私は悪役令嬢1
長い、長い夢を見ているようだった。
熱で浮かされた頭の中で、様々な映像や音が再生されていく。
一番多く見たのは、教科書や参考書が載った机や単語帳、電車の中でぼんやりと見る景色だった。両親の顔は思い出せない。両親の声が聞こえる時は、いつも床を向いていたから。
(私、死んだのね……)
高熱が出て寒い体でうずくまりながら、アデルは静かに理解した。どうやって死んだか覚えていないが、死を鮮烈に覚えていたら恐ろしいので、それでいいと思う。
受験という単語がやたらと頭の中を回っているあたり、どうやら自分は若いうちに死んでしまい、転生をしたらしい。
「テオバルト・ヴァレリー様がいて、私がアデル・クレールに転生してるってことは、ここは私がプレイしていた乙女ゲームの世界なのよね……?」
アデル・クレール。
プレイしていた乙女ゲームのテオバルトルートの悪役令嬢であり、本編が始まる前に死んでしまうモブだった。
「覚えているうちに、少しでもメモをしておかないと……」
熱でうまく動かない体を動かしてベッドから降りて、机に座る。幸いにもアデルとして生きてきた17年間の記憶はなくなっておらず、自室のことはよくわかっていた。
机の中から紙を取り出して羽ペンをインクにひたしたアデルは、日本語で覚えていることを書き記した。
テオバルトのルートは、下町で暮らすヒロインと元騎士団長のテオバルトが出会うところから始まる。
何度も出会ううちに仲を深めていき、やがてテオバルトは自分が冤罪をかけられたことを告げる。ヒロインと一緒に冤罪を晴らし、騎士団長へ返り咲き、エンディングで結ばれるのがテオバルトのルートだ。
テオバルトと一緒にいるのがどれだけ危険か伝えるため、二人の恋のスパイスとなるため、テオバルトと無理やり婚約を結んだ悪役として用意されたモブ、それがアデル・クレールだった。
「テオバルト様のルートは、花祭りの一か月後に始まったはず。本編が始まるまで、あとどれくらいあるの……?」
前世の記憶が流れ込んで混乱している頭の中から、必要な情報だけを丁寧に掬いあげていく。
テオバルトは一か月前まで、乙女ゲームの舞台である王国の騎士団長を務めていた。
騎士団長になりたい副団長のシリル・レノーにより陥れられたテオバルトは、冤罪で騎士団を追放されてしまう。実家からも勘当されかかったテオバルトに婚約の申し込みをしたのが、前世を思い出す前もテオバルトのことを好きだったアデルだった。
実家であるクレール伯爵家の金と伝手と脅しを存分に使ったことを、はっきりと思い出す。
冬の訪れを感じさせる肌寒い風が、アデルの火照った頬を冷やしていった。
「ゲーム本編が始まるまで、あと半年。五か月後の花祭りで、アデル・クレールは何者かに狙われたテオバルトをかばって死亡する……」
テオバルトのイベントのひとつとして、苦悩しながらテオバルトが自分の過去を語る場面がある。そのスチルで、悩む姿も格好いいテオバルトの横顔の近くに、死んだアデルが描かれている。
顔は見切れており、胸が赤く染まっている姿だ。そこに、テオバルトからもらったブローチがつけられていた。
テオバルトルートは軽く十周し、テオバルトのスチルもコンプした前世のアデルにとって、あまりに見慣れたブローチだった。
「……このブローチをもらったおかげで記憶が戻ったのにね」
自分の死が、好きな男とヒロインを苦悩させるための装置として使われると思い出した今は、なんだか素直に喜べない。
―—テオバルトはアデルを好きではないと知っているから、なおさら。
「……いいえ、いいえ! 記憶が戻ったおかげで、死ぬ運命を回避できるかもしれないもの! テオバルト様がヒロインを結ばれるように今からでも……」
そこまで考えたところで、はたと止まる。
アデルが死ぬのは、本編が始まる前だ。もちろん死なないように最大限努力するし、テオバルトが狙われるのも阻止するつもりだ。
だけど、もしうまくいかなかったら……?
敵の目的がテオバルトの命を断つことならば、花祭りに行かなくてもきっと狙われる。そしてアデルがその場に居合わせたなら、きっとテオバルトを庇う。
「だって……好きなんですもの……」
前世でも今世でも、アデルはテオバルトを恋い慕っていた。
テオバルトの死を防げるのが自分だけという状況ならば、ためらわずに自分の命をなげうつだろう。
一方のテオバルトは、冤罪によって騎士団を追われ、実家から勘当されかかって絶望したところをアデルとの婚約で救われている。
この国では貴族でないと騎士になれない。騎士になること、騎士で居続けることを生涯の夢としているテオバルトにとっては、唯一もたらされた蜘蛛の糸。
今は無理でも、貴族でさえいれば、いつか冤罪が晴らされて騎士に戻ることができるかもしれない。
テオバルトにとって、アデルとの婚約はなんとしてでも維持しなければいけないものだ。アデルの機嫌を損ねないように顔色をうかがう日は、死ぬまで続く。
苦しむテオバルトとは対照的にアデルは初恋の人との婚約に浮かれて、三日と開けず呼び出してはお茶会をしていた。
図々しくも敬語を使わないでほしいとテオバルトにお願いし、テオバルトのことを根掘り葉掘り聞きたがる。
「うっ、うわあああああ! 確かに浮かれていたけれど! 浮かれていたけれども!!」
テオバルトの苦悩を思うと、あまりに心ない仕打ちだ。
「ひっ、ひとまず考えることはやめておこう……。今考えなければならないのは別のことよ!」
問題は、ヒロインがテオバルトのルートを選ばなければ、テオバルトの冤罪が永遠に晴らせないことだ。
ヒロインが世界一格好いいテオバルトを選ぶのは当然だと思うが、人には好みというものがある。実際、乙女ゲームの人気投票でテオバルトは三位だった。
「もし私が花祭りで死んで、ヒロインがテオバルト様のルートに入らなければ、テオバルト様はずっと罪人のままになってしまう……!」
それだけは、駄目だ。
テオバルトにとって騎士は生きがいだ。なんとしてでも騎士に戻ってほしい。
「私がテオバルト様の冤罪を晴らしつつ、死ぬのを回避して、ヒロインと出会ったら身を引けばいいのでは……!? そう、婚約破棄よ! 」
いい考えだ。
うんうんと頷いたアデルは、メモした紙を鍵付きの引き出しに入れた。高熱で頭がぐるぐると回る。
揺れる視界でなんとかベッドにもぐりこんだアデルは、それからさらに数日寝込んだ。
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