カップ麺・ラヴ

紫鳥コウ

カップ麺・ラヴ

 今日も修士論文を読み直している。提出日までに、なにも間違いがないかチェックをしなければならない。今年も、冬の雨は凍えるほど冷たい。買い物へ行くのが億劫おっくうになる。

 レトルトのカレーも残すところひとつだ。レンジで温めているあいだに、脚注の出典しゅってんが適切に記されているかどうかを確認する。


(1) Furuhara, Iori. Mass Violence and Transitional Justice Paradox, Dandelion University Press, 2003.

(2) Ibid.


 Furuhara氏の学術書のタイトルも出版社も発行年も間違っていない。同じ書籍を参考にして書いた部分だから「Ibid.」で合っている。この前は、「同上」と書いてしまっていた。それは、間違いだ。洋書の場合は、「上と同じ」であることを「Ibid.」と表記する。


(3) 扇原誠威「移行期正義における潜在的な規則と規定」『言の葉大学文学部紀要』(言の葉大学文学部)、43巻、2006年、124-126頁。


 この扇原氏の論文は、「言の葉大学」の「文学部」から刊行されている、論文がいくつも掲載されている雑誌の、「43巻」に収録されている。刊行されたのは2006年だ。『言の葉大学文学部紀要』……うん、間違いはない。論文のタイトルも一字一句合っている。

 タイトルは「かぎカッコ」を、雑誌名は『二重かぎカッコ』を用いて表記する。そのルールも守られている。124ページから126頁に書かれている情報を参考にしているから、「124-126頁」という表記で大丈夫だ。


(4) Furuhara, op. cit.

(5) 扇原、前掲書、123頁。


 もうすでに書誌しょし情報が書かれているものは、著者名に「前掲書」と記すだけでいい。洋書の場合は「op. cit.」だ。よし、これも間違いない。


(6) 扇原の議論への反論として以下のものがある。笠原泰寿『集合的無意識とは何か-ジグムント・フロイト入門-』赤の栞書房、2008年。


 これは、本文に組みこまなくてもいいけれど、書き記しておくべきだと思った情報だ。笠原氏は、『集合的無意識~』という書籍の中で、「扇原氏の議論は違う」という主張をしている。そのことは、一応触れておきたい。

 この場合は、書籍名を『二重かぎカッコ』にして、その本を刊行している出版社の名前と刊行年を記す。


 熱々の袋を破り、白ごはんにルーをかける。辛いものが苦手で、甘口しか食べられないのを、優子ゆうこはからかってきた。そんな筋合いはないのに。辛いものが苦手なひとなんて、たくさんいるのだから。

 これだけでは、お腹がいっぱいにならない。もののひとつはほしかった。だけど、凍えるような冷たさを感じさせる雨が、斜めに走っている。風も強いらしい。

(夜ごはんは、どうしようか)

 修士論文のデータのバックアップをとっておく。パソコンが壊れてデータがなくなり、期日までに提出できず、卒業が再来年になるなんてことは、あってはならない。


 夜ごはんを食べながら話をしたいと、優子に誘われた。通話アプリを使って。地元のセレモニーホールに就職をした優子とは、二年前に離ればなれになってしまった。

『なに食べてるの?』

「カップ麺」

『後入れスープがあるやつ?』

「うん。ふたの上で温めた。なんで?」

『奮発したんだなって』

 たしかに、後入れスープのあるカップ麺は、高いというイメージがあるけれど、これはいつ買ったものだっただろうか。

『あーあ。千尋ちひろのことが大好き。大好きだよ。千尋も、わたしのことが大好きだよね?』

「うん、大好き」

『来年か再来年、結婚しようよ』

「うん、そうしよう」

『チャーシューは後から食べるタイプ?』

「チャーシューは入ってなかった。ネギがいっぱ浮かんでる……そうなると、結婚指輪を買わないとなあ。カラットってなんの単位だったっけ」

『ええとね……ええと、質量だって。いま調べた』

 夜ごはんを食べてしまっても、通話は終わらなかった。雨はもう止んでいるらしかった。自動車が水たまりを削って飛沫ひまつが弾ける音が聞こえてきた。


 修士論文を提出した帰り、スーパーであの日に食べたカップ麺と同じものを探した。だけど、見つからなかった。それに、自分の記憶が曖昧あいまいになっている。仕方がないから、後入れスープのあるカップ麺を、適当にふたつ選んだ。

 目を開くのがつらいほどの、冷たい風が吹いている。ペットボトルが何本も入ったビニール袋が、手袋に食いこんで、甘いしびれを与えてくる。修士論文の内容を振り返ってみる。何年か後に読み直したら、赤面をするかもしれないけれど、いまは、あれ以上の手直しは考えられない。

(もうすぐ、引越しをしなくちゃな)

 一カ月後には、卒業の可否を決めるための口頭試験こうとうしけんひかえているのだから、まだまだ気を抜いてはいけない――けれど、いまだけは、ゆっくりとさせてほしい。修士論文を無事に提出することができたのだから。そして、今日だけは、待っているひとがいるのだから。


 いつも、アバウトに時間をはかっているから、砂時計を眺めるのは新鮮だった。きらきらとした紫色の砂が、上から下へと滑っていく。そういえば優子は、紫色が好きだった。

 カップ麺のなかに指輪が入っていたりしないかしらと、悪戯いたずらっぽく言われた。ちょっとおもしろそうだなと思ってしまった。



 〈了〉



※本文に登場する書籍や論文、及びその著者は、すべて架空の著作、人物です。

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