裁判の終わり
凛々しいテオバルトに見惚れていたアデルはハッとして、張り詰めた緊張感が漂う中で手を挙げた。
「ブライアン様から、捏造する決算書はクレイグが用意したと聞いています」
「確かに、そう自供している」
裁判官はブライアンの自供をまとめたものを読みながら頷いた。
ブライアンは今も自供を続けていて、続々と裁判所に報告書が届いている。
「レノー家の誰かが決算書を偽造したのでしょう。騎士団ではなく財務署で使われているインクと決算書用の紙をクレイグに渡したのは、ブライアン様のせめてもの抵抗だと聞いています」
「それが何かに関係しているのか?」
「はい。決算書には、指紋がついているはずです」
「指紋?」
裁判官が不思議そうに手を見つめた。
この世界に指紋という言葉はあるが、たいした意味はない。グラスに指紋がつくと見栄えが悪いから使用人は手袋をするとか、ごく限られた時にしか口にしない単語。
「実は指紋は人それぞれ違います。同じものは決してありません」
「なんだと!?」
「そして決算書に使用している紙は特殊なもので、指紋が残っている可能性が高いです」
「つまり……指紋を調べれば、決算書をさわった人間がわかる!?」
初めてもたらされた指紋の事実に、裁判所は大きくどよめいた。
「騎士は武器を扱うため、どんな時でも手袋をつけません。決算書にテオバルト様の指紋がなく、クレイグ・レノーの指紋があれば、これ以上ない証拠となるはずです!」
「どう調べるのだ?」
驚愕のあまり青ざめているクレイグの前で、アデルは簡単にやり方を説明した。粉を使って調べる、一般的なものだ。
粉の配合も、決算書は指紋がつきやすい紙であることも調査済みだった。
(転生した私だけが持つ知識よ! これをうまく使わなければ!)
「これは……裁判が根底から変わる……!」
衝撃を受けながらも裁判官は有能で、的確な指示を出し続けた。
アデルは聞かれたことに答えるだけで、いっさい手を出さない。クレイグや傍聴人に口を挟ませないためだ。
裁判官は手先が器用な者を選び、グラスで指紋採取の練習をさせた。それからアデルやテオバルト、クレイグにグラスを握らせて指紋を採取する。
そして最後に、決算書の指紋を検出した。
クレイグは赤くなったり青くなったりと忙しいが、口を開かない。ここで反対をすれば自分が犯人だと思わせることに等しい。
反対しても指紋検出はされるのだから、心証を悪くすることはない。指紋が残っていないことをひたすら祈りながら、長いようで短い時間が過ぎる。
幸いにも決算書の保管状況がよく、指紋がはっきりついていた。
何十枚もの決算書の裏表にべったりと、指紋採取の練習に出来るほど綺麗なものが、数えきれないほど。
目のいい者が5人がかりで指紋を見比べ、何度も確認し、発言した。
「決算書には、クレイグ・レノーとブライアン・カンテの指紋があります。ほかにも複数人の指紋がありますが、今は誰のものかわかりません。テオバルト・ヴァレリーとアデル・クレールの指紋はありません」
「……確かか?」
「はい」
クレイグは動かなかった。動けなかった、というのが正しい。
指紋なんてそんなもの、気にしたこともなかった。再び裁判をすると知ってから、いくらでも反論を用意していた。
だが、指紋だなんてこんなもの、どう否定すれば……!
「そ、そうだ、私と同じ指紋を持つ者がいるかもしれない! いや、いるに違いない!」
「では、この場にいるすべての者の指紋をとりましょう。絶対に同じ指紋を持つ者はいないと、クレール家の名にかけて誓います!」
アデルの揺るぎない視線を向けられ、クレイグは絶望で視界が歪んでいった。
「クレイグ、まだ私を悪女で黒幕だと主張するのなら、その証拠を出しなさい!」
「ぐっ……う……!」
クレイグの顔が奇妙に歪み、顔が赤らんでいく。頭が真っ白になって反論する言葉が思いつかない数秒が、クレイグには永遠のように感じられた。
クレイグの口から言葉が出る前に、無情にもカンカンと木槌を叩く音が響く。
「確かに、指紋についてはまだ未知数だ。同じ指紋を持つ者が絶対にいない確認も取れていない。だが、指紋を除いてもテオバルト・ヴァレリーが無罪なのは明らかだ。アデル・クレールも噂されていたように誰かを貶めて喜ぶ性格でもなく、またテオバルト・ヴァレリーにわざわざ冤罪をかける理由もない。
よって、テオバルト・ヴァレリーは無実である。以上で裁判を結審する!」
「ほ……本当に……?」
裁判所が騒がしくなっても、アデルの耳には何も聞こえなかった。
こみ上げる喜びと共に、無罪が聞き間違いだったらという恐怖も沸き上がってくる。
そんな不安を吹き飛ばすように、喜びで弾んだ声がアデルを包み込んだ。
「アデル!」
「テオバルト様……!」
駆け寄ってきたテオバルトに抱きしめられ、アデルはためらいなく背中に腕を回した。息が出来ないほど強く抱きしめられ、そのわずかな痛みが現実だと教えてくれる。
「テオバルト様、おめでとうございます! 本当によかった……!」
「すべてアデルのおかげだよ! 本当にありがとう! アデルは俺のただひとつの光だ。俺のすべての愛をアデルへ捧げると誓う」
したたるほどの愛情がたっぷりと詰まった愛の言葉。それを耳に直接流し込まれたような感覚に陥り、アデルの動きが止まった。
「アデルを愛してる」
アデルの顔を見られるように、テオバルトが抱きしめていた体を少し離す。柔らかな曲線を描くアデルの頬が、熟したりんごのように染まっていた。
テオバルトは、アデルが愛しくてたまらないというように微笑む。
そして、熟れた頬に唇をよせた。
「……っ!!?」
頬にやわらかな熱を感じたアデルは驚きながらテオバルトを見て、至近距離でとろけたテオバルトの顔を直視し――そのまま気絶した。
裁判を終えて極度の緊張が解けたことと、この日のために睡眠時間を削って準備をしたこと、そしてテオバルトからの口づけ。
頬へのキスとはいえ、アデルにとってはあまりにも刺激が強かった。
アデルはテオバルトに抱えられたまま、ざわめく裁判所を後にした。
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