久我健人はじっとしていられない
山を下りた所に止まっていた車に乗るように言われて、吸入マスクがついた酸素缶と書かれたスプレー缶を吸うように言われて吸った俺は、3呼吸目で意識を失った。
そして窓に鉄格子がはまった病室らしき部屋のベッドで目覚めた。
「おはよう。
ベッドの頭側の少し上の所の壁にあるスピーカーから、若い男の
「おはようございます。今日はいい天気になりそうですね」
カーテンの無い窓から指す夕日が
「ああ、そうだね」と少しの間を置いて返答があった。
「俺はここにきて何年になります?」
スピーカーの向こうにいる誰かが困惑している気がした。
「夢を見ました。高校に通っている夢です。隣には見た事が無いくらいの美少女がいて……何故かは分かりませんが、怒っていました」
スピーカーの向こうにいる誰かが首を傾げた気がした。
「俺はもう何年もここにいて、高校には一度も通ったことが無いっていうのに。でも……すごくリアルだったんですよ。本当に経験をした事があるみたいに」
「久我健人君……君がここへ来たのは今日が初めてだ」
「そうなんですか?嗚呼、それで俺は変な夢を見たんですね。すいません。怪我はしませんでしたか?」
「いや、誰も怪我はしていないよ。君は静かに眠っていたからね」
「そうですか……ところで、ここは何処ですか?俺はここにきて何年になります?」
「気に入ったよ、久我健人君。君には、こんな状況でもユーモアを言える勇気があるんだな」
「晩御飯は何時ですか?」
スピーカーからふふふっと笑う声がした。
「18時だ。それまでは好きにしているといい」
体を起こすと軽い
眩暈が治まるまでゆっくりと深呼吸をして、慎重に立ち上がる。
部屋の広さは四人部屋の病室くらいあり、出入り口のドア横にある小部屋にはトイレと洗面台があった。カーテンの無い窓からは夕日が見え、その下に森のように密集した木々が見える。
天井には監視カメラが二台。
俺の両手首にはリストバンドくらいの大きさがある何らかの装置が装着されていて、自力で外すことが出来ない構造になっている。
着ている服は
とりあえず前転する。壁から壁に。壁から壁へ。
「久我健人君」
前転を始めて数分が経った頃、壁にはまったスピーカーから先ほどの爽やかな低音声をした男の人の声がした。
「なぜ前転をしているか教えてくれるか?」
「先生が明日体育の時間に試験をするって言ってたから練習をしているんです」
本当は何かしていないといつ何をされるか分からない恐怖が俺の心を圧し潰して俺の正気を失わせようとするから。
「好きにしていいと言ったが、訂正する。大人しくしていなさい」
そう言われてもじっとしていたら俺の正気が
だから俺はジャブを打つ。一心不乱に。最短最速。俺のジャブを甘く見てると、足が動かなくなるぜ。シュッシュッ。
「喉が渇いているだろ?」
爽やかな男の低音声が出入り口のあるドアから聞こえた。
顔を向けると500mlのペットボトルが俺の胸に飛び込んできた。
「私は人の気持ちを察することが出来ない。だから、聞かなくても分かるだろ?と思うようなことを私は聞く」
受け取った冷たいペットボトルにはミネラルウォーターが入っている。
「君はなぜじっとしていない?君がそういう人間ではない事は知っている」
一気に半分の水を飲み干して俺は言った。
「お名前は?」
爽やか低音ボイスだけでも女性にモテそうなのに、出入り口に立つアラサー男は、スラリとした長身で天パ塩顔系イケメンという、どんなに性格が悪くてもモテそうな容姿をしていた。
「名前は同じ職場で働く研究員でも教えてはいけない事になっている」
全てのモテない男から嫉妬されそうなアラサーの男が首から下げているケースに入っている運転免許証みたいなものを指差して言った。
「Kと呼んでくれ」
「俺のことはボンドと呼んでください」
「オーケー、ミスターボンド。私の質問に答えてくれ。なぜ君はじっとしていない?」
「明日の計量までに後500グラム絞らなきゃいけないからです」
「私は君の味方ではないが敵でもない。何か気に入らない事や困っている事があるのなら私の出来る範囲で善処するよ」
俺はは少しだけ考えて言った。
「俺はどうなるんですか?」
Kは考えをまとめようと思案するしぐさで首を傾げ、その恰好のまま言った。
「君はとある実験を受ける。その結果君が死ぬことはたぶん無い。でも」
何も無い空間を見上げていたKの顔が俺を見た。
「今ここに居る君は消える」
「消える……?」
「今の君は消えて新しい君が生まれる」
言っている意味は分かってもKが何を言っているのか全く分からない。
「簡単に言えば、今の君の記憶はすべて消えるということだ。不可逆的に。奇跡が起きても絶対に戻らないくらい完璧に」
「それは……」(俺は死なないが俺という人格が死ぬということか?)
「記録に残すことは出来る。
俺は呆然としていた。心が心を守るために考える事を拒否したのかもしれない。
手が何かを掴んだ。俺の目の前にKが立っていた。視線を落とすと俺の手に小さなテレビのリモコンのような物が握られていた。
「ボイスレコーダーだ。残したい記憶があるのならそれに録音するといい。使い方は分かるか?」
ボイスレコーダーについてあるボタンと記号を一瞥した俺は「たぶん」と頷いた。
「もうすぐ食事の時間だ。その前にシャワーを浴びて着替えるか?」
俺は頷いた。
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