女始末人絵夢4(2)家出旅

 ごそりと大きな黒い塊が動いた。

 熊である。

 でかい。

 日本での唯一の猛獣は北海道に棲息する罷という事になっているが、本州に棲息するこの月の輪熊も猛獣以外の何ものでもない。その中でも特にこいつはでかい。

 体長は二メートル、体重も三百キロは優に越えているだろう。月の輪熊の平均体重が七十キロだから破格の大きさと言える。

 今までの目撃情報の中では最大だろう。

 奥多摩山系の河原の中にぽつんといる姿は遠目にはそれほどの大きさとは見えない。しかし近づけば大概の人間が腰を抜かす大きさである。なによりその体に秘めた膂力の大きさが隠しようもなく溢れ出ている。

 本来は人が敵う存在ではないのだ。


 その大熊は今、河原の中に横たわる大きな平石の上の白い塊をかいでいた。熊にとっては見なれない生き物である。


 ふんふん・・。遠慮なく首を伸ばして臭いを嗅ぐ。大熊はこの山の王者なのだ。誰に遠慮をすることもない。


 今の時期は山には食料が豊富である。木ノ実もあれば、蜜蜂の巣も手に入る。

 関東では川を鮭が遡上してくるということは無いが、それでも魚のいくばくかは取ることができる。

 だから熊にはこの白い塊を食べるつもりは無かった。単に珍しく、単に暇を持て余していて、単に好奇心が強かっただけだ。


 ふんふん・・。


 熊はまだ白い塊を嗅いでいる。それほど珍しかったのである。

 相手が動かないと見て、今や鼻先を押しつけて舐めるようにして嗅いでいる。


 ふんふんふん・・。


 まだ、嗅いでいる。それが爆弾だとは知らずに。


 ふんふんふんふん・・。


 まだ、しつこく嗅いでいる・・。


 ふんふんふんふんふん・・。


 何が何でも地雷は踏まずにはいられない性格というものがある。

 この大熊がまさにそれだった。

 もの凄い音がした。

 いきなり熊の顔面が凄い力で殴られ、その巨体が数メートル飛ばされた。河原のゴロタ石の中を地響きを立てて転がる熊の上に罵声が浴びせられた。人語である。

「やかましい! 猫が落ち込んでいるときに、うっとうしいことをするな!」

 岩の上に後足ですっくと立ち上がっているのは猫又のMであった。


 M!?

 そう、Mである。

 なにゆえ、Mがこんな所に?

 お答えしよう。実はMは家出したのである。



 ・・それは三日前の事である。

 にゃいにゃお、とナオ。

 ふみいにゃお、とM。

「あああああ、うるさい! わかったわよ!」と切れた絵夢。

 その前には半分だけ完成したジグゾーパズルがある。

「今、御飯あげるからね」

 しぶしぶと絵夢は立ち上がった。

 あと少しで完成なのにと、ぶちぶちと文句を言う。実際にはまだ半分しかできあがっていない。

 がさがさと猫缶の入れてあるビニール袋を絵夢は探った。

 出てきた缶詰は二個だけ・・。

 いっけな~い。最近買物に行ってないから。ナオが来てから二倍いるのよね~猫缶。

 絵夢はMとナオをちらりと見た。二匹とも足下にまとわりついている。

 そうしていると凶悪な猫又には見えない。百虎王と涅瞋鬼。いずれも通り名を持つ上位の、それも凶悪で名を馳せていた猫又なのだ。

 二匹で揃ってにゃあにゃあと頭を絵夢の足に擦り付ける。

 絵夢は手元の缶詰に目を落した。一つはMとナオがとても好きな缶詰である。

 この缶詰は少々値段が高いのが欠点だ。

 もう一つは・・。

 いっけな~い。どうしてあたしこの缶詰買って来ちゃったのかしら?

 絵夢は自問した。

 こちらの缶詰はとてもまずいのである。Mもナオも一度匂いをかいだだけで、二度と口を付けなかったという曰くつきだ。

 安くて宣伝も良くされている、あるメーカーの缶詰なのだが、缶詰を開けてみるとゼラチン質が殆どで、質の悪い魚を使っているのがバレバレだ。

 どんなにお腹が空いていてもMとナオが食べないところを見ると、猫の肉でも混ぜてあるのかしらと絵夢は疑っている。

 買わないように注意していたのに、どういう因果かこれが残っている。

 ここで問題は一つ。Mとナオのどちらに割り当てるか・・だ。

 絵夢はテーブルの上に缶詰を置くと唱えた。

「ど・れ・に・し・よ・う・か・な・て・ん・の・か・み・さ・ま・の・い・う・と・お・り」


 ・・ナオは喜んで食べた。

 ・・そして、Mは家出したのである。



 まったくもう、あんなことで拗ねることないじゃない。Mったら。

 ナオにスリスリされながら絵夢は思った。

 Mは出て行ったきり、もう、何日も帰って来ていない。

「ナオ。あなた、Mの居場所知らない?」

 なお~。ナオは答えた。

 その鳴き声の意味は知っているけど知らないだ。嘘は言っていない。ただ言葉が通じないだけだ。だからナオのなけなしの良心は痛まない。

「知らないわよねえ。どうしてるのかなあ、M」

 絵夢は勝手に一人合点をした。



 そのときMは河原で蛙を捕まえていた。

 鋭い爪の一裂きで蛙の腹を開くと食べ始めた。

 少し茶色が混じる長くて白い毛が大嫌いな水に濡れてしょぼくれている。

 隣ではかろうじてMに食われずに済んだ大熊が魚を取っている。ご機嫌取りのために取った魚をMのところに持っていくがMは口をつけない。

 Mは猫又なので、何も食べる必要はない。というよりは普通の猫とは食べ物が異なる。特にこの二匹は妖魔の肉を好む。戦闘種なのである。

 絵夢の前では普通の猫と同じくネコカンやカリカリを食べているが、あくまでもそれは嗜好品に過ぎない。

 Mの頭の中に絵夢に撫でられる自分がちらりと浮かんだ。

 最悪最強で最恐にして最凶の猫又である自分がなぜ今回に限りこの人間の女性に惹かれるのか、その理由は不明だった。

 いつもなら気まぐれに宿主を殺して次へ行っている。当の昔にそうなっていないとおかしい。

 だが今は違う。何かが違う。

 Mはひたすら考えていた。

 空から落ちて来た雨の最初の一滴がMの頭に当たるとじゅっと音を立てて蒸発した。

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