4ー11 ラングレー・2025年(現在)

 首都・ワシントンDCの北西、バージニア州ラングレーの森の中に、CIAの本部はある。長官執務室の窓からは、深い緑に覆われて緩やかに波打つ丘が一望できた。心休まる光景だ。

 だがCIA長官はその光景に背を向け、苛立っていた。自分の預かり知らぬ場所で、世界中の情報機関が蠢いていることが気に入らなかったのだ。処理を誤れば、権力を失いかねない。長官は肩書きに固執しない男だったが、地位を死守しなければならない理由がある。尊敬する大統領から委ねられた使命は絶対に放棄できない。

 合衆国の政治は長くグローバリストたち――ネオコンやディープステートとも呼ばれる軍産複合体や国際金融資本家に隠然と支配されてきた。世界の富の大半を握る、ひとつまみの者たちだ。彼らに組織だった命令系統はないが、目指す方向を共有している。

 国家の枠組みを破壊し、ヒト・モノ・カネの移動を自由にし、人類を支配し、君臨する――。

 時に協調し、覇を競い、勢力を広げ、歴史を創ってきた者たちだ。そこにソ連崩壊で行き場を失った社会主義者たちが、保守の皮を被って合流し、アメリカ政治の主流を奪った。究極の目的は、ワンワールドの完成。長官はその主流派からは無視され、傍流でくすぶる〝伝統的な保守〟に過ぎなかったのだ。

 だが、多くの国民は国家の形が溶解し、分断されるのを目の当たりにした。ディープステートの暴走に気づき始めた。偽善的な人権擁護や伝統を抑圧するポリコレに息を詰まらせた。その結果が、〝粗野で感情的な不動産屋出身の大統領〟の出現だった。大衆迎合的なキワモノだと蔑まれた大統領は、しかし選挙公約を着実に実行し、アメリカを〝国民国家〟に戻し始めた。志し半ばで政界から排除された彼は、だが正当な選挙を経て復活した。一見不遜な態度の裏に冷徹な計算と遠大なビジョンを隠し、アメリカの威信を取り戻そうとしているのだ。それは、内戦の危機をも孕む変革だ。それでも歩みを止めず、グローバリズムの暴走を非難し、世界の保守回帰の潮流の先頭に立っている。

 CIAやFBIもまた、グローバリストが君臨する組織だった。国際的な〝陰謀〟を牽引する存在でもあった。21世紀に入ってからのテロや地域紛争の背後に、彼らの策動があることも少なくない。大統領選挙に関してさえ、〝司法の武器化〟を隠そうともしなかった。大統領に復帰した彼は、そんな情報機関の組織改革にも豪腕を振るった。

 改革の先兵として大統領から選ばれたのが、長官だったのだ。国を建て直すために、巨大な権力を与えられた。

 海兵隊の現場から頭角を現した彼が、アイビーリーグ出のインテリたちとは反りが合わないことは〝業界〟の誰もが知っている。思想的には、国防総省の情報機関であるDIAに近い立場だ。その男が大統領の強い要請で、階級を飛び越えて抜擢されたのだった。恨みを買うのは必然だ。万一修復不能なミスを犯せば、指名した大統領に深い傷を刻み、歴史の進路を歪めることになりかねない――。

 長官は大統領との共倒れも覚悟して、重責を引き受けた。アメリカの正義を信じる彼にとって、逃げてはならない使命だったのだ。

 しかし今、長官を悩ませているのは組織内の軋轢ではない。世界の情報機関を揺るがしている『千島アイヌ条約』だ。条約の記録がどこからも発見されないという、現実だ。

 北海道に送り込んだエイジェントからは、夷酋列像が辿ってきた数奇な運命が報告されている。歴史を彩る多くの偉人たちが密かに『黄金の砦』を求めて奔走してきたという。なのに、その痕跡が見当たらない。誰もが黄金を独り占めするために秘密を守っていたとはいえ、2世紀以上も隠し続けられるとは考えにくい。何より、ロシアに配した潜入工作員が一切の情報を得られないのが奇妙だった。エカテリーナが千島列島を売却したなら、その事実が誰にも伝えられていないのは異常だ。工作員は様々な政府機関の上層部に配置してあるが、伝えられる事実はロシア政府の困惑しかない。

