15-1 クロード


 ♤


 久々に踏み入れた広大な庭園をクロードは走り続けていた。

 走り続けて息は完全に上がっていて、唾を飲み込んでも喉がひりひりと痛む。

 絡まる足を動かし続ける。普段活動的でないことを呪いながら、ただティナを探していた。

 

 城内にいたら助けることは不可能に近い。今のクロードはただの平民で、城内に立ち入ることは不可能だろう。

 しかし馬車に乗り込むセルラト夫妻を見た、と空を飛ぶ鳥が教えてくれていた。


 ……きっとティナはアルフォンスと二人でいる。ティナがいつかの夜に語った思い出は、城の庭園だった。

 わずかな可能性を信じてクロードは走り続けていた。


 小さな鳥が何十匹と集まり、上空を飛んでいる。

 クロードは彼らに探索を指示すると、自分はローズガーデンに進んだ。

 魔法局の職員や学園の生徒とすれ違いながら、高い生垣に向かって。


 ――そうして見つけたティナは、手足を薔薇に繋がれ、アルフォンスにキスをされていた。

 二人とは距離があり、彼女が何をされているのかはよく見えない。アルフォンスに強く身体を掴まれながら、必死に抵抗していることはわかった。


 「……ティナ!」


 乾いた喉が叫んだ。初めて彼女の名前を呼ぶ時が、こんな場面になることなど想像していなかった。


「ティナ!」


 二人が同時にこちらを見た。アルフォンスの顔は真っ赤で、目も血走っている。


 ……ティナの瞳は涙に濡れていた。


「クロードさん……! 助けて……!」


 掠れた声でティナが叫び、同時にクロードはティナに向かって手を伸ばした。


 鋭い閃光が、ティナとアルフォンスの間を抜ける。アルフォンスは慌てて後ろに下がる。


「おっと、危ないなあ。君、ティナのことを傷つけるつもり?」


 ティナに向けた激情を冷やす効果はあったようだ。アルフォンスはクロードに向き合い、ティナを隠すように前に立った。


「ティナを離せ」

「ティナは私の婚約者だ。次期国王の婚約者を奪おうなど、愚かな行為はやめたまえ」

「関係ない。彼女が僕に助けを求めた。それだけのことだ」


 ティナが身をよじり、アルフォンスの隙間から顔を出す。

 唇は血で濡れて、頬を掴まれたのが指の跡がくっきりとついている。

 痛々しい姿に胸が締め付けられたのは、走り続けたからではない。


「ティナは私のものだ」

「誰のものでもない。だが、傷つけるべきではない」

「傷つけてなどいない。恐ろしい気持ちもじきに消えて、傷もすぐに治せる。君がいなくとも優秀な薬草学専攻はいくらでもいるからね」

「それでも、彼女は今傷ついて苦しんでいる」


 クロードの声が怒りで震えた。

 なぜこの男は目の前の女性が傷ついているのが目に入らないのだろうか。

 傷は回復しても、今苦しんでいる。


 クロードは一連の黒幕がアルフォンスだと思い、ここまで走ってきた。

 けれど、それがティナを愛するが故の行動で、彼女自身を大切にするのであれば、それも一つなのかもしれないと思ってもいた。

 しかし……。


「ティナを離せ」


「今なら君のことを見過ごしてやってもいい。ティナは君にお世話になったようだからね。ティナを無事に王都に送り届けてくれてありがとう」


 アルフォンスは微笑みを絶やさないまま、ティナに目を向けた。


「ティナ。彼が不幸な目にあうのは嫌だろう? 君がすべてを忘れて私のことを愛すのならば、彼の命は助けてあげよう。

 君ももう二度と王都に足を踏み入れず、ティナの前に姿を現さなければいい」


 ティナとクロードの視線が交わった。

 二人の距離は、人数人分だけだ。

 それでも今までずっと隣にいたティナが、遠い。


「さあ、ティナ。飲むんだ」

「おい、何を飲ませようとしている!」


 アルフォンスは小さな菓子のような薬をクロードに見せた。


「君の研究は本当に素晴らしいね。魔力を剥がすだけでなく、記憶を剥がすこともできる。ティナはこの三ヵ月のことをすべて忘れて、ティナにとって悲しいことの起きない世界で王妃となるんだ。彼女の魔力だってきちんと返す。彼女の幸せは保証しよう」


 ティナの幸せ……?

