第五話 桃、河童に脅される

先日の魔猪退治からひと月半。季節は初夏となり、これから暑さも厳しくなってくる頃だ。

俺はあれから初陣として盗賊討伐をこなし、それからはごく代り映えのない日々を送っている。

盗賊の討伐は幹久爺様の部隊と合わせて50名ほどの兵を連れての行軍だった。

この初陣は人の命を奪う行為に対する恐怖の克服の他、隊の動かし方の練習も兼ねている。

初陣を経たからといってすぐに慣れるわけではないが、それでも初めてと二度目では雲泥の差がある。

結果としてはまあ上々といってよかっただろう。

相手が殺意満々でやってきた分、むしろ踏ん切りがついたかもしれない。

暫くは斬った相手の悲鳴が耳に焼き付いていたし夢にもみたが、なんとか正気を保って過ごせている。

そんな血生臭いイベントがなければ、基本的には今は平和な日常だ。

現にそれ以外の日々は日課の事務仕事を終え、鍛錬の毎日が続いている。


「あ?なんだおまえ、もう上がるのか?珍しいないつも暇さえあれば鍛錬してるのに」


一足早く訓練にけりをつけた俺に、上半身裸の勇魚が珍しいものをみるように声をかける。

手拭いを手に持っているのを見るに、汗を拭っていたのだろう。


「ああ。元々少し今日は少し早めにあがって薬を買いに行くつもりだったんだ」

「薬?おまえどっか悪くしたの?」

「いや、このところ暑くなってきただろ?汗疹ができちゃってさ。薬も丁度切らしてて」

「あぁ……」


納得したように勇魚いさなが声を漏らす。

そこまで分厚いものを着込むわけではないが、鍛錬を始め汗をかくことが多いために汗疹は共通の悩みだ。

汗疹といっても甘く見てはいけない。

酷くなれば皮膚がボロボロになるし、痒みで集中を邪魔されるために結構深刻なのだ。



「じゃあ俺も付いていっていいか?薬が残り少ないから買い足そうと思ってたんだわ」

「了解。それじゃあ先に門の前で待ってるよ」

「おう。じゃ後でな」


勇魚の声を背に、軽く片手をあげて返事をしながら俺は訓練場を後にした。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「で、なんでお前もいるんだ?」

「あはははは……」


勇魚の目が点になっている。

正直、俺も同じ気持ちだ。


「♪」


鼻歌でも歌いそうな機嫌のよさそうな顔で俺の横に立つのは、勇魚の妹の凰姫こうひめ様。

後ろには付き人でもある長身の女性が控えていた。


「私も偶には、桃とお買い物に行きたいのだもの。お兄様だけずるいわ」


にこやかに言う彼女は涼し気な紫陽花青の着物に身を包み、結ぶ髪紐も淡い青色の物だ。


「大したもの買いに行くわけじゃないぞ?」

「鯱丸はどうしたんだよ」

「あの子はお父様と一緒」

「父上の所…また仕事の見学かぁ」

「ええ。ここのところお留守番が続いていたし、私もいいでしょ?」

「ううむ……桃、いいか?」


観念したように勇魚が目配せしてくる。

普段は快活な彼も妹には少し弱いらしい。


「駄目かしら……」

「うっ……」


潤んだ目で此方を見ないでほしい。

分かってやっているのだろうが、彼女にはどうにも強く出られない。

決して彼女は我が強いわけではない。我儘もあまり言わないし、引くべき時は引く子だ。

むしろ普段はあまり我儘を言わないからこそ、たまに言ってくる我儘を聴いてあげたくなるのだ。


「大丈夫です桃殿。私もお供しますので、どうか姫様の供をお許しください。」


答えに少し詰まったのを見て助け舟を出す形で、凰姫の付き人である女性が口を挟む。

名前を竜宮乙と言った。凰姫の侍女であり護衛役である。

身長180㎝を超えるすらりとした長身と特徴的な彼女の鼈甲べっこうの瞳が優し気に凰姫を見つめる。

艶のある紺の髪は短く、その身長もあって中性的な印象を受ける人だ。

俗にいう、ウルフカットに近いかもしれない。


「凰姫様はここ数日勇魚様や桃殿が鍛錬に明け暮れていたために拗ねておられたのです」

「乙!」


頬を赤らめて小さな声で凰姫が抗議したのを見るに、事実のようだ。

確かにこのところ一緒の時間を過ごすことが減っていた。

久しぶりに一緒に買い物がてら散歩を楽しむのもいいかもしれない。

護衛の乙殿もいるし、中蘇芳の市街ならば危険も少ないだろう。


「わかりました。一緒にお散歩行きましょうか。」

「フフッ、ありがとう」


その言葉を聴いて表情を一変させる。

先ほどの不安げな表情から打って変わって花が咲いたように柔らかな笑顔を見せた彼女に、俺と勇魚は敵わないなと揃って笑みを返した。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



