第七話 しずく

 暗い森を抜けるとそこには広大な湖が静かに水を湛えていた。

 湖面は真っ白な月を、夜空に浮かぶ実像と寸分違わぬ姿で映し出し、それは空と地上の境界を曖昧にしていたが、時折そよぐ夜風が水面揺らすと、偽りの月は蜃気楼の如く揺らめいた。


「なあ、大した眺めだろう? そうそう見れるものじゃない」


 湖岸に立ったフィオレンティーナはその優美な景色を背に、セレスティーヌにそう言った。


「うそつき」


 だが、姉の魂胆をとうに見透かしていた少女は、視線を外してため息をつく。


「あー、悪かったよ、謝るってば! 確かに魔物に遭遇すれば火事場の何とやらで、お前が術を使えると思って連れ出した事は認めるよ」


 ぶっきらぼうな口調で謝罪を述べるフィオレンティーナは、おもむろにセレスティーヌに歩み寄ると、くたびれたように地面に腰を下ろした。

そして、体のあちこちに擦り傷や小さな火傷を負った彼女は、痛みをごまかそうと肌をさすり、自身の傍らに突っ立ったままの妹を見遣る。


「そんな顔するなって」


 顔はそっぽを向いたままのフィオレンティーナは少々ばつが悪そうに頭をかいたが、そんな姉を一瞥したセレスティーヌは無言で湖の波打ち際へと歩みを進める。半ば不思議そうにその行動を見守っていると僅かに水音が聞こえ、その後に急ぎ足で少女が戻って来た。

そして、自身の衣服の一部をちぎり取ったと思われる布に含ませた湖水で、フィオレンティーナの火傷を冷やし始める。

 それは月光の煌めきか、あるいは――。僅かに光を帯びた雫が彼女の傷に滴ると、高位とされる術の如く、その痛みを和らげた。


「わたしは姉様みたいにはなれないよ」


 月明かりに照らされた少女の顔は、悲しみとも諦観とも取れる表情だった。

 そんな妹を見ていたフィオレンティーナは一度目を伏せ、その後に少女を抱き寄せる。


「ならなくて、構わないよ」


 きつく抱きしめられたセレスティーヌは何も答えず、一度頷いた。




「それで、結局エリーは術の試験には合格したんですか?」

「まあ一応な。その時に拾った炎の感応石を隠し持たせたんだ。後々、あいつにくれてやった指輪に設えさせたのもそれなんだが、仕立てさせる時間があの時はなくてな」


 清流のせせらぎが響く中、ミーナは呆れにも似た表情でフィーネを見遣る。


「要するに……ズルさせたって事ですよね」


 すると批難の言葉を受けた女王は眉根を寄せ、目の端で少女を睨んだ。


「目的の為にはそう言った手段に出る事も必要だ。大体からして、あいつは戦いや争いなんてするような性分じゃない、……あの頃は、な」


 反論、あるいは開き直りの言葉を終えたフィーネは視線を小川の方へ向け直すと、再び口を開いた。


「昔のセレスは、絵に描いたように大人しくて気弱なお姫様だったよ。でも、母様があたしたちの目の前で殺されて以来、あいつは強くなるための努力を、それこそ自分を殺してまでしてきた。なんせ自分からその寄宿学校に入ると言い出すくらいだからな」


 淡々とした口調とは裏腹に、眉間に深い谷を作ったフィーネは、忌々しさをぶつけるかのように、乱暴な竿さばきで浮子を振り込んだ。


「あたしはセレスに、怒りや悲しみに囚われていたなかった頃の、昔のあいつに戻って欲しかった。だから今、たとえセレスティーヌという名を捨てて、エリー・シャリエとして生きていても、自分の望むように生きているのであれば、それだけで満足だ」


 あまりにも複雑な彼女の胸中に触れたミーナではあったが、少女は気の利いた言葉など何も口に出来ず、ただ、精一杯の笑顔でフィーネの方を向く事しか出来なった。




 昔話を終えた後、しばしの沈黙が二人を包んでいた。だがそれは気まずさによる物などではなく、ひたすらに強烈な日光に照らされた事による体力の消耗からであった。


「にしても暑いな」

「そうですね」


 大きなつばの麦わら帽子を被ったフィーネは、こめかみから伝い落ちる雫を拭いながら呟く。そよぐ風も弱く、夕暮れ前の日光はこれでもかと強烈な陽光を二人にぶつけ続けた。

 すると、何の釣果をもたらすことも出来ない竿を置いたフィーネは、スカートの裾をたくし上げて結ぶと、そのままサンダルを脱がずに一歩二歩と、眼前のせせらぎの中へと歩みを進め始めた。


