第二話 化け猪退治
明朝、出立の準備を整えた俺たちは集落の人々に見送られて猪退治に向かった。
静かな山林の中を、三つの人影が分け入っていく。
周囲は風で木々の葉がざわめく音ばかりで、獣や鳥の声はない。
街道に面した山は一本獣道に踏み入れば深々と生い茂る木々と藪に囲まれている。
僅かな隙間から疎らに差し込む陽の光と獣道を頼りに苔むした地面を踏みしめて進んでいく。
「しかし
「俺は鹿狩りで一度失敗してるからなあ。正直あんまり自信ないわ」
鹿狩りに失敗した身に化け猪は荷が重い。
切羽詰まった状況になれば覚悟も決まるだろうということかもしれないが、野生動物というのは何にせよ危険なものだ。
「なにを言うとるか。ここできっちり一線を越えねばいつ迄たっても一人前にはなれんぞ。
16年前の天災以降、規模の大小問わず各地で災害が頻発して治安が悪化しておる。
早う自分の身を守れるくらいにはなれ」
気が滅入るといった声色をしていたのであろう、爺様がその会話を聴いて諭す。
「わかってるよ。」
実際、ここで一線を越えないことにはこの世界で生き抜くのは難しいだろう。
「ならば良い。
安心してくだされ。御館様も危ないときは助けられるように儂を同行させて下さったのですから」
「花咲の爺さんの弓の腕は家中一だからな。頼りにしてるよ。」
「勿論お前の事もな」と小さな声で耳打ちしてくる勇魚に、小さく笑う形で答えを返す。
実際この二人がいるのは心強かった。
勇魚は
魔法こそまだ使えないが、初陣を務めたばかりにも関わらず並の兵士では相手にならない実力を持っていた。
俺の育ての親兼教育係でもある花咲の爺様に至っては、老齢ながら弓を使わせれば家中一だ。
背丈こそ自分よりも低いが、鍛え抜かれた肉体は老人とは思えないほどに頑強で腕などは子供の頭ほどの太さがあった。
俺も勇魚に負けず劣らず鍛錬を積んできたつもりだが、経験という点では二人にかなわない。
なにより前世で喧嘩もまともにできなかった自分にとって、荒事自体不慣れなことだ。
悔しくはあるが、まだ力の及ばない部分を手助けしてもらうことに対して抵抗はない。
前世からして、心臓の持病で手助けしてもらうことが多かったのだから。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
「これは酷いな……」
爺様の酒に焼けた声が静かに木々に吸い込まれる。
周囲を警戒しつつ朝露で濡れる植物を分け入って山林の奥に入ると、程なくして異常を見つけた。
兎に山鳥、熊に鹿に猪…。あそこにあるのは猿の腕だろう。
一定の個所に集まっているわけではなく唯々通りすがったところを殺されたようで、あちこちに血の跡と犠牲になった動物たちの残骸があった。
そしてそのどれもが無残に食い荒らされている。
角や皮などから辛うじて元の動物が判別できるかどうかというところだ。
緑の濃い匂いの中に、夥しい血生臭さ。
弱肉強食が常の山の中であっても、その光景は常軌を逸している。
生きるための捕食というよりも殺す事に重きを置いているようで、惨殺や殺戮という言葉が合うであろう光景に、冷静に状況を分析する爺様を除いて言葉を失っていた。
「足跡が続いておる」
告げられた言葉に湿った地面をよく見てみれば、大きな蹄の跡。
傍の木には泥によるマーキングが施されていたが、これも比較的体格のいい勇魚の頭一つは上の位置にあった。
「おっかねぇなこりゃあ……」
「まったくだ……勇魚よりデカいって相当だぞ……」
勇魚の身長が189㎝だから、このマーキングを施したのが件の猪だとすれば体高2m越えの大物だ。
背中に僅かな寒気を感じながら、マーキングや足跡を見逃さないように森の中を警戒しつつ進む。
既に縄張りの中に入っているから、いつ遭遇してもおかしくない。
わずかな草木の動く音を、土を踏みしめる音を、木々の影の違和感を見逃さないように。
息を潜めて五感を研ぎ澄ませながら、勇魚を先頭に進んでいく。
そうして、とりわけ大きな木がそびえたつ場所に歩みを進めた時だった。
「二人とも……」
一層緊張を含んだ幹久のその声に振り返る。
幹久は立ち止まったまま木漏れ日の届かない藪の暗闇を見つめながら、振り返りもせずに弓を構えていた。
勇魚と二人、その様子を目にした俺は次の瞬間魚が跳ねるように横に跳んだ。
「来たぞ!!」
爺様が声を張り上げた次の瞬間、三つの大きな影が藪からこちらに向かって突進してきた。
(デカい……!!)
