女始末人絵夢1(2)群像劇

 絵夢が住んでいる町内の治安はあまり良くない。

 住民に謎の行方不明が多発しているという噂だ。警察官の巡回も増えたがまだ何も進展がない。

 Mだけはその理由を知っている。

 タバコの投げ捨てだ。路上喫煙は条例で禁じられているが、それをやる者は後を絶たない。

 たったいま絵夢の横をすり抜けた男もそうだ。口に咥えたタバコを吐き捨てる。

 だが本来はそれだけでは大したことは起きない。

 正義モードに入った絵夢がその場にいなければ。

「ポイ捨て許すまじ!」

 すれ違いざまにカンザシがぐさりと男の首筋に突き刺さった。

「正義を思い知ったか」

 そう言うと共に何かが絵夢の精神から滑り落ちる。

 その場ではっと正気に戻る。

「あ・・あの、すいません!」

 これほどのことをしては謝って済むわけがないのだが、それでも慌てて深く深く謝罪のお辞儀をしてその場から走り去る。

 今のは刺さった。それもかなり深く。絶対に相手は怒っている。治療費を請求される。転職したばかりでまだお給料は貰えていないし、今月はピンチなのよね。

 そう呟きながらその場を逃げ去った。幸いにも刺された男は追ってこない。

 人生逃げるが勝ちである。

 いけないいけない。あたしって何か変な気分になると馬鹿なことしちゃうのよね。

 絵夢は舌を出した。自分でもどうしてそうなのかは判らない。

 だが本気で自分が悪いとは思っていなかった。なにぶん相手は火のついたままのタバコをポイ捨てしたのだ。


 棒立ちになった男は一人そのまま身動きもせずに立っていた。

 カンザシの先は脊髄にまで届いている。

 即死である。

 塀の上に大きな白い毛の塊が現れた。Mである。

 にゃあ。またやったの。Mは嘆いた。

 急いで証拠を隠滅しなくては。

 Mが妖力を込めた前足を上げると死んだ男の体がゆらりと動いた。

 猫又の得意技である死体操りだ。

 死体はゆらりゆらりと歩き始める。これから電車に乗り、どこか適当な街で降り、誰も見ていない素敵なマンホールを見つけて、その汚泥の中に体を横たえる。それがMから死体に与えられた命令であった。

