4ー12 蠣崎波響・1790年(マイナス235年)

 田沼意次失脚から4年――。『日本開国』への戦略を練る平賀源内は、絶対に〝敗ける〟ことの許されない賭けに出ていた。松前藩の内部に協力者を得られるか、全てを一橋に暴かれるか――。

 賭けの成否が、日本の未来を決める。

 昨年発生したクナシリメナシの戦いによって、松前藩は混乱の極に達した。幕府や有力商人たちへの対応、関係者の処罰などでかなりの人事が異動している。1年が過ぎて藩の要人たちの力関係がどう変化したのか、まだ源内には読み切れていなかった。それが、賭けの不安要素を大きくしている。一方で、これ以上行動を控える時間の余裕はない。源内は、自分の余命が短いことを悟っていた。


         *


 松前城下の遊廓の一室――。北側の隅の暗く小さな部屋で、2人の男が向かい合っていた。源内は、神妙な口調で切り出した。

「波響様……わざわざお出で願ったのには深い訳がありましてな……。にわかには信じ難いことをお聞かせします。そのうえで、少々やっかいなことを頼まれていただきたい」

『必ず一人で来るように』と念を押した手紙を受け取った時に、波響はただならぬ事態を予測していた。まして密会に指定された場所は、〝秘密の話〟にふさわしくない。事実、近くの部屋からは女たちの嬌声に交じって、家臣の高笑いが聞こえてくる。波響には、それが源内の目論みだと分かっていた。知り合いに顔を合わせても、お互いに口外しないという暗黙の了解が成り立つ場所だからだ。2人の間に酒の用意は整っているが、女が呼ばれる気配もない。

 波響は、自らの気を引きしめるためにも、努めて明るく答えた。

「源内さんの言うことにいちいち驚いていたら、肝っ玉がいくつあっても足りません。第一、あなたに始めて会ったのが、江戸で獄死したと聞いた後なんですから。それに、あの蝦夷地開発の計画……。ずっと蝦夷地を見てきた私にさえ、考えつかなかった壮大な夢です。お力添えができるか分かりませんが、話は伺います」

 波響は天明4年、平秩東作(へづつとうさく)によって源内に引き合わされた。東作は昔からの源内の狂歌仲間であり、松前藩とも縁が深い男だった。同時に、田沼意次の命を受けて江差の村上ヤソ兵衛のもとへ派遣され、蝦夷地の情報収集に当たった隠密でもあった。その経歴を見込んで、源内は『藩の有力者の中から協力者を探して欲しい』と要請した。

 東作が白羽の矢を立てた波響は、藩主の道広の実弟だ。非凡な絵画の才と鋭い頭脳を持ち合わせ、柔軟な精神を持つ英才でもある。東作は、波響のふるまいに若き日の源内の姿を見て、この青年ならば真に源内を理解できると踏んだ。そして源内は、東作の眼力に賭けた。波響を味方に引き入れれば、百人力。だが一歩間違えれば、田沼の計画が根底から覆される――。

 杞憂だった。波響は、たちまち源内の懐の広さの虜になった。2人の間には年令を越えた理解と友情が生まれ、心を許し会う仲となった。それ以後の波響は、源内が生きていることは決して他言しないと誓い、隠密活動の目的も聞かずに協力してきた。藩主が田沼意次の蝦夷地開発計画に協力を約束したのも、弟である波響の側面支援があってのことだ。波響は、藩の利益を損なうと分かっていながら源内の理想を信じ、何も追求せずにきたのだ。

 源内は深々と頭を下げてから言った。

「波響様には、お世話になりました。これまで生き延びられたのは、あなたのお力です」

 だが源内はまだ恐れ、迷っていた。波響は、松前藩の指導者となるべき人間だ。最後の瞬間に〝理想〟と〝現実〟のどちらを選ぶかは、神ですら予測できない。〝日本開国〟の計画を打ち明けてしまえば、後戻りはできない。万一波響が松前藩の先頭に立って源内と対立すれば、開国への願いと同志たちを守るすべはなくなる……。

 源内をじっと見つめる波響は、彼の苦悩を我が事のように感じ取っていた。源内が不安をにじませるなど、天変地異に等しい。波響は背筋をのばして腹に気合いを貯め、尋ねた。

「これまで何をなさっていたのか、話していただけますね?」

 源内はじっと波響を見つめてから、小さくうなずいた。

「聞いてしまったら、決断を迫られます。藩を取るか、私を――いや、日本の未来を取るか、この場で選ばなくてはなりません」そして、ぐいと身を乗り出す。「松前を捨てることができますか?」

