ほら、少し目を離すと

 アデルと同い年くらいで、眼鏡越しに見える目は大きく見開かれている。



「ごっ、ごめん! 具合が悪いかと思って声をかけたんだ! 決して泣くのを邪魔するつもりではなく!」



 大きな声に、周囲を歩いていた人がアデルに注目する。恥ずかしさに顔を赤らめたアデルに、男の子は頭を下げた。



「ごめん、失言でした!」

「……いいの。泣いていたのは事実だから」



 すんっと鼻をすすり上げ、アデルは差し出されたハンカチで涙をふいた。

 顔は整っているのにちょっと野暮ったい眼鏡、深緑色の髪。どこかで見たことがあるが、泣いたばかりの怠い頭では思い出せなかった。

 貴族向けの布で仕立てられた服を着ているがアデルの顔を知らないから、おそらく男爵か子爵だろう。



「あなた、お名前は?」

「エリオット。君は?」

「……秘密」



 アデルと名乗った時の嫌がられる反応を、今は見たくなかった。

 エリオットはしばらく迷い、アデルから二人分のスペースを開けてベンチに座った。



「一緒にいたくないだろうけど、君みたいに綺麗な子がひとりで泣いていたら、きっとたくさん声をかけられちゃうから」

「……ありがとう。ハンカチ、汚れちゃったわ」

「いいんだ。レディーの涙をぬぐえるのは、ハンカチにとって一番の名誉だから」



 ハンカチの気持ちがわかっているように話すのが何だかおかしくて、くすりと笑う。



「その……何かあったんだろ? 落とし物か?」

「ううん。あのね、失恋してるの」



 横でぎょっとしているエリオットに悪いと思いながら、アデルの口は止まらない。アデルの境遇も悪評も、アデル・クレールの名前すら知らない誰かに聞いてほしかった。



「好きな人を救いたいと思ったの。嫌われてもいいと思っていたはずなのに、絶体絶命の窮地を救ったのだから、もしかしたら好きになってもらえるかもって思ってしまって……。だけど、やっぱり好きになんてなってもらえなかった。彼にぴったりな女性と仲良くなれるように送り出したけれど、つらくて……」



 止まった涙がまたあふれ出てきて、ハンカチでぬぐう。

 隣で慌てているエリオットに気にしないように声をかけたかったのに、漏れるのは押し殺した泣き声だけだった。

 数分たって落ち着いたアデルに、エリオットははっきりと告げた。



「俺、よく姉夫婦の喧嘩の仲裁をしてるんだ。愛情表現が激しいぶん、喧嘩も派手でさ。よく喧嘩の原因になるのが、相手の気持ちを勝手に決めつけてることと、自分の気持ちをきちんと言葉にしていないこと。君は彼にちゃんと聞いた? 自分のことをどう思っているか、自分以外の女性と仲良くなりたいかって」

「ううん、聞いてない……」

「じゃあ、自分の気持ちを言った? 嫌われてもいいから助けたかったって。仲良くなりたいって」

「……言ってないわ」

「彼からすれば、恩人がいきなり他の女性をすすめてきたんだろ? 嫌われたと思ってるかもしれない」

「そんなことない!」

「言葉にしないと伝わらないよ。相手のことを決めつけて泣く前に、話し合ったほうがいいと思う」



 エリオットの言葉は、驚くほどすんなりとアデルの心に染み込んだ。

 出会ったばかりのアデルの話を聞き、真剣に忠告してくれた。泣いてばかりいるアデルを面倒くさいと思っても当たり前なのに、アデルの側にいて泣きやむのを待ってくれた。



「……ありがとう。彼の気持ちを聞いてみるわ」

「もし駄目だったら、よく効く薬をあげるよ。俺、医者を目指してるんだ」

「ふふっ、失恋に効く薬?」

「うん。特効薬だから、俺を頼って」



 首を傾げてアデルを覗き込んだエリオットは、ハッとするほど美しかった。優しい瞳と微笑みがアデルに向けられ、深緑色の髪がなびいて冬の淡い日差しに照らされている。



「あ、なた……もしかして」



 確信に近い直感を言葉にする前に、アデルの視界が白く染まった。小麦色の髪と、清潔感のある優しいコロンの香り。

 テオバルトがアデルを守るように立ち、鋭い視線でエリオットを見据えていた。



「君の騎士が来たようだから、俺はここで失礼するよ」

「あっ……ありがとう、エリオット!」



 立ち上がってエリオットを見ようとするが、テオバルトの広い背中で遮られていて、跳ねる深緑色の髪しか見えない。



「俺の薬、君には必要ないと思うよ! じゃあね!」



 明るい声とハンカチを残し、エリオットは走っていってしまった。

 ハンカチをぎゅっと握りしめてエリオットの姿を追うアデルの頬に、大きくかたい手がそっと添えられる。



「……泣いたの?」



 テオバルトの長く骨ばった指が動き、目じりに残った涙がぬぐわれる。

 途端に熟れた果実のように真っ赤になったアデルは、視線を泳がせながらテオバルトを見上げた。



「いつか……私の話を聞いてもらえますか?」

「もちろん。アデル嬢のためなら、いつだって駆けつけるよ」



 きっとテオバルトは、アデルのために時間を作ってくれるだろう。テオバルトはそういう人間だ。

 目を閉じて、ふれたままだった大きな手にそっと頬を擦り寄せる。


 今はまだ、テオバルトの気持ちを聞くことはできない。アデルがいなくても裁判で勝てる証拠を揃えてからだ。そうでなくては、テオバルトが本音を話すことはできないだろう。


 目を閉じているアデルは、テオバルトが耳まで真っ赤にして硬直していることに気付かなかった。



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