青年の翼:原作

一ノ瀬

第1話『天才現る』

 どんよりとした空気が部屋に漂っている。窓の外は晴れているらしいが、その光は分厚いカーテンに遮られ、部屋の中は薄暗い。まるで、主人公・翔斗の心のようだ。彼の部屋には、色褪せた一枚のポスターが貼られていた。それは、かつて彼がエースとして君臨した全国大会のチーム写真。だが、今の彼にとって、それはただの過去の残骸に過ぎない。


「朝だよ、翔斗。」


 低い声が、重い布団の向こうから聞こえる。祖父の声だ。翔斗は、まるで聞こえていないかのように、さらに布団の中に深く潜り込んだ。


(……めんどくさい。あのボールを打つ情熱も、チームを勝利へ導く重圧も、もうどこにもない。)


 心の声が、小さく呟く。起きるのも、顔を洗うのも、学校に行くのも。すべてが、ひどく面倒くさい。かつての、あの張り詰めたような情熱は、もうどこにもない。


 しかし、鼻をくすぐる甘い匂いに、翔斗の意識はわずかに浮上する。焼きたてのパンケーキの匂いだ。


(……朝飯か。今日一日をやり過ごすための、最低限の燃料だな。)


 仕方なく、翔斗はゆっくりと体を起こした。寝癖だらけの頭を掻きながら、重い足取りでリビングへと向かう。


「おはようございます。」


 翔斗の声は、いつものように覇気がない。目の前の朝食を見つめる瞳にも、特別な感情は宿っていない。ただ、過ぎ去る時間をやり過ごすだけ。


「おはよう、翔斗。ゆっくり食べなさい。」


 祖父は、優しい眼差しで翔斗を見守っている。その瞳の奥には、を知る者だけが持つ深い陰りが見えるような気がした。まるで、かつての輝かしい翔斗を知っているかのように。


 これが、翔斗の日常だ。何をするわけでもなく、ただ時間が過ぎていく。通っている高校に行くのも、「まあ、行かないとじいさんがうるさいし」という、消極的な理由からだ。心には、ぽっかりと大きな穴が開いている。


 パンケーキを無気力に口に運び終えると、翔斗は制服に着替えた。鞄を肩にかけ、玄関へと向かう。


「行ってきます。」


 まるで独り言のような声で言い、翔斗は家を出た。


「いってらっしゃい。……翔斗なら、きっとまた、あの時の情熱を見つけられるとじいは信じているよ。」


 祖父の言葉は、背中にじんわりと染み渡るようだった。だが、翔斗は振り返ることなく、歩き出した。その言葉の真の意味を、まだ理解できずに。


 高校の教室の隅の席に座り、翔斗は窓の外を眺めていた。青い空に浮かぶ白い雲は、ただゆっくりと流れていくだけ。まるで、止まってしまった自分の時間を見ているようだった。


(……眠い。この世界は動いているのに、俺だけが過去に囚われている。あの時の、あの瞬間から。)


 先生の声は、遠くで聞こえる雑音のようだ。教室のざわめきも、どこか他人事のように感じる。世界は回っているのに、自分だけが取り残されているような感覚。


 前の方の席では、海輝かいきが楽しそうに友達と話している。その明るい笑顔が、今の自分には眩しすぎた。かつては、自分もあんな風に笑い、コートの上で熱くなっていたのだろうか。


(……あいつは、いつも楽しそうだな。俺も昔は、バレーボールで、全国の頂点を目指していたような気がするけど……もう、思い出せないや。)


 放課後、昇降口を出ようとした時、突然、声をかけられた。


「君が、噂の翔斗くん?」


 声のした方を振り返ると、ジャージ姿の中年の男が立っていた。その目は、獲物を定めるかのように、翔斗をじっと見つめている。


「俺は、バレー部の監督の佐藤だ。君の体格と、さっき体育の授業で見た動き……あれは、ただ者じゃない。**間違いなく、本物だ。**ぜひ、バレー部に来てほしい!」


 佐藤監督の言葉は、熱意に満ちていた。だが、翔斗の心には、何も響かない。「バレー……ですか。別に、興味ないです。」そう言って、翔斗は通り過ぎようとした。あの頃の狂おしいほどの情熱は、冷え切ってしまっている。


 しかし、佐藤監督は諦めなかった。「いや、君にはあの頃と同じ、いや、それ以上の才能がある。眠っているだけだ。少しでもいいから、体育館に来てみないか?きっと、


 翔斗は、面倒くさそうに眉をひそめた。「別に……」それでも、監督は食い下がる。「頼む!ほんの少しの時間でいいんだ!君のその眠った力を、この目でもう一度見てみたい!」


 あまりの熱意に、翔斗は根負けした。「……分かりましたよ。ほんの少しだけなら。」


 体育館に足を踏み入れた翔斗は、練習に励む部員たちをぼんやりと眺めた。ボールが床を叩く音、シューズの擦れる音、そして響き渡る掛け声。それらは、翔斗にとってただの騒音だった。かつての自分が、この喧騒の中にいたことが信じられない。


(……みんな、よくあんなに動けるな。昔の俺も、あんな風に……いや、どうでもいいか。もう、あの痛みは感じたくない。)


「どうだ?少し、ボールに触ってみないか?」


 佐藤監督が、そう声をかけてきた。翔斗は、気のない声で「別に」と答えた。それでも監督は諦めず、ボールを翔斗に手渡した。「いいから、少しだけ。君のその特別な才能を、この目で見てみたいんだ。」


 仕方なくボールを受け取った翔斗は、コートに立った。そして、特に何も考えずに、目の前に飛んできたボールを打ち返した。


 その瞬間、体育館の空気が、張り詰めた。翔斗の打ったボールは、空気を切り裂くような鋭い音を立ててネットを越え、相手コートの隅に突き刺さった。それは、過去の栄光を呼び覚ますような、まばゆい一撃だった。部員たちの間に、息をのむような静寂が訪れた。


「……すごい。」


 部員たちの間から、小さな、しかし確かなざわめきが起こる。翔斗自身も、自分の放ったボールに、一瞬だけ胸の奥が熱くなるような感覚を覚えた。だが、すぐに興味を失い、いつもの無感情な表情に戻った。(……まあ、たまたまか。昔取った杵柄ってやつか。……でも、あの感触は……いや、どうでもいい。)


 佐藤監督は、目を輝かせながら翔斗に詰め寄った。「やっぱり、君はすごい!あの頃の全国のエースは伊達じゃない!昔、バレーをやっていたんだろう?ぜひ、バレー部に入ってくれ!君の力があれば、うちのチームは全国を変えられる!」


 翔斗は、面倒くさそうに言った。「どうしようかな……考えるの、めんどくさい。」しかし、その言葉の裏には、わずかながら揺れ動く感情の波があった。心の奥底では、忘れ去ろうとしていた何かが、確かに疼き始めているのかもしれない。まだそれに気づこうとはしないが、その小さな変化こそが、彼の未来を動かす最初の予兆だった。

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