第六話 愚策

 夕食を終えた姉妹は、窓から見える月を見ながらゆったりとした時間を過ごしていた。僅かに開いた窓からはひんやりとした夜風が吹き込み、セレスティーヌは思わず身震いすると、薄手のカーディガンを羽織る。


「それにしても、今日は綺麗な月だな。ところでセレス、屋敷の裏手の湖に行ってみたくないか?」

「どうして?」


 昨日や、今日の日中の態度とは異なる、優しげなフィオレンティーナの言葉を怪しんだのか、少女は眉をひそめて言葉を返した。


「今晩みたいな月はそうそう出るもんじゃない。だから、こんな綺麗な月が湖に映る光景なんて、めったに見れないだろうと思ってさ」


 フィオレンティーナは視線を外して窓の外に目をやった。それは月を眺めたいからではなく、外出する本当の目的を悟られまいとするが為だった。


「姉様らしくないけど、ちょっとに行ってみたいかも。叔父様も一緒?」

「いや、二人だけで行こう。叔父様は忙しいだろうしな」


 するとセレスティーヌの表情は一瞬曇ったが、直ぐに穏やかな笑顔を浮かべると椅子から立ち上がった。




「こんな夜にお屋敷を抜け出して良いの?」


 部屋を後にした姉妹は屋敷の片隅にある、庭木の影で身をかがめていた。心配そう、というよりも咎めるような口ぶりの妹の事など気にもせず、フィオレンティーナは塀の傍の低木を掻き分ける。

 すると子供か小柄な女性ならば潜り抜けられそうな小さな穴が顔を覗かせた。


「いいか、大人になるためには、言われた事を素直に聞くだけじゃ駄目なんだ」


 セレスティーヌの問いへの答えとしては、少々不適当な言葉の後にフィオレンティーナは足元の穴へとその身を滑り込ませる。寝間着が汚れる事などお構いなしに、彼女は手足を地べたにつけて進んで行く。

 そして時間にして十数秒後、背丈の三倍はあろうかという屋敷の塀を背に、彼女はゆっくりと立ち上がった。

 やがてセレスティーヌも姉の後に続き、両手両膝を汚しながらも抜け穴を通り抜けた。


「ねえ、やっぱりやめようよ」


 立ち上がり、汚れを払うセレスティーヌは姉の傍へと一歩寄ると、真っ暗な森を眼前に不安にも似た言葉を口にした。だが、フィオレンティーナはそんな妹を一瞥すると、右手を突き出し人差し指を立てる。

 すると、彼女の指先に小さな火球が灯り――大きさは小さいがその眩さは並のランプを遥かに超えており――しかもそれは術者の意思を反映したかのように、前方だけを照らし始めた。


「大丈夫、姉様がついてる」


 フィオレンティーナは眉根を寄せる妹の手を取ると、湖を目指し、ゆっくりと森の中へと歩みを進めた。




 月明かりの届かぬ森はどこまでも闇に包まれていたが、フィオレンティーナの行使する術によって灯された光は、灯火の如く暗闇を切り裂いた。

とは言え、うっそうとした木々は二人の視界を遮り、その隙間から見える木の幹と光によって作り出される陰影は、あたかも亡者が立ち並ぶかのような様相を呈した。


「姉様……」


 そんな光景に思わずセレスティーヌは姉の手を握る力を強める。


「びびるなって、お化けなんて居やしないよ」


 言葉を返したフィオレンティーナだったが、その声色は僅かに震えを帯びていた。

 今二人が歩く道は、獣道という程に酷い道ではなかったし、日中、叔父に連れられ何度も通った道ではあった。だが、いくら歩けども森は果てしなく続き、永遠にこの場から出られないのでは、と錯覚しそうであった。

 その時だった。道を逸れた茂みの奥で何かが動き、明確に風音とは違う、葉の擦れる音が辺りに響き渡る。

 しかもその音は二人の方へ向かい、どんどん大きさを増していく。


――来やがったな。


 フィオレンティーナは音の主に心当たりがあった。正確に言えば、今この場に居るのはその音の主に会うためであった。だがそんな姉とは対照的に、未知なる存在に恐れおののくセレスティーヌは、顔を強張らせ、目を剥いて音の方を凝視していた。

 そして草木を掻き分ける音が二人の元へと到達し、次の瞬間、黒い影が姉妹の眼前へと飛び込んでくる。光に照らし出される巨躯、通常の個体の二倍はあろうかという大柄な鹿が二人を睨むかのように立ちはだかる。

