女始末人絵夢2(4)猫又の時代

 小さな家の台所の中で、今は安達四郎と名乗っている老人は熱い緑茶を入れた茶碗を口に運んでいた。

 目の前のテーブルの上には黒猫が一匹座っている。

 ずず・・と音がする。

 ことんと音をさせて茶碗を置くと、老人はじろりと黒猫を睨んだ。

「涅瞋鬼。てんじんきよ」とその名を呼ぶ。「仕事に行かんか」

「その必要はない」と黒猫が答える。

「向こうから近づいて来る」

「ほう?」

「ターゲットの女と、それと猫又が一匹」

「ほほう?」老人の眉が上がった。

「その女も猫又遣いか?」

「そうかも知れない。そうでないかも知れない」

 答えながら黒猫は大きくアクビをした。その拍子に真っ白で長い犬歯が剥き出しになる。

「どんな猫だ?」と老人。

「白猫だ。ペルシャ猫だな」

 むうと老人の口から思わず声が漏れた。

 気性が荒い洋猫を使って蟲猫を作るのは大変に危険だ。下手をすれば作り手が襲われかねない。

 最近の若い術者は無茶をするとは思った。

「よし、まずはその猫又を始末せねばな。涅瞋鬼すぐに行け」

 黒猫は老人の言葉を無視した。今の言葉が聞こえない振りをして、自分の毛繕いをしている。

「やる気がないのか」老人が責める。

「当たり前だろ」黒猫は吐き捨てた。「これは俺の仕事じゃない。てめえの仕事だ」

「育ててやった恩があるだろ。儂のために働け」

 それを聞いて黒猫の毛が逆立った。

「母と兄弟を殺しておいてよくもそんなことを」

 からからと老人が笑う。

「そいつらを殺したのはお前だ。儂じゃない」

 黒猫は何も言わずに牙を剥きだす。

「おっと、そうはいくか」

 老人が両手で印を結ぶと、黒猫の体が何かに押さえつけられた。テーブルに耐えきれないほどの重量がかかりミシミシと音がする。

「さあ、その猫又を殺してこい。涅瞋鬼。お前ならばどんな猫又にもひけは取らん。その血肉を食らい我がものとせよ」

 老人が印を解くと術も解ける。

「くそっ」一言だけ吐き捨てると黒猫は素早く姿を消した。

 部屋には老人ただ一人となる。

「まったく。涅瞋鬼のやつめ。扱いにくくてかなわん」

 ぶつぶつと不満を漏らす。

「だがまあ。あ奴はこの儂が創り上げた傑作。もっと育てばあらゆる猫又の頂点に立つ逸物となろう。捨てるには惜しいからのう」

 そしていつの日か。老人は思った。猫又界の頂点に位置する三匹の猫又を倒してその座を奪いとるのだ。



 自分が地下カジノでの大騒ぎの起因になっているとはちっとも気づかずに、絵夢は手にした缶詰入りのビニール袋を揺らしながら勢い良く道を歩いている。

 その中の猫カンがすべて爆弾にすり代わっているとは気づいていない。

 その足の辺りをMが手を引っ掛けようとしながら、じゃれついている。

 勿論、ただの人間である絵夢にはMが見えていない。


 ぴた。Mの足が止まった。空気の中にかぎ慣れない。いや。かぎ慣れた匂いを感じたからだ。

 ・・猫又の匂いだ。それも自分のではない。

 一瞬躊躇した。これを追うべきか、それとも絵夢について行くべきか。

 知り合いの猫又のマダラかスイラかとも思った。だがそいつは明確な殺意を放っている。その目標は明らかに自分だ。

 Mは気を引き締めた。自分と同種の妖怪に会うのは久しぶりだ。Mは絵夢の肩の辺りにぴょんと飛び乗ると自分の尻尾の毛を一本、絵夢の首筋の髪の毛に器用に結び付けた。

 これで後から絵夢を追うことができる。

 今はこの迫って来る殺意の塊を絵夢から引き離すのが先だ。

 Mはその場を離れ、決戦の場となる場所を探した。


 んん?

 今、肩の辺りに何か?

 絵夢がいぶかしげに振り向く。変よね。あたしったら何を過敏になっているのかしら?