中蘇芳の市街は領主館を含めて一つの城郭のようになっている。

城下ごと堀や土塁で周囲を囲う惣構というやつだ。

街路は石畳の路面にずらして交差させる喰違の道やくの字型の屈曲路等で構成されており、戦時には敵兵を阻む形になっている。

しかし平時は市民の行きかう交易の場だ。

中蘇芳は西側が海に面しており、南北と東への街道が通っている為に商業の中心地でもある。

売り子の声に値切る声、子供がはしゃぐ声に茶屋で雑談する声等々、人の波も音の波も賑やかだ。

勿論盗賊の出現や次元穴、魔獣の出現等もあって完全に平和というわけではない。

それでも争いが常に隣り合わせのこの世界では、この人々の様子は平和そのものと言っていいだろう。


「お、勇魚様!今日は何か買い物かい?」


威勢よく声をかかけてくる恰幅のいい干物売りの男。


「凰姫様、この間はうちの子の相手してくれてありがとうございました」

「ありがとうございました、こうひめさま」


凰姫が遊び相手になったのであろう。

女児の手を引いた母親が凰姫に笑顔で頭を下げる。


「桃様、いい穴場見つけたんだ。今度一緒にどうだい?」

「いいねぇ。今度釣り勝負と行こうか」


酒屋の息子は俺の釣り仲間だ。

もう二十歳を過ぎているはずだが、仕事の合間にこうしてこっそり釣りに誘ってくれたりする。

最近顔を出せていなかったから、気を使ってくれているのかもしれない。


この世界は身分によって扱いが変わる社会だが、この蘇芳はいい意味で緩い。

それは領主の縁者である勇魚や凰姫様に対する態度や視線が尊敬がこもっていながらも親し気で、それを受ける二人が妙に偉ぶらない辺りからも伺える。

領主である恵比寿様の懐の広さというか、度量の広さみたいなものが蘇芳の人々を安心させているのだろう。


「汗疹の薬汗疹の薬……」

「これとかいいんじゃねえの?」

「私はちょっと匂いが苦手かも……」


こっそり凰姫が呟く。

本人は我慢しているつもりみたいだが、ちょっぴり端正な顔立ちがしかめっ面になっているのは内緒だ。


「それならこれなんかいいんじゃないかい?匂いもそこまで強くないし、べたつきも少ないですよ」


店に入って暫くは見守っていた薬屋の女性が声をかけてくる。

汗疹用の塗り薬も幾らか種類があって、香り付きのものであったりべたつきを抑えたものだったりと様々だ。


「うん、そこまでべたつかないし匂いも強くない。いいかも」


薦められて少し塗り薬を手に取って鼻を寄せる。


「瓶の大きさも選んでいただけますが、どうされますか?」

「これから暑くなるんで大瓶で。あと持ち運び用に空の小瓶があればそれもいただきたいです。勇魚は?」

「俺もそのセットで。凰、お前もなんかいるなら買ってやるぞ?」

「ありがとうお兄様。でも私は自分で買えるから、鯱丸に何か買ってあげて。乙、あなたは大丈夫?」

「私は大丈夫ですよ。ありがとうございます」

「では、包みますのでお待ちくださいね」


そういって薬屋の女性は店の奥へ汗疹の塗り薬の瓶をもって消えていった。

戻ってきたその手にあった包みを受け取って一つを勇魚に渡して店をでると、先に外に出ていた凰姫と乙殿は近くの茶屋の軒先に移動していた。

その顔をよく見てみれば茶屋の看板に掲示された饅頭の文字をキラキラとした目で見つめている。


「勇魚。俺甘いもの食べたい」

「お前もたいがい凰に甘いよな」

「別に凰姫様が食べたそうにしてるからじゃない……」


そう。凰姫様のキラキラした目を見てしまったからではない。

俺も甘いものが好きなだけである。

本当に。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


この世界は一見すると中世日本のようだが、次元穴の影響か見た目にそぐわない発展を遂げているものがある。

甘味もその一つだ。

前世の世界では中世ごろの砂糖は高級なものだったと記憶しているが、この世界はそうでもない。

趣向品として他より値は張るが、少し大きな街で戦時でもなければ、こうして甘味にありつくことが出来る。

抹茶と饅頭のセットが大体銀貨幣2枚ほどだから、以前の世界の感覚で言えば二千円くらいか。

甘いものが好物の俺としては大変ありがたい。

それは凰姫様も例外ではなく、大切そうに饅頭を口にしては幸せそうな笑顔の花を咲かせている。

芋で作られた皮にしっとりと口当たりの良いこし餡は、確かに付けられているお茶によく合っている。