 それは夕方にフィオレンティーナが小耳に挟んだ、魔物化したという鹿に間違いなかった。頭部には雄々しさよりも凶暴さを主張するかのような立派な角、四肢を支える異常なほどに発達した筋肉、元来草食性であるこの獣に似つかわしくない赤黒く汚れた口元、そして胸元から顔を覗かせる、大きな緋色の感応石があった。


「ね、ねえ……さ、ま」


 フィオレンティーナが痛みを覚える程にその手を強く握るセレスティーヌ。少女は奥歯がかちかちと鳴るほどに震え、逃げ出す事も出来ないかのように立ち尽くしていた。

 けれども姉はそんな妹の手を振り解くと、目の端で少女を見遣り、こう言い放った。


「びびるな、たかが獣如きで。いいか、実戦なんてそうそう出来るもんじゃない。お前の為を思ってここまで来たんだ。文字通り、死ぬ気でやってみろ!」


 言葉を終えると同時に、フィオレンティーナはセレスティーヌの元からおもむろに距離を取る。自身の術ならばあの程度の相手など敵ではない、と考えた彼女は、魔物の標的が妹に向くようにあえて差し向けた。

そしてフィオレンティーナの思った通り、眼前の魔物はおもむろにその双眸をセレスティーヌに向ける。筋骨隆々とした前足で何度も地面を掻く獣、その視線の先には引きつった表情で立ちすくむ幼い姫。

やがて、恐怖に耐えられなくなったセレスティーヌは、渾身の力で火球を魔物に浴びせかける――それがフィオレンティーナの筋書きだった。

けれども、次の瞬間に妹の取った行動は姉を失望させるどころか、これ程にも無く焦らせるものだった。


「い……いやだよーっ!!」


 悲鳴と共に森の奥にセレスティーヌが駆け出すと、そんな少女を追って大鹿も駆け出す。


――しまった!


 せめて自身の元に泣きながらでも駆け寄ってくれれば、守る事は容易かった。

 だが、これでは二人は魔物を挟んで分断されてしまい、とてもセレスティーヌを守ってはやれない。

全身の血の気が引くのを感じながらも、フィオレンティーナは全速力で妹を追って駆け出した。




 幾ばくもせずに、フィオレンティーナは魔物と、そしてセレスティーヌに追いつく事が出来た。喉奥から唸り声を発しながら木の洞の前を行ったり来たりする魔物と、その洞の中から聞こえる、助けを求めるセレスティーヌの泣き声。


「セレス! 今助けてやるからな!」


 暗い森の中、フィオレンティーナの指先に灯った光は随分と光量を減らしていたが、彼女の叫びに呼応するかのように光は眩さを取り戻し、怪物の巨躯を照らし出す。

 すると怪物は、言葉の意味を理解したかのようにフィオレンティーナの方を向いた。その瞳は元来の物とは遠くかけ離れた、燃えるような赤色だった。

 たかが獣と侮っていた彼女は、その異様な双眸に恐れを感じ、思わず後ずさる。


「ちっ! ちょっと図体がでかいだけの鹿なんかに、びびってたまるかよ!」


 空いたもう片方の手の平に火炎を湛えると、恐怖を振り払うかのような怒鳴り声と共にそれを魔物目掛けて放った。


「鹿の丸焼きになっちまえ!」


 一瞬、昼間のような明るさとなった森に、フィオレンティーナの叫びが響く。そして、火炎に包まれた魔物は抗う術を持たずに絶命する――はずだった。

 だが敵は微動だにせず、大きな鼻孔から大量の空気を吸い込むと、まるでろうそくの火を吹き消すかのように、吐き出した空気の塊を以って、王女の放った渾身の火炎を吹き消した。


「なっ……」


 全力ではなかったが、手を抜いたわけでもなかった。だが彼女の放った火術に、敵は僅かな火傷の一つも作らず、未だに四本の脚で地を踏みしめていた。

 そして魔物は、たじろぐフィオレンティーナに出来た一瞬の隙を見逃さなかった。その体躯の三倍はあろう間合いを一瞬にして詰め、頭部から生えた角で彼女を串刺しにせんとする。

 虚を突かれたフィオレンティーナだったが、寸での所でその一撃を避け、寝間着が汚れる事などお構いなしに地に転がり込んだ。

 だが敵の攻勢は続く。巨体ゆえに直ぐには停止出来ずに再び間合いが出来ると、異形の獣はその胸に抱いた感応石を煌めかせ、倒れ込んだフィオレンティーナに炎を浴びせかけた。


「くそっ、冗談が過ぎるぞ!」


 先ほど自身の放ったものよりも強大な炎を目の前に、悪態をつきながらも水術で身を守る。湿潤な空気に満ちた森は彼女の味方をしたが、火術以外は不得手とするフィオレンティーナが放った水弾は、魔物の放った術を完全に防ぐ事は出来なかった。