 最初に絵夢に拾われたときにはこんな人間だとは思わなかった。普通の生活をする地味な女性。そう見えた。

 妖魔撃滅を任務とする刈り屋どもの目を逃れるためには絶好の隠れ蓑と思えた。

 だがある時点から絵夢は変わったのだ。そう、あのカンザシを手に入れた頃から。

 Mにはその理由は分からなかったが、この状態が良いとは思っていなかった。

 Mが今求めているのは穏やかな生活を送る地味な飼い主なのだ。



 電車が目的の駅に着いた。

 最初の正義モードが無くなってしまうと、今更ながらにこの仕事が怖くなった。

 自分に殺人ができるとは思わない。なにせただの普通のOLなのだ。

 かと言って何もしないわけにはいかない。この組織がどんな組織かは知らないが、冷蔵庫の中に爆弾を入れて来る連中なのだ。逆らうわけにはいかない。

 だらしない警察がこれをどうこうできるとは絵夢は露とも思わなかった。

 自分がエムという謎の女性と間違えられていることは何となく判った。その女性が危ない仕事に従事する人間であることも。

 だがそこまでだ。

 彼女自身には何の能力もない。彼女には何もできない。

 だが一人の男、それもかなり危険な人間を殺害しろと迫られている。

 絵夢は泣きたい気分だった。


 Mは電車の屋根から飛び降りた。そのまま駅舎の屋根を走り、誰も見ていない所を見つけて三階分の高さを飛び降りる。

 羽毛のようにふわりと着地する。猫だとしてもこれは異様な光景である。

 近くの花壇に座っていた男が顔を上げた。細身で黒のコートを着込んだ若い男だ。その男は厳しい瞳でMを見つめると言った。

「やあ、百虎」

 背後から掛けられた声を聞いてMがビクリと震えた。

 そおっと振り向く。

 声でもう誰かは分かっていた。なぜその男の存在に気づかなかったのかも。

 古都総十郎。

 裏刈り屋名簿順列第一位、つまりは妖怪たち専門の暗殺者のトップの男である。

「つれないじゃないか。古い知り合いに挨拶も無しか?」

 そう言いながらも声には何の感情も乗せていない。

「総十郎。何の用だ?」

 猫が人語を話すのはすべての猫飼いの果たせぬ夢だが、実際にただの白猫の口から人の言葉が放たれるのには強烈な違和感がある。

「なにただのご機嫌伺いさ。例の手がかりはあったかな?」

「まだだ」

 そう答えながらも白猫は自分の前足を舐め始める。

 これは百虎の嘘を吐いているときの癖なのだろうか?

 総十郎は測るようにMを見ている。

「人間の女と暮らしているようだな」

「放っておいてくれ」

 Mはそっぽを向いた。

「みだりに食うなよ。お前の処刑命令延期はあくまでも仮だからな」

 総十郎が問い詰める。

 白猫は答えない。そのままトテテテテと足音を立ててその場を離れた。まるで私はただの猫でございとでも云わんばかりだ。

 一人残された総十郎はしばらく考えていたがやがて肩を竦めると立ち上がってその場を去った。



 絵夢は道を歩いていた。メモを頼りにとぼとぼと歩く。歩くたびに元気が無くなっていく。

 気が重い。これから人を殺さなくてはならないのだ。

 どうやって・・という部分は綺麗に頭から抜け落ちている。

 何か救いはないかと周囲を見回している内にまだ煙を上げているタバコの吸い殻を見つけた。そういえば自分が首を刺してしまった人は大丈夫だったのだろうか。

 自分は何かの拍子に奇妙なモードに入ってしまう。悪い癖だ。直さなくては。絵夢は三秒間だけ深い反省に入った。

 足でそのタバコを蹴って排水口に放り込む。

 放っておけば火事になるからね。これで良し。

 それから嫌々ながら目的地目掛けてまた歩き出した。


 少し遅れてようやくMが絵夢に追いついた。まさかあんな場所で総十郎に出会うとは思わなかったので今でも胸がドキドキしている。

 もちろん偶然ではない。総十郎は人探しの名人なのだ。Mがどこにいようが、必ず見つけ出し現れて、こうしてMを脅かして来る。

 蛇についての盟約さえ無ければ、地平の果てまでも逃げるものを。Mは嘆いた。

 だが今は絵夢の後をつけるのが先だ。


 Mは絵夢に姿を見られないように、少し離れてついていく。

 絵夢が火がついたままのタバコを排水口に蹴り込むのも見えた。

 それは奇跡的にそこに浮かんでいた木の端切れの上に乗り、そのまま下水の中へと落ちて行った。Mの猫又としての超感覚がその後を追う。

 くるくると回転しながら赤い火が下水の奥深くに入り込む。タバコが燃え尽きて消える寸前にそれは周囲に満ちたメタンガスに引火した。小さな爆発音とともに下水の暗闇の中を火が走る。それはどこまでも続く細いガスの道を辿り、周辺に火をまき散らしながら奥へ奥へと進んで行った。

 やがて空中を走る小さな火種は下水が集合する場所へと辿り着いた。

 大量のメタンガス溜まり。偶然が作り出した自然の気化爆弾。

 ゴンと腹に響く衝撃波を出しながら、メタンは爆発した。

 その近辺の大地が盛り上がり、隙間から爆炎と爆風が噴き上がる。


 後に新聞が報じたところによると、発生した火災は噴出点を中心に街全体を逃げる間も無く焼き尽くし、死亡総数は45人に上った。



 駄目。やっぱり無理。

 目的の闇金のビルの前まで来た絵夢は踵を返した。

 最初に目についた喫茶店へと入る。

 注文したカフェオレを啜りながらも頭の中は不安で一杯である。このままウチへ帰ろうかなとは思ったが、絶対に元締めに怒られる。もしかしたらあの爆弾が爆発するかもしれない。そう思うとこのまま帰るのは大変にまずい気がした。

