女始末人絵夢1(1)女始末人絵夢、颯爽と登場す
それはゴージャスなホワイトペルシャ猫だった。
真っ白な長い毛が全身にこれでもかというほどに生えていて、まるで高価なぬいぐるみのように見える。右の眼が黄色、左の眼が青色のオッドアイと呼ばれる猫だ。勿論、もの凄く高い。
もっとも実際にいくらするのかは判らない。ある日半死半生の状態で絵夢の家に迷い込んで来てそのまま居ついたものだ。そして付けられた名前がMである。
絵夢の飼い猫がM。名前は同じだが少なくともお互いに間違えられることはない。
いまMは前足を伸ばして、ぐっすりと寝ている絵夢の頬を突いている。
絵夢はOL二年生。今はパジャマに包まれて楽しい夢の世界を満喫している最中だ。
Mの柔らかい肉球がこれも絵夢の柔らかい頬に触れる。
それでも絵夢は起きない。ぐっすりと寝続けている。
にゃあ。小さく一つ鳴くとMは台所へ行きシンクへと登る。どうやってか水道の栓をひねり前足の一方を水で濡らす。
そのまま寝ている絵夢の所に戻り、濡れた前足の肉球をふたたび頬に押しつける。
そこまでされても絵夢はまだ起きない。だがそれでもMの肉球から無意識に顔を逸らした。何度かMは頬を突いたがその度に顔を背けるだけであくまでも瞼を開けない。
なんて寝起きが悪いんだ。
呆れたMは再び台所へ向かった。
もう手加減する必要はない。Mは恐ろしい笑みを浮かべた。長い牙が口からにょっきりと突き出す。ここからは自分のターンだ。
Mは冷凍庫を空けて氷を取り出すと、ボウルの中に入れて水を足す。しばらくその中に前足をつけておいて、キンキンに冷えるのを待つ。
それから澄ました顔で絵夢の下に戻った。
まだ絵夢は眠り続けている。
Mは冷たく濡れた前足の肉球を絵夢の頬に思いっきり押しつける。
冷たい手がペ・ト・リ。
「うひゃああああああああぁぁぁぁぁあ!」
絵夢が飛び起きた。
「な・・何? なに、今の!?」
にゃあ。その絵夢の顔を見ながら可愛らしくMが鳴いた。
絵夢が時計を見て慌てる。
「あ・・あ? もうこんな時間!」
目覚まし時計を掴む。
「あああ。仕掛け忘れている」
横でMがしまったという顔をする。朝方、眠りを邪魔されたくなかったのでM自身が止めたのだ。
そうとは知らない絵夢は大急ぎでMの朝ごはんを用意すると、続いて自分の朝食にかかる。
トーストした食パンに齧りついたところで、今日が祝日であることに気が付いた。
「もう、Mったら。今日は休みなのにどうして起こすのよ」
八つ当たりである。
当のMはどこ吹く風という風情で自分の体を舐めてから横になっている。人間の文句など聞くに値しない。
元々が大柄のMは腹を上にして長く寝そべると恐ろしく大きく見える。そのもふもふのお腹はとてつもなく魅力的だ。Mへの文句を忘れて、絵夢はそのお腹を撫で始めた。
絵夢の年齢は二十三歳。ショートカットが良く似合う、小柄な女性である。
この間、外資系の貿易会社への転職が決まったばかりだ。
うにゃんうにゃんと言いながらペルシャ猫が体をくねらせる。
「んー、エム好き好き」
そう言いながら絵夢が猫の腹に顔をうずめる。
どこにでもあるごく平和な光景。だが一つだけ、いや二つだけ普通と違う所がある。
スマホに電話の着信音が鳴った。猫の腹にうずめていた顔をはっと上げた絵夢の顔が険しくなった。表示されたのは見覚えのない電話番号だった。
恐る恐るという手付でスマホを取り上げ電話に出る。
「絵夢。仕事だ」スマホから声がした。
小さな悲鳴を上げて絵夢は光の速さでスマホを切った。両手で自分の耳を抑える。
「あたしは何も見なかった。あたしは何も聞かなかった」と唱える。
恐る恐るスマホを覗き込み、再び電話が掛かってくるのではないかと恐れる。
再着信は来なかったので、安堵の息を漏らす。
その背後で液晶テレビの電源が勝手に入り、画面に黒頭巾の男が映る。
「絵夢。どうして電話に出ないんだ」
絵夢は振り返ると悲鳴を上げた。
「どうした? ゴキブリでも出たか」
黒頭巾が不思議そうに尋ねる。
「まあ、それは置いておいて、まずは仕事の話だ」
「聞きたくありません。元締め」
「我がままを言うものではないぞ。絵夢よ」
「働きたくありません。元締め」
「仕事は尊いものだよ。絵夢よ」
「仕事って人殺しじゃないですか!」
絵夢は叫んだ。その勢いに驚いて膝の上から白猫が飛び降りる。
「始末人と呼びなさい」