 炎は火の粉に姿を変えたが、彼女の衣服や髪、そして肌に容赦なく振り掛かった。思わず顔をしかめるフィオレンティーナ。それは痛みに対してというよりも、こんな状況を作り出してしまった自身への怒りだった。

 だがこうなった以上、それこそ妹に言っているように、死に物狂いで眼前の敵を打ち倒すほかに、彼女に道は無かった。


「姉様!」


 すると、姉の窮地に気付いたセレスティーヌが木の洞から顔を出して声を上げる。


「セレス! 隠れてろっ!」


 おもむろに声の方を向く獣。敵の標的が妹に移る事を危惧したフィオレンティーナは、使い慣れない風術を使い、甲高い音ともに真空の一撃を浴びせかける。虚を突かれた敵は胴を、その表皮を風の刃に切り裂かれ、鮮血が風にあおられて霧の如く噴き出した。

 それは致命どころか、足止めにすらならない傷であった。だが、口角を裂けんばかり引きつらせた大鹿は、肉食獣さながらの顔つきで再びフィオレンティーナの方を睨みつけた。


「そうだ、お前の相手はこのあたしだ! やれるものならやって見ろ!」


 対峙する異形の獣を相手に、フィオレンティーナは自身を奮い立たせるかのように声を張り上げたが、それは虚勢に過ぎず、その怒鳴り声とは裏腹に、彼女は脳内で必死に窮地を脱する打開策を模索していた。

 しかし、敵はフィオレンティーナに考える時間を与えることなく、再び胸元の感応石を煌めかせると、辺りを白昼に変える程の大火球を娘に放った。


「獣の分際で術なんか使いやがって!」


 悪態をつきながら飛び退いたフィオレンティーナは、体勢を崩しながらも反撃の小火球を撃ち放つ。彼女の術は見事に魔物の背に命中したが、それは分厚い毛皮に阻まれ――正常な獣であれば怯み逃げ出すはずだが――さらに相手を逆上させる事にしかならなかった。


「グルルガゴォーー!」


 魔獣は喉奥から威嚇とも激昂とも思える唸り声を上げると、地に倒れこんだ娘を屠るべく、四本を脚に力を込めた。

 そして、その体長の数倍はあろうという距離を一瞬にして縮め、眼前の脆弱な人間を頭部の角で突き上げんと突進を繰り出した。


「掛ったな!」


 敵の行動を予想していたかのようにフィオレンティーナはそう叫び、彼女は攻撃を避ける事無く、それどころか魔物の懐を目掛けて体を投げ込んだ。

 虚をつかれた敵は彼女の動きに反応出来ず、あっさりと股座を抜けて避けられてしまう。それどころか、いつの間にか泥濘に変えられていた地面に足元をすくわれると、必殺の一撃の勢いを殺す事無く、巨木の幹に頭を打ち付けた。

 ドーン、という轟音の後、もう一度、泥に巨体が倒れ込む大きな音がすると、魔物は気を失い、立ち上がる事は無かった。


「はぁ……はぁ……、手間取らせやがって」


 風、水、土と、不得手な属性の術を立て続けに行使したフィオレンティーナは肩で息をしながら、ゆっくりと慎重に魔物の傍へと歩み寄る。そして、足元にあったこぶし大の石を拾い上げると、獣の胸元にある緋色の感応石に向かって打ち下ろした。

 がきんっ、と乾いた音が響き、同じくこぶし程の大きさがあった感応石が砕け散り、そのまま地面へと四散した。


「土産にひとつ貰っていくか」


 呼吸が落ち着き始めたフィオレンティーナは、砕けた緋色の石のひとつを摘まみ上げる。

 すると不意に背後から少女の、未だに怯えを帯びた声が聞こえた。


「大丈夫なの?」


 木の洞から抜け出たセレスティーヌは、自身の方を振り向いた姉の顔を見遣ったが、その後に倒れ込んだ魔物に視線を向けた。


「何が大丈夫なのか聞いているんだ?」

「鹿さん……」


 あえての質問に、予想通りの返答をされたフィオレンティーナは、大きくため息をついた後に妹の頭を少々乱暴に撫でた。


「殺しちゃいない。それに感応石さえ無くなれば、やがて元の姿に戻るはずだよ」、


 姉の言葉にセレスティーヌは安堵の表情を浮かべた。それを見たフィオレンティーナは小さく肩をすくめると、目的の湖に向かって歩み始める。

 そして、そんな彼女に置いてかれまいと、セレスティーヌも早歩きでその後を追った。

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