第1話・母の秘密①
窓の外の太陽が西に傾いてからしばらくした頃、少し古い雑居ビルの二階、事務所兼住居である一部屋の寝室で、黒髪の女が目を覚ました。ベッドの上で一つ伸びをしてから起き出し、タンクトップとパンツ姿のまま寝室のドアを開ける。
出勤まで約三秒。便利な事この上ない。
欠伸をし、眠い目をこすりながら玄関へ向かい、ポストにたまった郵便物を確認する。一か月分の電気代とガス代の請求書が一枚、朝刊と夕刊合わせて二枚の新聞紙。特に変わった物は届いていないようだ。
取り出した郵便物を窓のすぐ前に置いてあるデスクの上に放り、隣のクローゼットから黒い細身のパンツを取り出す。足を滑り込ませ、腰のあたりのボタンを閉めた。
ちょうどその時、事務所の前の道からスキール音が響いた。続けて外のコンクリートの階段を物凄い勢いで駆け上がってくる音が聞こえ、途端、事務所の玄関が蹴り開けられる。
「……お、おはよう少年」
「ヘイ、ニーナ」
姿を現したのは例の少年だ。
「今日は何日か知ってるか?」
「……に、25日」
「それが何の日かは?」
「……」
口をつぐみ、冷や汗を垂らしながら黒髪の女、ニーナは少年から目をそらす。少年は手に持っていたスマホの画面を彼女の方へ見せつけながら、低い声で言った。
「世間一般では給料日と言う」
その画面には、銀行口座の管理アプリのトップ画面が映っている。
「今月、僕はしっかり働きに来ていたはずなんですがね? 口座に1円も入っていないんですよ。えぇ、これ一体どういうことです?」
「……銀行のミスなんじゃないかな?」
「だったら、もっと騒ぎにになると思いません?」
そう言って、少年は事務所のテレビの電源を入れる。
「あら不思議。そんなニュースはどの局も流れておりません」
「……」
なおも口を固く閉じ、しらを切り通そうとするニーナに対して、少年はスマホの画面を突き出しながら、彼女の方へ詰め寄った。
「おかしな話ですよね? ここ3か月毎度こんな状態なんですが? えぇ? 雇用主さんよ?」
「えーと、それはだな……」
怒りの圧と共に、鼻先まで詰め寄られたニーナはとうとう観念し、後ろへ飛びのいて、そのまま空中で膝を畳み、土下座の態勢で事務所の床に着地した。
「本ッ当に! 申し訳ありませんでしたッ!」
凄まじく速い謝罪の態勢に、少年はがっくりと肩を落とし、部屋の底にしばらく滞留しそうな程の大きなため息をつく。
「はぁ、またですか」
「払う意思は……払う意思はあったんだ!」
「なきゃ速攻で辞めますよ」
「ただだな。ただ……今はちょっと、持ち合わせがなくて……」
「なんでカツアゲされた中学生みたいなこと言ってるんですか」
「5日! 後5日待ってくれ!」
顔を上げ、手を開いて五本の指を少年の方に指し示すニーナ。
「ンなこと言って、先月も10日くらい待った記憶があるんですけどね」
少年は腕を組みながら無慈悲に言い放つ。ニーナは彼から視線を逸らすが、体中の汗腺という汗腺が開き、見て分かるほどに冷や汗がドバっとあふれて来た。
「……スマンっ!」
ニーナは再び額を床に擦り付ける。少年は呆れ果てたように再びため息をつき、言った。
「で? 今いくら持ってるんです?」
「そんなぁ! 後生だぞ少年!」
「こんな、いよいよカツアゲめいたことなんてね、僕だってしたくないですよ。でもね、車のガソリンがもう無いんです」
「車? 君の軽自動車か?」
「えぇ、元々そんな燃費の悪い車じゃないんですけど、なかなか自由に入れれなくてね」
頭を上げたニーナの額に、人差し指をグリグリと押し付けながら少年が唸った。
「これも全部どこぞの雇用主がきちんと金を払ってくれないからなんですけどねッ! ガソリン代くらい奢ってくれないと、今回ばかりは許しませんからねッ!」
「はいぃぃ! ごめんなぁさぃい!」
その時、少年の背後で、閉まっていた玄関扉が開いた。
「お邪魔しま……す?」
姿を現したのは、小学生低学年ぐらいの男の子だ。恐る恐るといった様子で玄関扉を開いて中に入って来たのだが、その子の目に、少年に指を突き立てられる泣きっ面の女という妙な光景が飛び込んでくる。
「あぁん?」
そして、額に青筋の立てた少年に睨みをきかせた目で凄まれる。歓迎の挨拶としてはこの上なく最悪だ。
「し……失礼しましたぁ……」
目元に涙を浮かべ、口をなわなわと震わせながら男の子は扉の裏側へと消えていく。
「待て待て待て待て坊や! 頼む! 話を聞いてくれ!」
ニーナが床から飛びあがり、本日のお客様第一号を引き留めにかかった。
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