「くぅ~~、流石に冷たいなあ!」


 火照った体は足先から急速に冷やされ、その心地良さにフィーネは声を上げる。そして振り向き目を細めて、ミーナにこう言った。


「釣りはお終いにして、お前も涼みに入れよ!」


 そんなフィーネの言動にミーナはきょとんした表情を浮かべていたが、すぐに顔を綻ばせると、愛用のブーツを脱ぎ捨てて自身も清流へと足を浸す。


「うーん、これは気持ち良い!」

「だろ?」


 瞼を下ろして涼むミーナ。だが次の瞬間、心地良さそうな少女の表情は一転し、目を見開いて驚きを浮かべた。

 自身の顔に掛けられた冷水。それを掛けたのは眼前で悪戯っぽく笑う娘。


「どうだ? もっと涼しくなっただろ?」


 前かがみに両手を水中に浸したフィーネは、次の攻撃の直前に一言言った。そして言葉の後、再びミーナに向かって川の水をすくい掛ける。


「うわっ! やったな~!」


 けれども、一方的にやられる少女ではなかった。ミーナも、それこそ自身の服が濡れる事もお構いなしに両腕を水中へと差し入れ、一滴でも多く水を掛けようと、大きな動きで反撃に出る。


「ひゃっ! やりやがったな!」


 小さく悲鳴を上げたフィーネは反撃の反撃とばかりに、更に激しく水しぶきを巻き上げる。二人の笑い声と水音が、静かだった小川のほとりに賑やかに彩った。




 やがて疲れたのか、フィーネは両手の平をミーナに向けて降参の意思を示す。


「もう参った! あたしの負けだよ」


 そう言った娘の顔つきは、まるで少女のような無邪気な笑顔で、それを見たミーナは声を上げて笑い出した。


「は、はははっ。何だか、友達と遊んでるみたい」

「ん? それじゃあ、お前はあたしを友達とは思ってないのか?」


 一瞬、怪訝な表情を見せるフィーネ。そしてそれを見たミーナは彼女の心中を察したかのように顔つきを曇らせて僅かに俯いた。


「あっ、ごめんなさい……。別にそう意味じゃなくて」

「そんな言葉を待ってるんじゃない。あたしとお前は友達なのか、そうでないのか聞いてるんだぞ」


 問い詰めるフィーネは言葉にこそ圧を感じさせたが、その表情は笑顔に戻っていた。そしてミーナは下げた視線を戻すと、彼女の蒼い瞳を見据えてこう答えた。


「そうだね、もう友達だね!」

「……ありがとう」


 一拍置いて礼を口にしたフィオレンティーナは、おもむろにその目を細める。

 するとその時、小川の上流、正確にはその方向の林から草木を掻き分ける音が聞こえた。


「なんだ?」


 音の方を見遣ったフィーネは眉根を寄せて呟き、ミーナはその言葉に小声で答える。


「獣かな? 熊とか……」


 二人は警戒しながらも素早く川から上がると、視線を林に向け続ける。そして数秒の後、再び物音が聞こえ、草木の合間から筆先のような形状の尾が見え隠れする。


「なんだ、狐かな? びっくりしたなー」

「気を付けろ、狼かもしれないぞ。厄介なことにならない内に帰るとしよう」


 気付けば、背の高い木々の影も随分と長くなり、二人は持って居た手拭いで手足についた水滴を拭き取っていく。


「次は釣れると良いね」

「そうだな」


 そして各々は荷物を手に取ると、少し足早に街へと戻っていった。




 その晩、ミーナとフィーネは小さな木製のテーブルを挟んで、質素な椅子に腰掛けていた。


「あいつはどうした?」

「エリーなら今日は酒場で歌を歌う仕事に行ってるよ。休みの日の前の夜はだいたい行くかな」

「そう言えば、あいつは歌が得意、というか好きだったな……」


 懐かしむように答えたフィーネは、手にした湯気の上がるカップに口をつける。

 真夏とはいえ高地の夜は冷え込んだ。薄紅色のカーディガンを羽織った娘は、鎧戸の隙間から見える月に視線を向ける。


「本当に、あいつは幸せそうだな」


 独り言にも取れるその言葉に、ミーナは何も言葉を返さなかった。

 けれども少女は、女王フィオレンティーナ――今はフィーネ・シャリエで在りたい――に気付かれないように、小さく、ほんの僅かに頷いた。

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