姿を確認して真っ先に出た印象がそれだった。
大きさは軽乗用車程もある。
三匹ともとてつもない速さと力で周囲の木々をなぎ倒し、まるで通り道に障害など存在しないかのような振舞いだ。
大きく横に避けていたのが幸いだった。
軽自動車程もあろうその猪は、真横に大きく飛びのいた俺たちを追い切れずに走り抜けて数本の木をなぎ倒したところでようやく止まった。
何本もの丸太が猪たちの上に降り注いだはずだが、当の三匹は降り注いだ丸太を軽々と放り投げて意に介した様子もない。
「「おっかねぇ……」」
図らずも勇魚とセリフが重なる。
興奮冷めやらぬ様子の三匹は鼻息荒くこちらを見つめ、再び突進しようと蹄でしきりに地面をかく。
中でも特に気が立っているのが一匹。背中に矢が何本か刺さっているのを見るに集落の狩人がやり合った相手だろう。
すでに矢は中ほどで折れてしまっているものの、これまで抜けずに刺さったままでいるあたり相当深く刺さっているはずだ。
三匹の中でも特にこいつの気が立っているのは、間違いなくこの矢のせいに違いない。
いつ突進してきてもおかしくない三匹に注意を払いつつ、ゆっくりと武器を構える。
手には山中でも取り回しやすい160㎝程の短槍。
腰には剣鉈、左手の人差し指には御館様からもらった指輪。勇魚の方は斧を持ってきているようだがあくまで保険だ。
俺はどちらかというと剣の方が得意なので剣を持ってきたかったが、最初は間合いを取れる槍にしておけと言われて槍にしている。
互いに攻撃が干渉しないよう間合いを注意を払いながら穂先を猪に向ければ、それを敵意とみなしたのか遂にそのうちの一匹が勢いよく地面を蹴った。
「来た!」
勇魚が叫ぶ。
突撃してきたのはやはり一番興奮していた手負いの一匹。
先ほどの勢いを考えれば正面から受け止めることは考えられない。
「ふたりとも退けぃ!!」
爺様が叫ぶのと本能的に二手に分かれて飛び退いたのはほぼ同時だった。
次の瞬間二人の間を割るように一本の矢が飛び込む。
直後に猪の短い悲鳴。
体制を直す最中に、更に続けて間を置かず二本目と三本目が飛んでいくのが見える。
今度は一際大きな悲鳴が上がって、手負いの一体が崩れ落ちるのが視界の端で見えた。
だがまだ終わりではない。
残りの二体も仲間がやられた腹いせなのか牙を向けて突撃してくる。
だが不幸中の幸いか、最初の突進程の勢いがない。手負いの一匹があっさりやられたのを見て躊躇したようだ。
「このぉ!!」
その機会を逃さず、身を躱して真横を捉えると。横っ腹に槍を叩き込んだ。
思ったよりも固い、ほんの少しの感触と抵抗があって化け猪の腹に槍の穂先が突きこまれる。
命を奪う事への躊躇いが一瞬頭をよぎったが、やらなければ此方がやられるであろう相手だ。
今度こそその躊躇いを振り払って武器を突き入れ、引き抜く。
大きな悲鳴を上げた化け猪はそれでも牙を振りかざして暴れまわるが、頭を持ち上げた瞬間無防備になった首に再び槍を突き込んだ。
それでも猪はまだ息絶えない。
返り血を浴びながら再度槍を引き抜き、再び振りかざされる牙から逃れるように回り込みもう一度槍を突き込む。
ここでようやく致命傷になったのか、化け猪は動かなくなった。
眼前の脅威が去ったことで、先ほどの感覚が蘇ってくる。
獣の息遣いと槍の重さ、生暖かい血の感触と匂い。
躊躇えば命がなかった相手だからこそ一線を越えることが出来たが、この感覚はしばらく忘れられそうにない。
しかしこの世界で生きていれば、猪どころか人の命を奪う事だって十分有り得る。
命を奪うという一戦は越えた。人命を奪う一線を越えなければならない時も近いはずだ。