 そこでようやく今回の外出の目的を思い出した。

 今度の相手って殺し屋なのよね。

 一度イケイケ・モードが切れてしまうと絵夢はただの女性だ。

 そうよ話せば判るって言うじゃない。今度も何とかなるって。能天気にも絵夢はそう考えた。

 自分が始末人と名乗る殺し屋になったことにはいまだ実感が湧かない。自分に人が殺せるわけがないのだ。

 その歩く影の中に死の前触れを詰め込みながら、絵夢は目的地へと向かった。


 走り続けるMは程無く建設中のビル現場へとたどり着いた。

 ここなら良さそうだと見て、その屋上へと壁を駆け上がる。まだ建設中なのでところどころ鉄骨が剥き出しになっている。

 人がたくさんいる住宅街のど真ん中で戦うのも良いが、なにぶんMは仮処分中の身だ。刈り屋の古都総十郎がうろうろしている状況で自ら大量虐殺を始める気はない。

 待つほどもなく、黒猫が一匹、屋上へと上がって来た。

 黒い短毛の猫だ。真っ白な長毛のMとは何もかも正反対だ。

 黒猫は口を開いた。

「俺は涅瞋鬼。いつかは猫又の王になるものだ」

 Mは答えない。その代わりに前足を上げると、舐め始める。

「名前もないのか」黒猫があざ笑う。

 Mの動きが止まった。

「人から貰った名がそれほど嬉しいのか?」

「なにい!」黒猫の口から牙が覗いた。

「お前、蟲猫だろう」Mが指摘する。

 蟲猫とは蟲毒の術で人為的に作られた猫又のことである。

 その言葉に微かな嘲りを感じて黒猫の体にかあっと火がついた。

「その口、後悔させてやるぞ」

 少しづつ黒猫の体が膨らみ始めた。同時に重量も増し、足下の鉄骨がぎしりと音を立てる。

 物理法則を端から無視した妖力による体格の変異。同じ猫又でも上位に属するものだけができる技だ。

 それを眼前に観ながらMはにやりと笑った。その笑みと共に口が耳まで裂ける。

「それぐらいは俺にもできるぞ」

 Mの体も膨らみ始めた。たちまちにして大黒猫と同じ大きさになった。

 熊のように大きな化け物妖魔が二匹睨みあう。

 先に動いたのは大黒猫だ。手近にあった鉄骨の柱を毟り取り、Mに投げつける。ニ百キロはある鉄骨がMを目掛けて宙を飛ぶ。

 弾かれた。

 Mが前足を一振りしたと見るや、飛んで来た鉄骨が元来た道を逆に飛ぶ。

 大黒猫はそれをまた打ち返し、Mがそれをまた打ち返す。

 信じられない光景であった。二匹が鉄の塊でピンポンをしている。

 あらゆる物理常識がひっくり返された。

「くそっ!」

 ラチが開かぬとばかりに大黒猫が捻じ曲がった鉄骨を横に弾き落す。

 それは落下し、隣の家の屋根を大音響とともに突き破る。中から小さな悲鳴が上がった。

「食ってやる」

 大黒猫が宣言した。その口からごうっと赤い怨念の炎が噴き出すとMを包んだ。

 周囲の鉄骨が炎の中で熔けて曲がる。

 その大炎が消えるとMは依然としてそこに居た。白くて長い毛の一本も焦げてはいない。

「食えるかな?」

 平然としたMが答える。その青い左目がきらりと光る。

 大黒猫が跳躍し、Mが迎え打つ。この力の激突にビルは大きく揺れた。



 こんこん。一軒の家のドアを絵夢はノックした。チャイムは押してみたが壊れているのか鳴らなかった。

「安達さ~ん。いませんか~。安達さ~ん」

 とたとたと足音が近付いて、ドアが開いた。中から出てきたのは、にこにこ顔のおじいさんだ。

「おやおや、どなたかな」その目の奥がきらりと光る。

 絵夢は気付いていないが、とても危険な目付きだ。

「あの~。こちらが安達さんのお宅でしょうか?」絵夢がおずおずと聞く。

「そうじゃが、何の用かな?」

「安達四郎さんは御在宅でしょうか?」絵夢は上目遣いに聞く。

「四郎なら、息子じゃが。おお、そうか、息子の友達じゃの」

 老人の顔が笑顔に歪む。

「まあ、上がってお行き。四郎もじきに戻るじゃろうて」

「ええ、あの、その~」

「わしも話相手がいなくて退屈しておったとこじゃよ。上がってお行き」

 そのまま、強引に絵夢を家の中に引き込む。

 背中を向けていたのでその皺だらけの顔に浮かぶ嫌な笑みは絵夢には見えない。



 猫パンチ!

 熊サイズのナオの一撃がMを襲う。爪を伸ばした前足をフックぎみにして、相手にたたき込むパンチだ。まともに受けたMの後ろ足がふわりと浮いて、そのまま背後の鉄骨に突っ込んだ。

 強烈な衝撃で鉄骨が曲がる。

 猫キック!

