第2話 猫
ペットフードの話をして別れた翌日、波は学校に来なかった。
波は休むときにいつも連絡をしてくる。『ノート頼むわ』という一文を添えて。
どうやら俺以外のクラスメートにも先生にも連絡していないらしく、俺が「波は休みか?」と聞かれることになった。
波が誰にも言わず休むなんて珍しい。
俺に連絡できないほどの何かがあったのだろうか。例えば高熱で動けない、とか?
授業中も気になって波の席をちらちらと見てしまい集中できない。
休み時間に『どうした? 何かあったのか?』と連絡を入れたが返事はなく既読にすらならない。
心配だ。
結局今日一日波は来なかったし、連絡も来なかった。
波が無断欠席をするはずがない。明日も来なければ家に寄ってみるか。
波への心配で頭の中がいっぱいのまま家に帰った。
家の前に近づくと「にゃあ」と声がした。猫だ。この辺では見ないから珍しいと思ったが、その声の主は俺の目の前に、俺の家のドアの前にいた。お行儀よく座って、まるで俺の帰りを待っているかのように。
黒と白のハチワレ。小さい体でまるっこく、お腹は白。顔の分け目になる部分が左に少しずれている。
目はパッチリとしていて黄色い瞳を持つ子猫。
「波?」
ありえない。
人間が猫になるなんて、そんなことあるはずない。それなのにその名を呼んでいた。
「にゃっ!」
かわいらしい声で返事をした。
思わず地面に膝をついて、手を伸ばす。あと少しで触れられる距離。
子猫は逃げずに座ったままだ。
「波なのか?」
もう一度問えば子猫は動き出し、てこてこと俺の方へ寄ってきた。そして差し出した掌に小さな顔を近づけ、すりすりしだした。
掌にふわふわとした毛があたり、くすぐったいが気持ちいい。
「にゃあう」
答えた。この猫は波だ。
そんなことがあるのか? 小説じゃあるまいし。
でもこいつは波なんだ。
そう直感が告げていた。その名前でしか呼べない。
抱き上げると大人しく俺の腕に収まった。そのまま家のドアを開けた。
「ただいま」
「おかえり。あら、どうしたのその猫?」
母さんがキッチンから出てきた。
「家の前にいたんだ。母さん、この猫飼っていいかな。世話は俺がちゃんとするから」
波を放っておけるわけがなかった。
俺が飼わなきゃ、他の人に拾われる。拾われなかったとして、もし保健所行きにでもなったら……考えたくない。
波を他人に渡したくない、離したくない。
俺の中で独占欲が膨らむ。
「あら可愛い。見かけない子ね。野良猫かしら? うちは一軒家だし飼ってもいいんじゃないかしら。お父さんに聞いてみないとだけど」
父さんが帰ってくるのは夜だ。それまでにスマホで調べてやるべきことをやってしまおう。
まずは病院に連れていく。近くにあって良かった。動物病院で健康状態のチェックや検査がされ、ワクチンも受けた。
雄で健康、生まれて三カ月。
波と思われる猫は検査を受けてる間も大人しかった。
猫の飼育に必要なものも、その日のうちに買いそろえた。チャリを走らせたから、どっと疲れた。
疲れていたが警察や保健所などの連絡も済ませた。
今のところ飼い主はいなさそうだった。このまま飼い主が見つからなければいいのに。
一日でいろんなことをしたから疲れた。
しかし、まだやることがある。
夜、リビングで家族会議が開かれた。波はケージに入ってすやすやと寝ている。
テーブルを挟んで父さんと母さんが座っている。
「猫を飼いたいそうだな」
ドイツ人である父さんの俺と同じ青い目が俺を射抜く。
「動物は生き物だ。中途半端な気持ちでは飼えないぞ。飼い主としての責任はあるのか」
父さんの低い声が重くのしかかる。
「今日一日で病院や保健所の連絡を全部しちゃったのよ? 本気じゃないとできないわよ。ねぇ」
母さんが手助けしてくれる。
「ふむ……最後まで面倒を見れるのか?」
最初から答えは決まっている。
「もちろん最後まで世話をする。責任はとる」
父さんの目を見る。最初から決めていたことだが、口に出して決意を新たにする。
「ならいい」
「ありがとう」
許可が下りて頬が緩む。
「学校に行っている間は母さんに任せなさい! 子供のころ飼っていたから少しはわかるわよ!」