 クロードがティナを見つめると、彼女は静かにアルフォンスに向かって訊ねた。


「殿下。本当にクロードさんを見逃してくださるんですか?」


「ああ、約束するよ。あと五分もすれば衛兵たちがここにくることになっている。私たちのこの姿を考えてごらん? 彼は私の婚約者を拘束し、傷つけた男だと判断されるだろうね。それにひと月半、君を拘束していた犯罪者だ」


「……そんな、」


「大丈夫だよ。ティナがこれを飲んで、すぐに彼がこの場から立ち去れば衛兵に見つかることもない。何も問題はないんだから」


 二人の会話が水の中で聞いた音のようにくぐもって聞こえる。

 

 ティナは地面を見つめて苦しげに息を吐いた。


 クロードの耳にはアルフォンスの言葉がこびりついていた。


 ――それが彼女の幸せだ。


「おい」

「まさか、私に呼びかけている?」

「そうだ。お前、ティナの幸せはなんだと考える」


 アルフォンスが不愉快さを全面に出した顔をクロードに向けた。


「君に関係ないだろう」

「ある。言えないのか?」

「…………ティナは、魔術が好きだ。魔力は元通りにするし、彼女の好きな魔術計算は王妃になっても好きなだけしてもらってもいい。ティナは権力や贅沢を欲していないことは私だって知っている」


「彼女は確かに魔術が好きだろう。だが、それはお前のために努力した結果だ」


「はあ? ……何が言いたい? ああなんだ、まさか田舎が好きだとかそういうことを言いたいのか? 田舎でのんびりと暮らすことが彼女の幸せだと言いたい? であれば田舎で過ごす環境も整えよう。君が思いつくことなど簡単なことだよ。幸せにするよ」


 アルフォンスは呆れたように笑った。


「彼女のやりたいことを、一度でも聞いたのか?」


 クロードは思いだしていた。ティナとの穏やかな日々を。

 

「僕は彼女の幸せが何かなんてわからない。僕はそういうものにひどく疎い自信がある。女心はまったくわからん」


「何を自慢気に。君が彼女を幸せにしていたと思っていたが、どうもそうではないことがわかったよ」


「だが僕は彼女の嫌がることはしない」


 はっきりとした声が出た。


 クロードは自分が幸せにする自信などはない。

 ティナは田舎での暮らしを楽しんでくれていたと思うが、王都に帰って家族と暮らしてみれば、その気持ちがどう変化したかはわからない。自分を選ぶなどと思わない。


 自分のような口下手な人間よりも、裏に秘めるものが暗くとも、ティナの前では明るく爽やかで彼女を心から愛するアルフォンスの方がいいかもしれないとも思った。


 だけど、ティナは涙を流している。

 そのことにアルフォンスは気を留めない。


 その事実は、クロードの心を揺らし身体には怒りしかなかった。


「ティナ」


 名前を呼ばれたティナはまっすぐクロードを見つめた。


「僕は今、たいして魔力もない。君の魔力を奪ったこの男には全くかなわないだろう。加えて、僕は攻撃魔術も不得意だ。だが君が助けてほしければ、助ける。どうする?」


「助けられないくせにバカなことを言うな。かっこつけても命を失うだけだ」


「僕は恰好をつけるつもりもない。無理なものは無理だからな。ただ君の意志を聞きたい。ティナ、どうする? 君の幸せはどこにある?」


 ティナのラベンダーの瞳から涙がこぼれる。


「ティナ。彼とはもう一緒には逃げられない。君が早く決断しなくては衛兵が来るよ」


 アルフォンスは微笑んだまま、ティナにさきほどの菓子を見せつける。


 ティナはアルフォンスの視線から逃れると、クロードに向かって叫んた。


「クロードさん、助けてください! 私の幸せは、ここにはありません!」


「わかった」


 クロードはその場でふわりと飛び上がると――黒い鳥にかわった。イリエと同じ大きな黒い鳥だ。


「なに……!?」


 鳥は一直線に飛ぶと、アルフォンスとティナの隙間に割り込んだ。


「来い!」


 クロードの声と同時に空から何十匹もの鳥が、地上に勢いよくなだれ込んでくる。すべて白い鳥だ。


「うわっ!」


 大量の鳥がアルフォンス目掛けて飛び込んで、彼を覆うようにまとわりつく。


 アルフォンスの顔が見えなくなったのを確認して、黒い鳥はすぐにクロードに戻った。クロードがティナの手足を魔法で解くと、自由になった腕でティナはクロードに抱き着いた。

 クロードは遠慮がちに左腕をティナにまわす。


「クロードさん……!」


 大群の白い鳥の中からアルフォンスの腕が伸びた。


「誰か! きてくれ! ここだ!」


 アルフォンスの怒号とともに、空に向かって青い閃光を放たれた。

 それは衛兵を呼ぶ合図にちがいなかった。


「クロードさん、いまのうちに逃げましょう! 早く!」


 ティナがクロードの手を取って走り出そうとする。


「逃げなくてもいい」


 クロードはティナを引き寄せて、今度は両腕で抱きしめた。

 

「この国は、ここで終わらせる」

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