それを思うと心臓にヒヤリと氷を当てられたような感覚がしたが、この体に成り代わった以上ちゃんと生き抜く責任がある。
何よりまだ終わっていないと無理やり思考を振り払って、勇魚を探す。
勇魚も同じように最後の一匹を仕留めたようだ。
彼は少し離れた場所で手の甲で汗を拭っていた。
「ふたりともようやった」
爺様が警戒は解かずに歩いてくる。
先ほどの手負いの猪は両目を矢でつぶされており、身体には眉間から尻に至るまで貫通する矢創が出来ていた。
狙いの正確さもさることながら、分厚い頭蓋骨に突き刺さるどころか身体ごと貫通してしいるのはとんでもないという他ない。
「こいつら半魔獣化しておる。まあそのおかげか真っすぐ突進してくるだけの阿呆になっておったのは幸いじゃな」
そういえば猪は存外器用に方向転換できると聞いたことがある。
真っすぐにしか走れないイメージがあったが、今回は正しくそのイメージ通りに動いてくれて助かっていた。
そうでなければもっと苦戦していただろう。
「魔獣化……ってことは近くに穴が?」
「おそらくな。猪の食い物の傾向が変わっておるのも、やたら巨大化しておるのも恐らくそれが原因じゃ。」
「人間やほかの動物を積極的に襲っていたのはそのせいってことか……」
確かによく見てみれば牙の形は禍々しく鋭い。
この大きさも、食性の変化や凶暴性も魔獣化の影響であれば納得できる。
「すでに教えている通り、魔物とは基本的に自然エネルギーの化身じゃ。
特にこの世界の信仰の対象になっている強大な魔物…
「祭魔やそれらに近い眷属ほど高い知恵と力をもっていて、人と関わり子を成すものもいる…だったな」
爺様の復習講義に勇魚が続く。
「その通り。彼らは自然エネルギー…一般的にはマナと言われるそれらと人々の信仰心によって生まれ、その力を増す。
そしてその力をもって世界を循環させ、安定をもたらすのじゃ。
しかし時にこの世界を循環している自然エネルギーが、突如異常をきたすことがある。」
「その原因となるのが次元穴……」
次元穴はこの世界で時折出現する空間の穴だ。
穴と呼ばれるだけであり、空間がそのまま割れたように穴が出現してそこにあったものを消してしまう。
穴を魔力による攻撃で塞げば元に戻るものの、放っておけば周囲の自然エネルギーのバランスを崩してしまう。
次元の穴が空間そのものを消してしまうことで、そこにあった自然エネルギーも失われてしまうためだ。
「その通り。自然エネルギーは地水火風の配分によって様々な環境を形成するが、それが短期間で変わってしまえば突然の環境変化や災害に繋がってしまう。
現に十六年前の大天災の原因も、中央国家アノンの国境に空いた大穴が原因と言われておるのだ。」
「あの大穴もやっぱり次元穴なのか。なんで塞がないんだ?」
勇魚の疑問も至極当然だろう。
原因が推測できるならば塞げばいい。それをしないという事は何かあるのか。
「穴が大きすぎるのです。
大陸中の人間の魔力を集めても足らんと言われております。
それに自然に収まるのを待つべきという勢力や、穴から出てくる副産物……異世界の技術や人間を狙うものもおるのです」
次元穴の副産物……それは穴に繋がっているという異世界から流れ着く人や物だ。
時間や空間を問わず、そして恐らくは次元も問わない。
明らかに古い土器が流れ着くこともあれば、未知の機会が流れ着くこともある。
物だけではなく、人も。
ひょっとしたら自分はこの大穴からやってきたのかもしれないとも思っていた。
あの時の自分には肉体なんてなかった。
それが魂だけの状態だったというのなら、あの穴は魂も飲み込むという事になる。
