。
守らねば、
そんな強い意志が離れの中には濃く充満していて、九朗の中身にも流れ込んでくる。慌ててスイッチを切り替える。
九朗はぼり、強く頭を掻いた。
また面倒事の増える予感がした。
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