不機嫌そうな顔をした冴えない男、一条隼人
酷く体が疲れている。息をするのもつらい。
「は~い、食べましょうねー」
粥、卵、ちりめんじゃこ、大根、大根の茎、人参が入った熱々の雑炊が俺の口の中に押し込まれる。
人は体力が限界まで落ちると食事も摂れないと聞いてそんな馬鹿なと思ったが、自分がそうなったら分かる。きつい。荒れる海で立ち泳ぎしながら食べるよりもきつい。
「は~い、食べましょうねー」
まだ先ほどの熱々の雑炊が口の中にあるというのに、彼女はそれに構うこと無く火傷するくらい熱々の雑炊を俺の口の中に押し込んだ。
口の中はもう雑炊で一杯でこれ以上は口の中に入らない。
というのに、彼女はまた俺の口に雑炊を押し込もうと手の中の茶碗に入った雑炊をスプーンで掻き回している。
だから俺は必死になって雑炊を飲み込んでいるが、体力が無いと一飲みするのも一苦労で肩で息するくらい息が切れる。
「は~い、食べましょうねー」
彼女の手を止めるために腕を上げるだけの体力もない俺は、赤ん坊のように首を横に振って彼女に嫌だと伝えたが、彼女はそれを無視して無理やり俺の口を開けて口の中に雑炊を押し込む。
俺はこの時生まれて初めて本気で女性をぶん殴りたいと思った。
「まだ食べる?」
彼女の問いに俺は力なく首を横に振った。
拷問だ。熱々の雑炊食べ切らないと息をする事すらままならない拷問だ。
食事で体力を使い果たした俺は、ほっと一息つくと共に訪れた眠気に従って眠りについた。
「は~い、ごはんの時間ですよー。いっぱい食べましょうねー」
食って寝て起きては食う。それが極秘のがん治療から目覚めたばかりの俺の日常だ。
「ゆっくりでお願いしますね、
「は~い、食べましょうねー」
俺のお願いがまったく耳に入ってない彼女の名前は
「は~い、食べましょうねー」
女優さんのようにはっきりとした目鼻立ちをした美人で、俺と同じ極秘のがん治療を受けている。
「は~い、食べましょうねー」
そんな彼女がなぜ俺の食事の世話をしているのかは分からないが、俺の言葉が彼女に全く伝わっていないのは間違いない。
「は~い、食べましょうねー」
視線も合わない。彼女は俺を見ている様で俺を見ていない。
なぜだ?見てくれ、この俺を。今にも熱々の雑炊で溺れ死にそうな顔をしているこの俺を!
「は~い、食べましょうねー」
お願いだ。気づいてくれ、吾妻さん!俺のこの思いに。
俺はじっと吾妻さんを見つめた。
「は~い、食べましょうねー」
駄目だ。まったく目が合わない。つまり俺に残された手段はただ一つ。ひたすらに食べる事だけ。
嗚呼、早く自分で食べれるようになりたいな。
「と思ってました」
運転席から伸びてきた細長い手が助手席に座る俺の頬を摘まんでひねった。
「冗談にしては言い過ぎじゃない?」
「すいません。冗談は一言も言ってなーいんですけどおおーいたいたい!はなして!はなして!」
俺の頬は蝶ねじじゃねえんだ!それ以上ひねったら千切れちまうよ!
「こんな綺麗なお姉さんに食べさせてもらえるなんて、俺はなんて幸せ者なんだ。好き好き。お姉さん、大好き。結婚して。って本当は思ったんでしょ?」
「はっはっはっ!」
大爆笑したら、運転席から伸びてきた拳が俺の頬を打ち抜いた。
「今の何処に笑う要素があったの?」
「女子校育ちで男慣れしていない人見知りのお姉さんが痛い痛い!」
「私の何が痛いって?」
「痛くない!痛くないです!」
(ただの冗談だろうが、この暴力女!)
俺は限界までひねられた頬を慰めるようにすりすりと何度も頬を撫でる。
「仕事には慣れた?」
「慣れましたよ。まだまだ全然役立たずですけど、面倒見の良い人ばかりなので」
「そう」
「吾妻さんはどうです、大学」
「人が真面目に勉強しているのに話しかけてくる男共がうざい」
「大変ですねえ、美人は」
「一条君みたいな凡人顔が
「羨ましいだけですか?なりたいとは思わないんですか?」
「一条君はその顔で良かったと思う事があるの?私は両手の指じゃ足りないくらいあるけど」
(何だとこのくそ暴力女)
「つまり吾妻さんは、それだけ良い事があったのに誰とも付き合えなかったって言うことですか?」
俺は運転席から飛んできた拳を避けてさらに言ってやった。
「やーい、バーカ」
ハザードランプが点灯して車が路肩に止まった。
「降りろ、てめー!」
「言われなくたって降りますよ!」
俺が車を降りると、運転席にいる吾妻さんが俺に中指をおっ立てて走り去って行った。
(吾妻さんは短気というか、暴力的というか、何処か抜けているというか)
見た目の良さを裏切る可哀そうなくらい残念な人だ。
視線を感じた。
顔を向けると、目の前を通り過ぎた観光バスの後ろ姿が見えた。
「K先生に吾妻さんに置いてけぼりにされたってチクろ」
K先生に気がある吾妻さんはさぞや反応にお困りになるだろうなぁ。くっくっく。
****
「ほんと、生意気な子」
私と同じ天涯孤独の子。
—君と同じ被験者だよ。
今にも餓死しそうなくらい痩せこけた顔は死人のように血の気が無く、いつ死んでもおかしくないと思った。
胃につながっている喉に開いた穴に流動食が流し込まれてもあの子はピクリとも動かないし、目を覚ます気配もない。
「何で生きようと思ったの?」
恋人でもいるの?
「だとしたら生意気ね」
許さないわよ。私より年下のくせに。
愛想の無さそうな顔している。
「女にモテる顔じゃないのに」
口説き落としたのか、この顔で。
「やるじゃない。許さないけど」
一条隼人は一週間ほどで目を覚ました。
「先生、俺の顔ってカッコよくなりました?」
「遺伝子治療で顔が変わることは無いよ」
あの子は黙祷を捧げるような沈痛な顔で目を
「残念です」
「動けるかな?」
「……この部屋の重力が十倍になっていたりしませんか?」
「もしそうなら私達は息一つ出来ないね」
あの子の眼が私を見た。
「先生の彼女ですか?」
えーそんな彼女だなんてそんな、ねえ先生?
「いいえ。君と同じ被験者ですよ」
「あ、そうなんですね」
おい、その「あ」は何だ?あ?何で私を見て言った?私が先生に全然相手にされてないのを見て心の中で笑ってんのか?あ?
「一条隼人です。よろしくお願いします」
「吾妻香織です。
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