 長官も結論を下すしかなかった。

 ロシア大統領でさえ、条約の存在を知らなかったのだ――と。

 その大統領から突きつけられた千島売却の履行条件は『条約締結の経緯を明らかにして、代金の黄金をクレムリンに届けろ』という内容だった。居直りでしかないが、それ以外に取れる行動はなかったのが実情のようだ。

 ロシアの豪腕大統領までを動揺させる〝地殻変動〟――。

 長官が最も信頼する部下、秘密工作責任者の工作担当次官(デピュティー・ディレクター・フォー・オペレーションズ)――略称DDOに作らせた専属チームも、分厚い霧に阻まれたまま突破口を見いだせていない。歴史の奥底から前触れもなく湧き上がってきたそれは、長官の手腕を試そうとする姿なきモンスターにも思えた。


         *


 DDOはCIA長官の数多い副官の1人にすぎない。だがトップである長官の役目は、実務より政治にある。時として議会の証言台に立たされる長官が汚れ仕事に手を染めるのは、組織防衛上、危険すぎた。長官は政治に徹し、『メキシコの工作員が現地の麻薬商人を暗殺した』事実など知らないほうが関係者全員が幸福になれる。したがって秘密工作は、伝統的にDDOが管理していた。

 深夜のDDO執務室――。事務机の上の家族写真だけが唯一の飾りといえる殺風景な部屋で、DDOと若い補左官は乾き始めたサンドイッチをかじりながら事態を分析していた。

 1時間の討議を重ねた末に、DDOは補佐官に言った。

「現状を要約してみろ」

 非合法謀略の基礎を叩き込まれてきた30歳半ばの補佐官は、生え際が後退しはじめている額の汗をハンカチで拭いながら、自分が試されていることを自覚した。数行の言葉で『千島アイヌ条約』が世界にもたらす衝撃を、重要度に従って整理しなければならない。

「条約を認めたとしても、ロシアが千島列島をアイヌ民族に譲る可能性はないでしょう。アイヌ単独で国家を運営することも不可能です。しかし千島は北極海航路の要衝です。どの国がアイヌ民族を懐柔して千島を占拠するかを競い、各国の利害がせめぎ合う紛争地となるでしょう。日露間の対立は先鋭化しますし、中露も競り合うかもしれません。そこに北朝鮮が加われば、さらに複雑な様相が生まれます。ロシアが千島の売却を認めなければ、アイヌ民族が北海道内に自治区を持とうという気運も高まります。中国はアイヌ民族保護を名目に人民解放軍を駐屯させようと画策するでしょう。軍事衝突を引き起こす確率が高まります」

 DDOがうなずく。

「現時点でさえ、中国は北海道を深く浸食している。日本の議員たちが中共を手助けしているという現実も見逃せない。だがそれが中露対立を誘発するなら、悪くもない。問題は、君が見逃した点だ」

 補佐官はミスを犯したことを思い知った。だが、何を間違ったかは分からない。討論の経過は網羅したはずなのだ。

「何を見逃しましたか?」

「我が国の利益は、日本という都合の良い同盟国が、そのままで存在することだ。かの国は常に周辺諸国からの浸透工作を受けているのに、憲法も改正せず、核武装どころか中距離ミサイル配備の論議すらできずにいる。我が国の指導者が誤った政策を押し付けてきたという負い目はあるが、中国、朝鮮のゴリ押しに振り回されて国の進路すら定まらないのが現実だ。沖縄の基地政策が進まない背景にも、彼らの工作がある。その上アイヌ民族の独立という障害が加われば、日本は南北から引き裂かれる。アイヌが天皇にまで謝罪を求めれば、対立が深まって国力が削られていく。アメリカに流入している大量の余剰資金もあてにできなくなる。その間隙に中国が楔を打てば、在日米軍の地位さえ揺らぎかねない。そんなゴタゴタはサウスコリアだけでたくさんだ。中国の太平洋進出を封じるために、日本と台湾を連携させてきた努力も無駄になる。しかも『千島アイヌ条約』は、中国の台湾侵攻に同調してロシアが北海道を襲う根拠にされかねない。ロシアの一部には、アイヌはロシアの原住民で北海道はロシアに帰属すると主張する者さえいる。経済が破綻した中国には起死回生の一手だ」

