女始末人絵夢4(1)素敵な依頼

 男は、その倉庫の中へそっと足を踏み入れた。

 決して油断はしていない。

 暗闇の中に敵の気配は濃厚でしかも殺意があった。

 区役所鬼門課からの依頼では、かなりの大物だと云う話だった。そもそもが今までの犠牲者の数が尋常ではない。本来は古都家の連中が出張って来るところだが、今あちらは厄介なことになっているという噂だった。

 それには蛇案件というコード名が使われていた。部外者に分かるのはただそれだけだ。

 だが刈り屋最強と歌われる古都家が総出しているということは並みの妖魔ではあるまいと知れた。

 お陰で誰も担当できなくなったこの仕事が転がり込んだ。でなければこれだけ見入りの良い仕事が自分のような刈り屋の末席に回って来るわけがない。

 これが幸運だったのか不運だったのかはこれから分かるだろう。


 男は倉庫で待ち構える暗闇の中に歩を進める。

 相手はどんなヤツだろう。

 食い散らかされた人間の死体が見つかったこと以外は情報がない。だがかなりの大食漢とは知れていた。それ以外は姿も能力も謎だ。そのことからも一筋縄ではいかない相手とわかった。

 肉体の力が優れているだけの妖魔ならば互角にやりあえる自信はあった。

 厄介なのは術を使うタイプの妖魔だ。特に生れながらの術を持つヤツが一番きつい。そういった妖魔は術の使い方が極みに達していることが多い。

 もちろん男もそれなりの準備はしてきた。

 懐に入れてある妖符を使えばただの人間でも術を使うことができる。だがそれらは異常なまでに高い。だからそう簡単には使えない。あくまでもこれは命が危機にさらされたときの保険に過ぎない。

 頼れるのは己で鍛え上げた技のみ。


 入口の扉が遠くなる。倉庫の中は暗闇が色濃くわだかまっている。

 窓は全部塞がれているがそれだけではここまで暗くはならない。恐らくは倉庫全体に何らかの術がかかっている。

 ヤバイな。そう思った。

 そんなことができるのは罠を仕掛けることを得意とする術師タイプの相手ということを示している。

 幸いにして相手を駆除出来なくても、情報だけでも持って帰れば多少は報酬が出る契約になっている。

 だから最悪の場合は尻に帆掛けて逃げてしまえばよい。できるならば、と注釈がつくが。

 呼吸を整え、いきなり振り向いて走り出す。その瞬間、扉が大きな音を立てて閉じられた。

 罠の口が閉まった。

 確実に。

 いきなり落ちて来た真の暗闇の中で、耳だけを頼りに周囲を探る。

 気配の察知は体術の訓練のときにそれなりに身につけている。今はそれに頼るしかない。

 ぞわりと周囲のあらゆる所から殺気が湧く。


 どこから来る?

 いつ来る?

 何の武器で来る?

 死が身近に迫る恐怖の中で、男の頭の中で生き延びるためのすべての努力が行われる。


 かさ、と足下で生じた小さな音に男の手の中から細いワイヤーが飛び出した!

 何本かの鋼線を寄り合わせたこのワイヤーは、手元のひと振りだけですべてを切り裂く強靭な鞭となる。

 鞭でもあるが槍にもなる。これが男の自慢の武器だった。

 カツンと乾いた音を立てて、ワイヤーの尖った先端が完全に暗闇に支配された倉庫の壁に当る。

 外れた。

 次の一挙動でワイヤーを手の中に巻き戻す。

 手練の技の一撃があっさりと避けられたのはショックだった。焦りが背筋を冷たくする。

 クスクスとどこかで誰かが笑う声がした。

「美味しいなあ。また、餌の方からやって来た」その何かが言った。


 ばっと飛び退いた男の背中が何か柔らかい物に当る。

 ぬるりとした冷たい物だ。

 手探りで後ろを探った男の指がそれをなぞる。滑らかな突起の組み合わせ。窪みが二つ、その上に盛り上がり、さらにその上に湿った穴。穴の中には硬い小さなものが並んでいる。

 指が伝えた情報を頭の中で組み上げる。

 正体が分かりぞっとした。

 人間の顔だ。しかも逆さの。

 天井から逆さづりにされた、全身をズタボロに食い破られた人間の死体と判った。

 それが始末人の秀と呼ばれていた男だとまではさすがに分からなかった。

 こんなものが倉庫の中に最初からぶら下がっていて、どうして気づかなかったのか。

 刈り屋の男は歯噛みした。その答えは一つ。

 幻術だ。妖魔が使う様々な術の中でとびきり厄介な術。

 この相手は自分の手に余る。頭の中で生き残るための戦略を『戦う』から『逃げる』に切り替えた。


 そのとき、暗闇の中に小さな赤い灯が2つ灯った。

 床の上すれすれに浮かぶ小さな小さな灯。

「生きながらの踊り食いも乙なもんだろうなあ」その灯が言った。

 それに答えて、男の周りの暗闇に無数の光点がともった。

 小さな、そして邪悪な笑い声が倉庫中に木霊する。


 もう金のことを考えているような余裕は無かった。

 刈り屋の男は隠形符を取り出すと、己の額に貼り付けた。

 マダラ印の隠形符。これ一枚で年収の半分が飛ぶ。だが効き目は折り紙つきだ。

 これで他の誰にも自分は見えない。例え妖魔でさえも。

 同じ場所に留まっていれば意味がないので、そっと位置を変える。

 声を出してはいけない。

 大きな動きをしてはならない。

 相手の目を覗き込んではいけない。

 隠形符にはいくつもの制限があるが、その効果は確かだ。


 遠くに見える扉の隙間からわずかに漏れる光を頼りにそろそろと前に進む。

 相手がどんな妖魔かは知らないが、それにぶつかったりしませんようにと祈る。ぶつかればさすがの隠形符でもバレてしまう。

 ようやく扉の前に辿り着いた。

 この扉を開けて、生者の世界に戻るのだ。

 扉を開けて、飛び出して、後は息が続く限り走り続ける。

 それ、いち、にいのさん!

 扉のハンドルに伸ばした手がその表面を滑った。

 あるはずのハンドルの抵抗がない。

 それと同時に扉の輪郭を示していた細い光の筋が消えた。

 それからいきなり倉庫の中を光が満たした。煌々とした電灯の光の中にたちまちにして幻術が解ける。

 目の前にあるのはただの壁。扉は反対側だ。扉から漏れる光そのものが幻術だったと初めて理解した。

 派手な動きをしたために隠形の術が破れる。その証拠に額から隠形符が剥がれて落ちる。

 そして己を取り巻く牙を剥きだした無数の小さな妖魔に囲まれて、刈り屋の男は絶叫した。

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