久我健人は実験体になりました

 おれの一日は朝7時にセットされた目覚ましの音で始まる。

 トイレで用を足し洗面所で顔を洗う。ペットボトルに入っている常温の水をコップに入れて飲む。

 朝食は7時半。それまで寝起きの固い体をほぐす。 

 朝食後はランニングマシーンでウォーキングをして筋トレマシーンを使って体を鍛える。

 Kの説明によると、体力があると実験中の苦しみが少しはマシになるらしい。

 昼食後は30分の昼寝をした後、体の至る所に注射針を刺しておれの何とか細胞を採取する。

 実験前の検証に使うらしい。

 それが終わると俺がやらなければならないことはもうない。

 テレビゲームをしても良いし、本を読んでもいい。汗をかく様な運動以外なら何をしても良い。限度はあるが好きなお菓子や軽食を食べることも出来る。

 俺はKに貰ったボイスレコーダーに頭に思い浮かんだことを録音していく。実験後に消されることは分かっている。無駄なことしている自覚もある。

 寂しさと恋しさで泣くこともある。それでも俺が時間がある限り録音を続けるのは、この世に俺がいた事を残したいからだ。消えると分かっていても、記録しているという行為が他の何よりも俺の不安な心を慰めてくれるからだ。

 就寝は夜の10時。

 鍵のかかった部屋のベッドの中で明日は大丈夫だろうかと不安に震える体を抱きしめながら眠る。夢は見ない。


 一か月が経った。二か月が経った。半年が経った。

 「君は何でそんなに従順なんだ?」

 ある日Kが理解出来ないと言った顔で言った。

 「逆らえばひどい目に遭うと思っているなら、それは違うと言っておこう。もちろん暴れればそれ相応の対応はするが、我々に暴力で言う事を聞かせるつもりはない。運動が嫌ならしなくてもいいし、検査や採取を拒否してもいい。そんな事は君に気づかれないようにやればいいだけだからね」

 Kは俺の返答を待った。

 「そう見えるだけですよ」

 俺の返答にKは難問を解いているみたいな顔で首を傾げた。

 「何もしていないより言われた事を言われた通りにしている方が楽だからそうしているだけで、俺にあなた達の言う事を聞かなきゃいけないという意識はありません」

 俺の解説に、Kはなるほどと言った納得顔で頷く。

 「ならミスターボンド、君のその敵意のない眼は何だ?君はなぜ私に敵意を向けない?疑いを持たない?恐れを抱かない?怒りを覚えない?私は君を無理やり連れて来た連中の仲間だぞ?私はこの世から君を消す人間の一人なんだぞ?」

 今日のKはいつもと様子が違う。声が少し感情的になっている気がする。


 「正直に言えば、それは俺にも分かりません」

 「何故だ?何故分からない?」

 と更に追及してくるので俺は真面目に考えてみることにした。

 その答えが「特にひどい目に遭ってないからかもしれません」

 Kの顔は判断に困っているように見えた。

 「君のいう通りなら、君はいずれ私を恨むことになる……君のいうことが正しければ」

 Kはなぜか俺に嫌われたがっているように見えた。


 ****


 後悔はしていない。でも今ならこの役目を同僚たちが嫌がった理由が分かる。

 久我健人。6か月と12日の短い付き合いだが……別れることを惜しいと思っている。人の気持ちを教えて貰う事でしか知ることが出来ない私でもこんな気持ちを抱くのだから、真っ当な同僚たちが嫌がるのは当然だ。


 時刻は13時。検査と称して注射した麻酔薬が彼の意識を急速に奪っていく。

 「ありがとう」

 虚ろな目で私を見る彼の口がそうささやいた。

 私は完全に意識を失った彼の体をストレッチャーに乗せて手術室へ運んだ。


 「立ち会うのか?」

 主任研究員のGが言った。

 「ええ。貴重な実験を見学できる唯一の機会かもしれませんから」

 Gの眼が私を睨んだ。私の何が気に入らなかったというのだろう?同じ穴のムジナのくせに。

 手術台に乗った彼の手足や胴体にもしもの時のための拘束用の革帯が巻かれ、身動き一つ出来ないように固定されていく。

 センサー機器が装着され、異常が無いことが確認されると彼の手足に輸液用の注射針が刺され、口に酸素マスクが装着される。

 輸液スタンドに掛けられていく透明な輸液パック。中には彼の体から採取した細胞の遺伝子情報を操作して作った変異体が入っている。

 それはがん細胞のように彼の体を喰らって私達が設計した通りに彼の体を作り替えていく。じっくりゆっくりじわじわと。

 

 ****


 俺が目を覚ましたの朝の4時。部屋は暗く体中がちくちくと痛んだ。左右の腕には点滴のチューブがつながっていて、顔の左右には良く分からない機械のモニターに波形や数値が表示されている。

 そして俺の股間から伸びるおちんちんに何かが刺さっている。

 「こんな屈辱的な仕打ちがこの世にあるとは」

 「君がトイレに行かなくてもいいようにするための医療的処置だよ。人によっては屈辱的かもしれないが」

 俺の何気ない呟きに壁にはめられたスピーカーが答えた。

 「体の調子はどうだ?」

 「体が熱いです。たぶんインフルエンザに罹った時くらい熱いです」

 「冷却剤を持って行く。他に欲しいものはあるか?」

 「水とボイスレコーダー」

 「持って行く」

 Kは五分も掛からずに来た。

 「痛みはないか?」

 「少しちくちくします」

 Kが頭を持ち上げて置いてくれた氷枕が気持ちいい。

 「痛みが強くなったら我慢せずに言え。痛みを我慢する事に意味は無いからな」

 「俺はどうなるんです?」

 「痛みが強くなり、思考と記憶に影響が出て、自分が何をしているか分からなくなる。言葉や音の意味も分からなくる。そして君は、赤ん坊のように泣き喚くようになる」

 俺は動揺しなかった。何故かは分からない。しかし俺がこの時を恐れていたのは確かだ。

 「俺が赤ん坊になるのにどのくらいかかるんですか?」

 「予想では7日だ」

 「それまでずっとこの高熱が続くんですか?長いですね。もっと早く出来ないんですか?」

 「今は技術を確立させようとしている段階で期間の短縮はまだまだ先の話だ」

 「そうですか……一人にしてもらえますか?」

 俺はKが部屋を出て行くのを待ってボイスレコーダーのスイッチを入れた。

 「季節は春。俺は赤ん坊になるらしい――」

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