 もう一度あのイケイケ・モードにならないかと頬をつねってみたが何も起きないのでがっかりした。

 それでも自分に強引に喝をいれる。

 大丈夫よ。絵夢。絶対に上手く行く。あたしがあのビルに入ったら、ターゲットが出迎えてくれて、きっと自分の首を差し出してこう言ってくれる。

『粗末な私の首ですが、どうぞお持ち帰りください』

 そうよ。頑張れ、あたし。きっと今日は上手く行く。

 絵夢は立ち上がると店を出た。


 勘定を払って店を出ていく絵夢を見送ると、喫茶店のマスターは後片付けを始めた。

 35歳、独身。脱サラをして念願の甘味喫茶店を始めるも、パフェのクリームをけちる癖があるために余り評判は良く無い。

 一度女子高生たちに見限られれば甘味をメインとする店はやっていけない。

 今日も客は少なかった。このまま何とかやっていけるのだろうか、俺は。

 マスターは不安であった。

 カフェオレのカップを回収して店のキッチンに戻ると、そこでは真っ白な長い毛に覆われた猫が冷蔵庫を開けてクリームをつまみ食いしている最中だった。

「あ・・このヤロウ。いったいどこから」

 いくら大柄とは言え猫が冷蔵庫の重い扉をどうやって開けたのだろう。猫種はホワイトペルシャだな。誰かが連れて来たのだろうか。

 そう考えたとき、白猫がニヤリと笑った。

 確かに笑ったのだ。口の端が耳まで避ける。

 今までに見たことが無いほどの恐ろしい笑みだった。

「いいじゃないか。少しぐらい」

 白猫はそう言い放つと、壁を垂直にトコトコと歩き、換気扇の中へすうっと吸い込まれて消えた。

 後には食い散らかされたクリームの容器が散乱している。

 それをじっと見つめながらマスターは考えた。

 いま俺は幻を見たのか?

 いや、違う。この散乱した容器がたしかに喋る猫がいた証拠だ。

 だとすれば・・そうか!

 この総てが夢なんだ。俺はいま夢を見ている。

 これほどはっきりした夢を見るのは初めてだった。そして夢の中でそれが夢だと気付くのも初めてだ。

 ならば俺はいまこの夢の中で好きなことをしていいんだ。

 なにせ夢なのだから。


 マスターは静かに笑い始めた。一分間笑い続けてからカウンターキッチンへ戻った。

 店のドアをバンと蹴り破り悪漢どもが飛び込んで来る。俺は落ち着いた顔でキッチンカウンターの下からショットガンを取り出し、悪漢どもを次々と・・。

 そんなことを夢見ていたら、本当にカウンターの下に銃を置くようになってしまった。

 クレー射撃には飽き飽きしていた。たまに山に鹿を撃ちに行っていたが、喫茶店を開業してからはそれもできなくなっていた。

 猟銃は鍵のかかる戸棚に保管する義務があるのだが、そうした方が正しいような気がするようになったのだ。

 今それを使う時が来た。

 ショットガンを取り出す。これも違法だが鳥打用散弾を弾倉にいつも詰めてある。

 自分がいま正気と狂気の境目を越えた自覚はあった。だがこれは夢なのだ。いまは自分こそが世界の王なのだ。何をしても良いのだ。

 店の扉を開け鼻歌を歌いながら外に出た。曲の名は『蘇る金狼』。

 目の前の人通りを眺める。

 いつもいつも俺の店の前を素通りばかりしやがって、お前ら。俺の店がそんなに嫌いか?

 マスターはショットガンを構えると撃ち始めた。

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