お茶の僅かな苦みが舌に残った甘さを洗い流し、二口三口と口に入れたくなる甘さと柔らかさだ。


「お前らホント好きね……甘いもの」

「勇魚も食べればいいのに」

「俺は別に甘いものが特別好きってわけじゃないからいいの」


そういった彼の手には持ち帰り用の饅頭の包みがある。

竹籠を薄い紙で包んだそれば鯱丸様と御館様への土産だろう。

かくいう自分も爺様達への土産に持ち帰りの分を買っている。

凰姫様が饅頭を気に入ったのか巾着袋から財布を出して難しい顔をしているのは、もう一つ食べるか悩んでいるのだろうか。


「お小遣い無くなっちゃいますよ。カルラ様の位牌にお供えする分も買われたんでしょう?」

「姫様、あまり食べ過ぎてはお体に悪いかと……」

「そうよね……お父様からも無駄遣いは控えるように言われているもの。我慢するわ」


俺と乙殿の言葉に、凰姫様が控えめな笑顔で答える。

たぶん本音はまだ食べたいのだろうけれど、ある程度は節制も必要だとわかっているからこその表情だった。


「別に俺が出すからいいよ。でも太っても知らねえぞ」


勇魚の一言にピシャリと凰姫様の表情が固まった。


「お兄様?お言葉はありがたいけれど女性に言うことではないわよ?」


表情を変えないまま凰姫様が勇魚に向き直る。

此方から表情は見えないが、これは怒らせたな……。


助けてくれ。そんな顔を向けてきた勇魚に、乙殿と俺は無言で首を横に振るしかなかった。



◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇



「あ」


饅頭で小腹を満たして他にもいくつかの店を回って帰路に就く最中、横に並んで歩いていた凰姫様が突然声を上げて立ち止まった。


「どうかしました?」


見てみれば手で口元を覆って固まった姫様の表情は強張っていて、あまり目にすることのない表情にこちらも目を点にする。

後ろで乙殿に慰められていた勇魚もその様子をみて、「どうした」と寄ってきた。


「お母様の位牌に備えるお饅頭、どこかに置き忘れてしまったみたい」


申し訳なさそうな声でそう言った凰姫様の手には、確かに買ったはずの饅頭がない。


「お前なぁ……、何処で置き忘れた?」

「多分さっきの金魚売りのお店……、店主さんに濡れてしまうからって言われて預かってもらっていたの」


そういえば、と記憶をたどる。

道端に店を出していた行商の男が金魚を売っている店があったはずだ。

「折角のお土産が濡れてしまうでしょう」と言って行商の男は凰姫様から饅頭を預かっていたはずだ。

自分にも確かにその記憶があるから、凰姫の言う通りあの店で預けていた饅頭を受け取り忘れていたのだろう。


「ったく仕方ねえな。俺が取ってきてやるからここで待ってろ」

「私も念の為、来た道と店を戻って確認しましょう。姫様は桃殿とここでお待ちください」

「ごめんなさい。私が自分で持つって言ったのに……」


そう言った姫様はすっかり縮こまってしまって、声色も沈んでいる。

乙殿が持つといった荷物を自分の不注意で置き忘れた事に自己嫌悪しているのだろう。

その顔には申し訳なさがありありと浮かんでいて、少し心配になるほどだ。


「そう落ち込まないでください姫様。勇魚達が取りに行ってくれてますし、これくらいの些細な不注意は誰にでも起こりえますから。

 そこの日陰で麦茶飲みましょう麦茶」

「ありがとう、桃。」


日差しは幾らか和らいでいるものの依然強く、厳しい。

凰姫を日差しから庇う様に軒で陰になっている道の脇に退避させ、麦茶の入った竹の水筒を渡すとその表情に少し柔らかさが戻る。

その様子を見て少し俺は安堵し、彼女の隣に並ぶ形で壁に背を預けた。


「姫様は少し真面目過ぎです。蘇芳の姫君として襟を正すのもいいですが、もう少し周りの人間に甘えても罰は当たりませんよ」

「それを桃に言われるなんてね。あなただって似たようなものよ?」


思えばこんなにも彼女が気を張るようになったのは、彼女の母が亡くなってからだ。

凰姫様達兄弟の母君カルラ様は、数年前病で亡くなった。

同盟を結んでいる他の領の領主の妹であり、政略結婚としてやってきた身だったそうだが、恵比寿様との仲は睦まじかった。

本が好きで、蔵書の中から絵物語を選んでは勇魚達と共に読み聞かせてくれたのをよく覚えている。


「俺は御館様にも蘇芳のみんなにも恩がありますし、自分の居場所を守りたいだけです。なんだかんだ自分に甘いし結構人を頼ってますから、その分少し気張るくらいが丁度いいんですよ」