 黒猫が全体重をかけて、上から弧を描くようにしてMを踏みつけた。コンクリの板が派手に割れ、鉄梁がぐにゃりと曲がる。

「どうだ。人間なんかに骨抜きにされた猫又では、俺にはかなうまい」

 黒猫が自慢する。



 かちゃかちゃ。

「あの~。おじいさん。どうして玄関に鍵を掛けるのですか?」

 絵夢が小首を傾げて聞いた。そうしているとなかなか可愛い。そのぶりっこぶりが意図的なものなのか地なのかは分からない。

「それはの、近頃は物騒じゃからのう。用心じゃよ。用心」

 老人が口をすぼめると口笛を吹いた。ふいいいいい。

「あの~。おじいさん。どうして口笛を吹くのですか?」

 絵夢が不思議そうに聞く。

「それはの、飼っておる猫を呼んでおるのじゃよ。お前さんも一匹飼っておろう。儂と同じような猫をの」

「おじいさんも猫を飼っているんですか? あれえ? おかしいなあ?」

 しばらく絵夢は考えてみた。おじいさんのセリフは何かがおかしい。

 少し考えて判った。

「どうして、私が猫を飼っていること知っているんですか?」

 そんな絵夢の問を無視して、老人はつぶやいた。

「ふむ。帰って来ん。あやつ、どこかで遊んでおるのじゃな。しょうがない」

 老人は何かをごそごそと探している。

「あの~。おじいさん。何を探しているんんですか~」

「おお、あった。あった」

 絵夢が覗き込んだ。その目に、老人の手に握られた拳銃の銃口が見えた。

「どうして・・」

「それはな」

 ニヤリと歯の無い口で笑って老人が答えた。

「わしがお探しの安達四郎じゃからじゃよ。始末人の絵夢よ」



 ふいいいいいい。

 その口笛の音は大黒猫にも聞こえた。召喚の合図だ。

 ちっ。猫遣いが荒いぜ。あのじじい。大黒猫はつぶやくと足下のMを見た。

 もう少し遊びたかったが、しょうがない。とどめを刺して帰るとするか・・

 ぐいとMを踏み付けていた大黒猫の足が持ち上がり、一瞬重力が消えた。

 次の瞬間、折れ曲がった鉄骨に大黒猫の体が叩きつけられる。

 その足を掴んでいるのは先ほどまで倒れていたMだ。

「おいおい、勝ち逃げは無かろう」

 真っ白な長い毛がその体の周りで妖気に溢れて揺れている。

 その体には傷一つついていない。

「絵夢がちょっと厄介なんでな。お前とはこれで終わりだ」

 ぐん、と大黒猫の体が動いた。一トン近くあるその体がまるで棒切れでもあるかのように振り回される。

 鉄骨に叩きつけられた。

 叩きつけられた。

 叩きつけられた。

 大黒猫の血か飛び散り、骨が砕ける。

 Mは容赦が無かった。存分に猫の残虐性を発揮する。

 大黒猫の頭蓋骨が割れ、内臓が千切れ、関節が逆に曲がる。

 それでもMの前足は大黒猫の後ろ足を掴んで離さない。鋼鉄よりも硬い爪が大黒猫の足の骨にがっちりと食いこんでいる。

 逃げようにも逃げられない。

 反撃しようにも両腕は折られている。

 朦朧とする意識の中で大黒猫は思った。


 何だこれは。

 何だこいつは。

 何だこのバケモノは。


 自分も化け物のはずなのに、それでも到底追いつかない。

 どうしてこんなバケモノが人間なんかと一緒に暮らしている?

 次々と奮われる衝撃により大黒猫の意識がだんだんと薄れていった。



「さあ、お嬢さん。服を脱いで貰おうかね」

 敵の始末人のボス。今の名前で安達四郎は言った。

「えええええ。おじいさんのエッチ~」

 絵夢が大声で叫んだ。近所に聞こえればとの計算が篭っている。

「え~ん。おまわりさ~ん。このおじいさん、痴漢です~」

 バン!

 拳銃が火を吹き、絵夢の顔を銃弾の衝撃波が叩く。

 軽いミミズ腫れが絵夢の頬に付いた。

「おっと、すまん。指が痙攣したわい。いかんのう。歳を取ると」老人が笑った。

 笑いながらも目は絵夢をじっと見据えている。

「わめいても無駄じゃよ。この家の防音は完璧じゃ。わしもこの歳になると若い女の子には縁が無くてのう。まあ、お前さんが死ぬまでにせいぜい楽しませて貰うぞ」

 いきなり老人の顔から笑いが消えた。

「まったく、大事な部下を何人も殺しおって。小娘かと思ったらとんでもない奴だ。簡単には死なせんぞ」

 再び銃口を絵夢に向けて言った。

「さあ、脱ぐんだ」


 拳銃に脅され、しぶしぶ、服を脱ぐためにうなじに回した絵夢の手がかんざしに触れた。そしてそれと一緒に何かぬるりとした物に触れた。

 何? これは? この感触は・・・・なめくじ!

「厭あああああああああ。な~め~く~じ~」

 目の前の銃口も忘れて絵夢はパニックになった。

「取ってえええ~」

 かんざしを持ったまま、絵夢はどどどどどと手を突き出した。パニックになったときだけに出せる速度だ。

 驚いて銃口を突き出した老人の目の前で、拳銃の秘孔にかんざしがぐさりと刺さる。


 ひでぶ! 奇妙な音とともに拳銃がバラバラに分解する。

 あべし! 壁の絵が秘孔を突かれて枠ごとはずれる。

 ぐわば! 壁がジグゾーパズルのように奇麗な断片に分解した。

 あたたたたたたた・・。

 ドアが分解した、柱が砕けた、床が落ちた。天井に亀裂が走る。

 密かにシロアリが掘り進んでいた柱にカンザシが刺さった衝撃がトドメを刺す。

 過剰な防音壁の重さが自重崩壊に拍車をかけた。


 いやあああ。

 悲鳴を上げながら外へ走り出た絵夢を追おうとした老人の頭の上に、断末魔の悲鳴を上げながら家がまるごと崩れ落ちた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る