母さんが明るく言う。
「にゃー!」
波は起きていて元気に鳴いた。
「良かったな」
と話しかける。本当に良かった。これで一緒にいられる。
「ふふ、可愛いわねぇ。お父さんも猫ちゃんと遊びたいわよねぇ」
「む……」
父さんが? と思い顔を見たら、夕刊で顔をさっと隠してしまった。
翌朝、波へのエサと水を用意し、自分の身支度をする。
洗面台の鏡には寝起きの自分が写る。太い眉にしっかりした骨格、いかつい顔だ。身長も百八十センチあるからよく怖がられる。
淡い金色の髪を軽く後ろに流し、ワックスでオールバックにする。こんなだし、学校の規則が緩いからあご髭も生やしているため、ますますいかつくなる。
家を出る前に波に話しかける。
「行ってくる。大人しくしてろよ。あと、今日は帰りに寄るところがあるから、すぐには帰れない」
「みゃー」
笑って送り出してくれてる気がした。
学校に当然波は姿を見せない。
波のいない学校を後にし、向かったのは波の家だ。
波の母親に迎えられたが、彼女の顔色は真っ青で眠っていないのだろう、クマが出来ていた。
波は二日前、俺が波と最後に会話をした日に帰宅。その翌朝、気づいたらいなくなっていたそうだ。
早めに学校に行ったのかと思ったが靴がそのままで、スマホに連絡を入れても何も返事は来ないどころか波の部屋から着信音が鳴る。鞄もそのままで外に出た形跡は一切見つからなかった。
波の母親は俺がよく波と遊んでたのを知っているから、俺に「どこに行ったか知らない? 何か手掛かりを知ってない?」と聞いてきた。無理もないだろう。
波は猫になって俺の家にいます、なんて、必死な顔をしている母親に言えるわけがなかった。
俺は申し訳ないと思いつつ首を横に振った。
そして、無理を言って波の部屋に入れてもらった。今日はこのために来たんだ。
あの猫は波だと確信している。しかし、人間が猫になった事が完全に腑に落ちたわけではない。
波が猫になった証拠や決定打がないかと思ったからだ。
ドアを開けると誰もいない。制服はハンガーにかけられ、鞄はベッドの上に置かれていた。
この前来た時と何も変わっていなかった。
部屋を見回し、何か変わったところはないかと探る俺の頬を風がかすめた。
窓だ。窓が十センチ程開いている。猫が通れるぐらいに。
窓の近くに行く。
よく見るとサッシの部分に埃がたまっていて、そこに肉球のような跡が残されていた。それは外を向いていた。
この部屋で波は猫になり窓から出て俺の家に来たということか。
これは「波が猫になった」証拠ではなく「猫が出入りした」ということだ。これを証拠として、人に話すには不十分だろう。
だが、波が猫になったという前提であれば、この肉球の跡は重要なもので、俺にとっては大事な発見だ。
波とあの猫のつながりが俺の中でより強くなった。
波はもうここへは来ない。人間に戻らない限り、そう思う。
それ以外に収穫はなかった。帰り際に波の鞄についている、修学旅行で買った俺とお揃いのキーホルダーを外して持ち帰った。
「ただいま」
「おかえり。遅かったわね。猫ちゃんが寂しがってるわよ」
その猫に会いに行く。そいつはみゃーみゃー言いながらケージをカシカシとしていて外に出たそうにしている。
俺が近づくとそれをやめて話しかけてきた。
「にゃ~ん」
「ただいま。寂しかったか?」
「にゃう」
小さい顔にきらきらした目。
「可愛いな」
俺を出迎えたかったのだろうか。だとしたら嬉しい。
「今日お前の家に行ってきた」
そう言って首輪にキーホルダーを着けてやる。
ついでに肉球を見る。ピンクの柔い肉球に黒いぶちが少しある。大きさが窓のサッシについていたものと同じ大きさだ。
ぷにぷにとした感触が気持ちいい。ところで、波はいいように触られてるが警戒心はないのか。俺に気を許しているということか。
二人の世界に浸っていると母さんの足音が聞こえた。
「ねぇ、その猫ちゃんの名前はどうするの?」
「あ……考えとく……」
波だとさすがにまずいよな。
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