「そう言っていつもなんだかんだで訓練して書類仕事をしてへとへとになって……、それは自分に甘いとは言わないわ」

「じゃあ俺がくたばった時は姫様が甘えさせてください」

「くたばる前に言いなさい。みんないつも心配してるのよ?」

「……そうですね、ありがとうございます。」

「お願いね?そうだ……」


思い立った様子で凰姫が呟いて、おもむろに右手の小指を立ててこちらの手に触れてきた。

触れた指が此方の指を遠慮がちに促すように捉える。

その様子に軽く握っていた左手の力を緩めると、華奢な指が花の蔓のように絡んできた。

此方からは少し俯いた彼女の頭を見下ろす形になって、その表情は見えない。


「指切り。ですか」

「ええ。最近はやらなくなったけど、いいでしょう?」


ほんの少しだけ彼女の耳が朱に染まっているように見えるのは、気のせいではない。

久々にこうして指切りなどを要求してみせたから、ほんの少し恥ずかしいのかもしれない。

そうまでして自分を甘やかそうとする凰姫の様子に、心が温かくなるのを感じた。


(―――いいのかな)


そんな状況でも尚迷うのは、彼女にだけはどうにも素直に甘えられる確約ができないから。

守るべき立場の彼女に対して言葉通り甘えていいのかという葛藤が、甘えることをいつも阻んでしまう。

このまま指切りをするのは簡単だけれど、そんな状態で約束をしてしまうのは気が引ける。

かといって指切りをしないのも凰姫様の行動を無碍にする形になってしまうから避けたかった。


(他の人は素直に頼れるのになぁ……)

「……桃……?」



考え込んで動かなくなってしまい、いつまでも答えない事が不安になったのだろう。

凰姫様が僅かに俯いていた顔を上げようとしたその時だった。


「きゃあ!!」


悲鳴が耳に届いたのと身体が反応したのは同時だった。


「凰!」


突然浮き上がった彼女の手を何とか掴む。

そして彼女の下半身を見てぎょっとする。

彼女は浮き上がったわけではない、下半身毎壁に埋まっていた。


(いや……何かいる……!)


埋まって沈みこもうとする凰姫の身体と壁の境目、丁度鳩尾の位置。

そこに巻き付いているのは滑る様な見た目のなにか。

一見すれば蛞蝓のようにも見えたそれは、水掻きの付いた腕だった。

苔のような色味の不気味な腕は凰姫の腹部にがっしりと纏わりついて、離す様子はない。

凰姫の腕を掴んでこれ以上強く引っ張っても、腕は外れないどころか痛い思いをさせるだけだろう。


「この!!」


左手の指輪にエネルギーを集めて小さな水の刃を作って切りつける。


「ぎゃ!」


壁の中から甲高い悲鳴が上がった。

即座に腕が引っ込んで、凰姫を壁から何とか引きはがすことに成功する。


「怪我は!?」

「私は大丈夫……桃!後ろ!!」


壁から引きはがした勢いで一緒に倒れ込んだ凰姫に怪我はない。

しかし倒れ込んだ衝撃から姿勢を直した凰姫が直後、血の気の引いた顔で悲鳴を上げた。


「え!?ぐあっ……」


咄嗟に立ち上がろうとしたところでわき腹を蹴り飛ばされた。

そのまま転がされて壁に背を打ち付け、咳込む。


「くそっ」


蹴られたわき腹を抑えながら悪態を付くがそんな場合ではない。

蹴り飛ばしてきた相手の姿を確認しようと先ほどの場所を見たが、既に姿はない。


(どこに行った……?)