 波響は、いつかその質問を受ける時が来ると予期していた。どう答えるべきかも思案し尽くしていた。きっぱりと言う。

「今の松前の在り方が正しいとは思いません。欲深い商人どもの横暴、アイヌへの不当な扱い、欠陥だらけの経済――むしろ、憎んでいるといってもいい。だからこそ、あなたの手助けを買って出たのです。あなたには100年先を見つめた遠大な目的がある。そう信じていられたから、おつき合いを続けさせていただいたのです」そして、つらそうにつけ加える。「しかも、見てしまった……。アイヌを騙し、命を奪うのを……。松前の兵士は、罪もない女子供たちにまで銃を向けました。血まみれで悶え苦しむアイヌたちを、笑っていました……。まるで、ウサギやタヌキでも狩るように……」

 唇を噛んでうつむいた波響の姿を見た源内は、決心した。

「松前藩が消滅するかもしれません」

 波響は顔を上げた。その目にはうっすらと涙が浮かんでいる。ノッカマフ岬で目にした惨劇は、彼の心を深く傷つけていたのだ。

 波響は源内の口癖を真似た。

「世界の広さに比べれば、松前などちっぽけな島の田舎町――そうでしょう?」


         *


 源内からアイヌとの条約の全てを知らされた波響は、じっと畳を見つめたまま目を上げずに、震えていた。気まずい沈黙が続く。

 さすがの源内も、視線を落として弱々しくつぶやいた。

「忘れてくだされ。もし、できるものなら……」

 源内は、この場で波響の家臣に捕らえられることを覚悟した。

 波響は我に返って目を上げた。

「は?」

 その声は、まるでうたた寝の最中に叩き起こされた子供のようだった。波響は、源内の青い顔まじまじと見つめる。

 しかし、夢が潰えたと思い込んでいた源内には、波響の態度をいぶかる余裕すらない。

「これ以上、波響様にご迷惑をおかけすることはできませぬ……」

 波響もようやく、源内のしおらしい物腰の意味を悟った。

「ああ、申し訳ありません。つい、ぼんやりと……。こんなとんでもない計画が足元で進められていたとは、にわかに信じられませんで……。あなたの蝦夷地開発に、千島を売るというという裏づけがあったとは……。私のような凡人には、見抜けませんでした」

「大量の黄金が絡むことですので……」

「兄は、黄金の件も知っているので?」

「知っているからこそ、動きが取れずに焦っています。アイヌは隠し場所を明かさない。だからといってアイヌを滅ぼせば働き手を失う。追い詰めれば、ロシアと結託して松前へ攻め込む恐れすらある。幕府に援助を乞えば、蝦夷地を取り上げられる。八方塞がりが、ここ何年も続いています。国後での蜂起も、アイヌへの締め付けが厳しくなったことが原因だったのです……」

「兄は、私に何も知らせてくれなかった……」

「私とて、あなたを騙していたようなものです……」

「お気遣いなく。私は今でも源内様を信じていますから」

 源内が顔を上げる。

「は? では……その震えは?」

 波響は言われて始めて、膝に置いた自分の手がかすかに震えていたことに気づいた。決まり悪そうに両手を握り合わせる。

「ああ……武者震いです」

「武者震い?」

 波響は真っすぐ源内の目を見つめていた。その目に嘘はない。

「どんなことでも、命じてくだされ。命を落としても構いません」

 源内は大きな溜め息をついて緊張を緩めた。

「お人が悪い……」

 波響はニヤリと笑った。

「一生に一度は、あなたを驚かせてみたいと思っていました」

 源内も微笑む。

「爺さんをからかっちゃいけません」

「これは失礼。で、私に何をさせたいと?」

 源内は身を乗り出して声を落とした。

「では、お願いいたしましょう。近く、ツキノエたちの肖像を描くと聞きましたが?」

「全部で12名です。京へ上って、天皇の御上覧をあおぐというのが兄の狙いです」

「兄上に知らせずに、その絵を地図に仕立てていただきたい」

「地図……? 『黄金の砦』の場所を朝廷に伝えるためですな」

「今や、松前藩と幕府、そして出入りの商人どもは〝敵〟となりました。己れの利益のためなら、国がどう転ぼうと頓着しない……そもそも、将来のことなど考えてもいない。彼らの目をかいくぐって朝廷に黄金を届けることは、当面はかなわぬ夢。ですから今は砦の場所を知らせるに止め、いつの日か日本がそれを必要とする時に備えたいのです。しかし、細心の注意を払わなければなりません」

「一橋がありかを知ってしまえば、大軍が押し寄せますからな」

「だから地図は、一見それと分からぬ形をしていなければなりません。しかも、その仕掛けを解く鍵は、天皇ご自身の他に教えてはならないのです。朝廷内部にも幕府の目が光っていますので」

「その大役を、私に?」

「他に為せる者はおりません」

 波響は力強くうなずいた。

「お引き受けいたします。で、どのように描けばいいのですか?」

「共に考えましょう。さて、いいお知恵はありますかな?」

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