 その見方は、討議には上がっていなかった。だが、論理的な帰結だ。DDOは補佐官自身が気付くかどうかを観察していたのだ。

「考えが至りませんでした」

「で、我々は何をすべきだと思う?」

「モンスター退治、ですか?」

「最大のモンスターは、誰だ?」

 補佐官はためらわなかった。

「セクフィール」

「意見が一致したな。彼らはグローバリストの頭脳であり、財布だ。このゴタゴタを悪用させてはならない」

「悪知恵と財力を誇るヒュドラ……手強いです」

「しかも、世界各国の政府の深くに入り込んでいる。正面から挑めば、大統領でさえ命が危ない」

「あの、強力な大統領が――ですか?」

「いや、世界中の国の大統領が、だ」

 補佐官はため息をもらした。

「ですね。退治は叶いませんか……」

「折り合いをつける、あるいは飼い慣らすことが望ましい」

「その点では、手を打っています」

「ほう。どんな?」

「重要人物の調査です」

 タイミングを見計らっていた補佐官は、ブリーフケースからファイルを取り出して差し出す。DDOは厳しい目でファイルを読み進めながらうなずいた。デルタフォースの制服を着た、東洋人とも白人ともつかない容貌の男の写真が目に飛び込んで、手を止める。

「この写真はどこから?」

「デルタの教官の1人に、個人的な貸しがありまして。ちょっと脅しをかけてファイルを盗ませました。出すぎた真似、でしたか?」

「いや、お手柄だ。デルタは仲間意識が強すぎて、公式文書以上の資料を出そうとしなかった。ケンジ・ナカニシか……この男を味方にできれば、セクフィールの〝お姫様〟を通じて有益な情報が得られるかもしれない。で、どんな男だ?」

「アイヌ民族出身の自衛隊特殊部隊員であり、SVRからもノムラ教授を守り通している男――。デルタでの評判や、かつての上官や同僚の評価も聞き出しておきました。常に最高であろうとしていた男だそうです。誰よりも優秀でなければ自分の存在を正当化できない、とでもいうように。一種の偏執狂なのかもしれません」

「病的だと?」

「極めて理性的、論理的な戦略家で、強靭な精神力を持った兵士です。少数民族出身だというトラウマが、限界を超えようとする強迫観念に転化したようです」

「有能なのだな?」

「最優秀。特に陽動作戦の立案指揮に関しては、教官さえ舌を巻いたということでした。警護プランにもその片鱗が現れています」

 DDOはニヤリと笑った。

「確かに、教官がやり込められた事実などデルタの外には出せんな。『世界最高の特殊部隊』の名が泣く」

 補左官もうなずいたが、表情に不安がよぎる。

「しかし、セクフィールに取り込まれたマット・ギャラガーについての調査は行き詰まっていまして……」

「そっちは引受ける。知らん男ではない。ヤツの狙いも探り出さなければ、脅威にもなり得る。で、ナカニシは話が通じる男か?」

 大学で心理分析を学んできた補佐官は断言した。

「買収、脅迫は逆効果。CIAにさえ牙をむきかねない一匹狼です。しかし、自尊心と日本人への反抗心を突けば、誘導は可能だと思われます。国際的な視点からの理論的な説得が肝要です。合衆国にも多くの友人がいますから、彼らを総動員すべきでしょう」

「もっと詳しいデータが欲しい」

「軍での分析結果は、そこに」

 DDOは厳しい目で補佐官をにらんだ。

「軍の評価を鵜呑みにするのか? 私が欲しい補佐官は、それほどナイーブな男ではない。生のデータを取り寄せろ。こちらの担当官に1から分析し直させる。日本側にも探りを入れて、集められる資料は残らず持って来させろ」そしてDDOは、手にしたファイルの写真に再び目を落とした。「この男と日本政府の仲を裂くには、どのボタンを押せばいいのか……。それが必要になるかもしれない」

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