周囲を見回しても先ほどのような怪しい影も敵意もない。

騒がしくなったのを聞きつけたのか、近くの店から何人かが顔を除かせて目を丸くしていた。

凰姫様は俺の方を気にしながらも、いつでも走れるように着物の裾を破って同じように周囲を警戒している。

先ほどの襲撃を考えれば敵の狙いは凰姫様か。すぐに逃げられるようにしてくれたのはありがたい。

思考を駆け巡らせながら周囲を観察すると、凰姫様の足元がずぶずぶと底なし沼のように緩んでいくのが見えた。


「姫様!下だ!」


凰姫様が走ろうと足に力を込めたのが分かった。

しかしもう遅かった。堅かった筈の石畳は沼地のようにずぶずぶと凰姫様の足を捉え、沈めていく。

彼女の足元にはよくよく見れば先ほどの不気味な腕。

また何者かが彼女を引きずり込もうとしている。


「桃!」

「姫様!下手に動かないで!」


駆けだして引き上げなければ。

そう思って走り出そうとして、走れなかった。

そのまま前のめりに転んで、俺は小さくうめき声をあげる。


(足を掴まれた!?)


慌てて足元を見ると服の上から足を掴んでいるのは先ほどと同じような不気味な腕。

違うのは凰姫の足を掴む腕が苔むしたような色なのに対し、此方は毒々しい赤であることか。

足を掴む腕を自由な方の足で蹴って外そうとするが、なかなか離さない。


「この!離せ!!」


凰姫の手前避けたかったがもうそうはいっていられない。

水刃輪で腕を切断する他ない。魔力を使って水刃輪を形成し、腕を斬りつけようとしたところでようやく手が離れた。


「今離すなよ!掴んでろよ!」


悪態を付きながら凰姫様の元に駆け寄ろうとしたところで、再度目の前の石畳がぐずぐずと崩れ始める。

駆け寄ろうとした足を慌てて止めると、とうとう襲撃者が沼から姿を現した。

腕は毒々しい赤。指の間には水掻きが見える。

沼のふちに手を付き這い上がってくるその姿は、上半身裸で、胸や腹は露わになっている。

否、露わのようになっている胸や腹の盛り上がった筋肉は、そういう形の腹甲のようだ。

不気味な色の手足は改めて見ればゴム質の肌に覆われているが、頭や腹甲を含めた胴体の色は黄色人種の肌の色に近い。

股間に当たる部分は褌のような黒い布が下がっていて、額から頭頂部を剃った月代の頭。

後ろ髪は長く、蓑のように背中を隠していた。

嘴はない上に背中はよく見えない。

しかし細かなイメージの違いはあるものの、その見た目は前世の世界で昔話に出てくる化け物を想像させる。


「河童ァ!?」

「大人しく捕まっておけばいいものを…手間取らせやがって……」


そういえば聴いたことがある。

魔物が信仰を得られずに零落した者たちがいると。

そして彼らを異世界から渡来した言葉でこう呼ぶのだ。

妖怪と。

襲撃者は悪態を付きながら此方を睨みつけた。

その値踏みするような視線に不快感を覚えながら、俺も反論する。


「随分な言い草だな。そっちこそ目的はなんだ?何者だ?」

「言うと思ったか?だがまぁ、そうだな……出てこいカワベエ」


その声に合わせるように赤い河童の後ろの地面が再度沼上に変わって、よく似た色違いの姿が現れた。

苔色の腕に切り傷がある。最初に襲撃してきた奴だろう。

その腕の中には気を失った凰姫が抱かれていた。やはり複数いたのかと内心舌打ちをする。

凰姫を救いたいが、奇妙な技を使う上に複数相手は分が悪い。

何より今は武器がない。


「言うかバーカァ!!知りたきゃ西海岸の大洞窟に来い!俺の腕斬りやがってバーカ!」


カワベエと言われた男が唾を飛ばして捲し立てる。


「まあそういう事だ。知りたければ大洞窟に一人で来い。早く来ないと可愛い姫様が腑抜けになるぜ」


それだけ言って、河童たちの足元が再度沼上に変っていく。


「待てこら!」

「やなこった。喰らえ馬鹿!」


叫んだものの待てと言われて待つ相手ではない。

悪態と共にカワベエと呼ばれていた河童が何かを投げる。

緑色の細長い、少しイボの付いた見た目の野菜だ。


(きゅうり!?)


なぜきゅうりなんて投げたのか。疑問と同時に足を止めた瞬間投げ込まれたきゅうりが火花を上げて爆発した。


「うわ!?」

「かーっかっかっかっか!ペッペッペッペ」


爆発から思わず顔を背ける。そこまで威力はないが派手に散った火花と煙で視界が塞がれ、腹の立つ笑い声と唾を飛ばす音が響く。

煙の中何とか目を凝らすが何も見えず、晴れたころには不気味な静寂だけが残っていた。


「……姫様……!」


俺以外誰もいなくなった空間に静かに言葉だけがこぼれる。

あれほど強く感じていた日差しは感じられない。

零れた言葉は誰に聞かれることもなく、薄暗い雲に覆われ始めた空に吸い込まれていった。

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