「あたし、人なんか殺せません」
「いや、できる。君にはできる。私はそれを知っている。それにできないと君は死ぬ。我々の組織は脱退を認めない。その証拠を見せよう」
「何ですか?」
「冷蔵庫を覗いてみたまえ。ケーキの箱が入っている」
「いったい何のこと!?」
絵夢は冷蔵庫を開けた。入れた覚えのない箱が入っている。表面に近くのケーキ店のロゴが入っている。
「開けて見たまえ」
嫌な予感がした。いくらお花畑の絵夢でもその中にケーキが入っているとは思わない。
開けてみた。
内部に四角い黄色の粘土とその上に時計付の電子回路が載っている。
「何だと思う?」
どことなく笑いを含んだ声で元締めが尋ねた。
きゃあと叫んで絵夢は箱を放り投げた。箱から時限爆弾が飛び出すと、カチコチと時間を刻み始めた。
「遠隔操作だよ。君がうんと言うまで止まらない」
「いやあ」
絵夢は時限爆弾を引っ掴むとゴミ箱に投げ込んだ。
「いや、それで問題が解決するとは思わんがね」
黒頭巾姿の元締めがため息をついた。
「それに明日は燃えるゴミの日だ。ご近所さんに怒られるぞ」
「止めて! 止めて~!」
「仕事に行くな?」
含み笑いが混ざった声で、元締めがここぞとばかりに畳みかける。
「人殺しなんかできません」
「それが伝説の諜報員エムのセリフか」
「あたし、絵夢ですけどエムじゃありません。そんな人知りません」
「やっぱりエムじゃないか」
元締めは決心した。ここであの言葉を使うべき頃合いだ。誰に教えて貰ったのかは覚えていないが、この言葉が役に立つことだけは知っている。
「正義の行いだ」
元締めが決めゼリフを言った。それを聞くと絵夢の動きが止まった。
「絵夢。いいかね。これは『正義の行い』だ。我々は正義の始末人なんだ」
その言葉には魔力がある。
絵夢の背中がぴんと伸び、顔つきが変わる。絵夢の手の中にどこから現れたのか一本のカンザシが表れる。平打ちと呼ばれる一本軸のカンザシだ。十字の鍔の形で中央に宝石の飾り玉が嵌っている。見方によってはミニチュアの十字剣にも見える。
「正義正義正義」絵夢は元締めの言葉を繰り返す。
何かのスイッチがカチリと入った。
「そうだ。正義だ。今回のターゲットは実に悪辣な取り立てをやっている金貸しの親玉だ。これぞ正義の行いというもの」
「あたし、やります」
目に炎を浮かべて絵夢が叫ぶ。その瞳の奥に尋常でないものが宿っている。
怒り・・だ。
地獄に属する何かだ。
触れるものすべてを焼き尽くし、灰燼に帰す何か。
決してその瞳の奥を覗き込んではならない。それに遭うぐらいならば自ら死すことは救いである。
「そうだ。その意気だ。では朗報を待っているぞ。ターゲットの住所はケーキの箱の中に一緒に入れてある」
テレビの中の元締めの顔が消えた。いつものチャネルに戻る。テレビの中でどこかのお笑いタレントが下らぬことを言いながらへらへらと笑う。
「やれやれ、またあたしの出番か」
絵夢は一つため息をついた。それから出かける支度をすると部屋から出ていった。
この世は人間、闇ばかり。怨みを呑んで寝るばかり。そんなあなたの願いを受けて、見事に晴らして見せます、あなたの怨み。私が必殺始末人。
・・・そんなナレーションがどこからとも無く聞こえてくる。
絵夢は外出着に着替えて家を出て行った。
ぽつんと部屋に残されたのは白猫のMである。右を見て、左を見て、誰も自分を見ていないことを確認すると、Mは動いた。壁を垂直に歩くと、尻尾の先で窓の鍵に触れる。がちゃりと音がして窓の鍵が外れると、Mは家の外に飛び出した。
正直な所、Mは飼い主の絵夢の仕事を認めていない。自ら危険な所に飛びこむのは止めて欲しいと思っている。正体が露見することを恐れていなかったら、絵夢を捕まえてたっぷりと説教している所だ。
昔は十年の年齢を経た猫は尻尾の先が二つに割れて猫又という妖怪になると言われた。
現代の飼い猫の平均寿命は十五年である。それを考えると全ての猫は死ぬ寸前には猫又になっている計算である。
だが実際にはそこまで変化は進まない。大概は人間の言葉を理解するようになるぐらいが関の山である。
Mも猫又であった。
そのかっての名前は百虎王。
相当の年季を積んだ残虐無比で知られた猫又である。
Mは空中の臭いを嗅ぐと、Mの後を追って走り出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます