第2話『退屈な日常と、眠れる才能』
夜、自室のベッドに寝転がり、翔斗は天井を見つめていた。昼間の体育館での出来事が、頭の片隅で繰り返し蘇る。あのボールの感触は、確かに何かを呼び覚ますようだった。それは、かつて自分が世界の一部だった頃の、遠い記憶の残滓。
(……バレー、か。もう、ずいぶんと昔のことのように感じるな。)
ボールの感触も、スパイクを打った時のあの痺れるような爽快感も、ほとんど覚えていない。ただ、最後に味わった、底なしの絶望と、心に深く刻まれた苦い敗北の記憶だけが、今も鮮明にこびり付いている。
ふと、リビングから祖父の声が聞こえてきた。電話で誰かと話しているようだ。
「……ええ、翔斗は、少しずつですが……ええ、ありがとうございます。私も、あの子が再び、あのコートで、あの翼を広げられる日を願っています。」
祖父の言葉に、翔斗は微かに胸が締め付けられるような感覚を覚えた。祖父は、自分の過去を知っている。そして、今の自分のことを、深く心配しているのだ。その優しい眼差しが、今は重荷のように心に刺さる。過去を忘れたいと願う自分と、過去を取り戻してほしいと願う祖父。その隔たりに、言いようのない息苦しさを感じた。
翌朝、翔斗は珍しく、少しだけ早く目が覚めた。窓から差し込む朝日は、昨日よりも眩しく、部屋を明るく照らしている。まるで、新しい何かが始まる予感のように。
(……今日は、どうしようかな。)
いつもなら、二度寝を決め込み、怠惰な朝を過ごすところだが、なぜか今日は、体を動かしたいような、外に出たいような奇妙な衝動に駆られた。心の奥底で、凍りついていた何かが、ゆっくりと溶け始めているのかもしれない。
学校へ向かう途中、いつもの場所で
「おい、翔斗!聞いたぞ!バレー部に見学に行ったんだって!?どうだった?何か感じたか!?」
海輝の声は、期待に満ちている。翔斗は、少しだけ居心地が悪くなった。「ああ……まあ、別に、普通だったよ。」翔斗のそっけない返事に、海輝は少しだけ肩を落とした。しかし、すぐにまた顔を上げた。
「そうか……でも、お前なら、きっと何かを感じたはずだ。昔のお前は、本当にすごかったんだからな!全国の舞台で、あの最強のエースを止めたのは、お前だけだったんだ!」
海輝の言葉に、翔斗はわずかに眉をひそめた。
(……昔の俺、か。そんなにすごかったのか?今は、何もかもが面倒くさい。)
朝のホームルーム前、翔斗のクラスに、昨日体育館で会った佐藤監督がやってきた。「羽立翔斗くんはいますか?」突然の訪問に、教室はざわついた。翔斗は、気まずい思いで手を挙げた。「君に、改めてお願いがあってね。ぜひ、バレー部に入ってほしい。君の才能は、うちのチームを全国へと導く力を持っている!」監督の真剣な眼差しに、翔斗は言葉を失った。周りのクラスメイトたちも、興味津々といった表情でこちらを見ている。
「……だから、別に、興味ないって言ったじゃないですか。」
翔斗は、いつものように冷たい態度で答えた。心の壁は、まだ厚い。何かが芽生えかけている兆候を、自ら否定しようとしているかのように。
しかし、その時、隣の席の海輝が、翔斗の肩を叩いた。
「なあ、翔斗。監督も、ここまで言ってくれてるんだ。少しだけ、やってみないか?俺は、もう一度、お前と一緒にバレーがしたいんだ!」
海輝の真剣な眼差しに、翔斗は戸惑った。海輝は、いつも明るくて、誰にでも優しい。そんな海輝が、ここまで熱く、自分に何かを頼むのは、本当に珍しいことだった。海輝の言葉が、固く閉ざしていた翔斗の心の扉に、強く、しかし温かく触れた。
(……海輝が、そこまで言うなら……)
翔斗の中で、ほんのわずかな迷いが生まれた。友情という名の光が、心の隙間を確かに照らし始めた。それは、孤独な闇の中に差し込んだ、一筋の希望のようだった。
放課後、翔斗は、海輝に連れられるまま、再び体育館へと足を運んだ。昨日よりも一段と活気のある体育館の中で、部員たちが楽しそうにボールを追いかけている。「ほら、翔斗!お前も一緒にやろうぜ!」海輝に促され、翔斗は仕方なくボールを受け取った。
ぎこちない手つきでボールを扱っていると、昨日もいた副キャプテンの山田が、明るい笑顔で近づいてきた。「よお、翔斗!また来たのか!どうだ?少しは、やる気になったか?」山田の屈託のない笑顔と、仲間たちの楽しそうな声が、翔斗の心を少しだけ緩ませた。
(……こいつら、意外と……悪くないのかもな。)
閉ざされていた心に、小さな、確かな綻びが生まれた。
ボールを軽くトスしてみる。指先に伝わる感触は、どこか懐かしい。まるで、遠い昔に交わした約束を思い出させるかのように。海輝が、ネットの向こうから、目を輝かせて声をかけてきた。「翔斗!一本、打ってみろよ!昔みたいに、あの最強のスパイクを!」
翔斗は、言われるままに助走し、跳躍した。そして、目の前に来たボールを、全ての感情を込めるかのように、無意識のうちに叩きつけた。ボールは、体育館の空気を震わせるような、圧倒的な音を立てて相手コートに突き刺さる。その威力とスピードに、周りの部員たちから、感嘆の息遣いと、小さな、しかし確かな歓声が上がった。
翔斗自身も、その瞬間の感覚に、全身に電流が走るような、抗いがたい熱を感じた。奥底に眠っていた何かが、まさに今、目を覚まそうとしているような、強烈な予感。だが、その光は、まだ完全に蘇ってはいない。
(……まあ、たまたま、うまくいっただけだ。こんな感触、すぐに忘れてしまうだろう。)
それでも、体育館に残る、ボールの跳ねる音と、仲間たちの笑い声、そして、かすかに胸に残る**「あの頃」の感触は、翔斗の心に、小さな波紋を残していった。それは、長い冬の終わりに訪れる、微かな春の息吹のようだった。そして、その春の息吹が、やがて、翔斗の閉ざされた心に、大きな変革をもたらすことを、今はまだ誰も知らなかった。
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