「それだけではなく、この世界ではあらゆる生き物が自然エネルギーの影響を受けるために付近の動物を魔物化させてしまう。
故に穴は塞げるならば塞ぐ必要があるのです」
「まあ、それは知ってるんだけどよ。
魔力が足りないなら祭魔に頼めばいいんじゃ?人には友好的なんだろう?」
「祭魔は自然に与える影響が大きすぎて、普段は隠遁しておるのです。
下手に動けば逆に大陸中の環境が様変わりするでしょうな……」
「力が大きすぎるのも大変なんだな……」
「そうですな。今回は幸い猪で済んでいますが、それが増えれば厄介な事になりまする。ただ魔物化しただけなら人の信仰を受けていない故に知性もさほどなくそこまで危険なわけではないですが、魔獣化は人の恨みつらみに影響されて知恵を付けますからな。
今回襲って来た三匹は頭こそ普通の猪以下でしたが、やはり狂暴性ゆえに周囲の生態系を破壊しておりました。あのまま放置していれば被害は拡大し、中蘇芳も危なかったでしょう」
「とりあえずは早いうちに見つけられたのが幸いってやつか……。桃大丈夫か?さっきから無言だけど……」
「どこか傷でも負うたか?無理はせん方がよいぞ」
「いや、大丈夫だ。ちょっと考え事してただけだよ」
「なんじゃい心配かけさせおって。まだここは敵地じゃ。集中せい」
「了解。」
大陸に空いたという大穴。
それが原因で起きたという大天災と、それから逃れてきたという母。
時間と空間を超えて流れ着いてくるというものたち。
(……大穴にいけば、なにかあの時の事について分かったりしないかな……)
あのとき自分はどうやってこの世界にやってきたのか。
かつていた自分の世界はどうなったのか。
そして俺の身体…桃の本当のルーツやその魂の行方も、推察できるかもしれない。
(いいや。爺様の言う通りいまは集中しないと)
考えをいったん振り払って、三匹の死体の前に居直る。
爺様や勇魚も俺が考え事をやめたのを見て、話を再開した。
「この三匹は殺せたが、まだ油断はせず、決して離れるな。こいつらは体の模様からして子供。本命がいるはずじゃ」
三匹の死体を検めながら、爺様が警告する。
「そういえば、この三匹は途中で見かけた縄張りの痕跡よりも小さいな……」
その警告にここに来る途中の光景を思い出して身震いする。
途中見かけたマーキング跡は、勇魚の身長を超えていた。
先ほどの三匹もよく見れば体に特徴的な縞模様がある。
俗にいうウリ坊というやつなのだ。あれでも。
「でもあれだよな。こいつらが子供なら近くに親玉がいるよなきっと。その辺から見てたりしてな」
勇魚が冗談めかして言う。
「いやいやまさか。わざわざ自分の子供がやられるの観察してたりはしないでしょ。」
カラカラと笑いながら俺はその言葉を否定した。
そんなことは無い。はずだという若干の希望も入っていた。
しかしそんな気持ちもむなしく、近くの藪がガサガサと揺れる。
その音に俺と勇魚はビクリと肩を跳ねさせた。
「まったく。油断するなというとるのに」
ただ一人冷静な爺様はさすがの年季といったところか。
何時でも矢を放てるように弓を構え、藪に向けて俺と勇魚の前に出る。
藪は熊でも隠れられそうな大きさだ。
しかし藪の中から何かが出てくる様子はない。
藪の不審な動きは止まっていたが、油断せずに観察を続ける。
「……これはいかん……」
「「へ?」」
「回り込まれてしもうた」
「「は?」」
同時に振り返る。
今までどこで何をしていたのだろうか。
そこには大きな影があった。
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