第二章:高橋琴音

 私は、この聖アンジェリカ女学院が大嫌いだ。

 鉄の門、高い塀、古びた赤レンガの建物。全てが私の心を締め付ける檻のようだった。

 朝のホームルームが始まる直前、私は教室の後ろの席でため息をついていた。周りの生徒たちは、昨日の歓迎会の話で盛り上がっている。

「ねえ、琴音さん」

 隣の席の女の子が話しかけてきた。確か名前は……中村さくらだったか。

「昨日の歓迎会、楽しかったね」

 私は無愛想に答えた。

「別に」

 さくらは少し困ったような顔をしたが、諦めずに話を続けた。

「あの、よかったら今度一緒にお茶でも……」

「結構よ」

 私は彼女の言葉を遮った。

「私には友達なんて必要ないから」

 さくらは傷ついたような表情を浮かべたが、それ以上何も言わなかった。

 そのとき、教室のドアが開き、担任の山本先生が入ってきた。

「おはようございます、皆さん」

 山本先生は優しく微笑んだ。

「今日から本格的に授業が始まりますね。新しい環境に慣れるのは大変かもしれませんが、互いに助け合って頑張りましょう」

 クラスメイトたちが元気よく返事をする中、私だけが黙ったままだった。

 授業が始まり、私は窓の外を見つめていた。校庭には、美しく手入れされた薔薇園が広がっている。その美しさと対照的に、私の心は暗く閉ざされていた。

「高橋さん」

 突然名前を呼ばれ、私は我に返った。山本先生が心配そうな顔で私を見ていた。

「はい……」

 私は渋々答えた。

「この問題の解き方を説明してくれますか?」

 私は黒板に書かれた数式を見た。簡単な問題だ。前の学校では、こんなのは朝飯前だった。

「わかりません」

 私は嘘をついた。

 山本先生は少し困ったような顔をしたが、すぐに笑顔に戻った。

「そうですか。では、一緒に考えてみましょう」

 授業が終わると、山本先生が私を呼び止めた。

「琴音さん、少し話せますか?」

 私は仕方なく、教壇の前に立った。

「琴音さん、何か悩みがあるの?」

 山本先生は優しく尋ねた。

「新しい環境に馴染むのは大変だと思うけれど……」

「別に何もありません」

 私は素っ気なく答えた。

「では失礼します」

 教室を出ると、廊下で生徒会長の佐藤美咲とばったり出くわした。

「あら、琴音さん」

 美咲は微笑んだ。

「学院生活には慣れた? 何か困ったことがあったら、いつでも相談してね」

 私は彼女の妙に親切な態度に心の底からイラついた。

「余計なお世話です」

 美咲は驚いたような顔をしたが、すぐに優しい表情に戻った。

「そう……でも、いつでも話を聞くわ。一人で抱え込まないでね」

 私は彼女を無視して、そのまま寮に向かった。

 自室に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。天井を見つめながら、過去の記憶が蘇ってきた。 前の学校での出来事、両親との激しい言い合い、そして……あの事件。

 私は枕に顔を埋めた。誰にも理解されない。誰も私のことなんて本当は気にしていない。ここにいる全ての人間が偽物だ。

 そのとき、ノックの音がした。

「琴音さん、いる?」

 ドアの向こうから、さくらの声が聞こえた。

「夕食の時間よ。一緒に食堂に行かない?」

 私は無視を決め込んだ。しばらくすると、さくらの足音が遠ざかっていった。

 窓の外を見ると、夕暮れ時の薔薇園が金色に輝いていた。その美しさに、私の心が一瞬揺らいだ。

 でも、すぐに現実に引き戻される。この学院での生活は、きっと地獄になるだろう。誰も私を理解しようとしない。誰も……。

 私は再びため息をついた。明日からまた、仮面をかぶって生きていかなければならない。一生はずすことのできない仮面を……。

 でも、本当の私を誰かに見せる勇気なんて、もうとっくになくなっていた。


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