4ー10 ツキノエ・1789年(マイナス236年)

 国後は臨戦体勢を敷いていた。

 アイヌが千島を買い取ってからすでに4年、江戸幕府に交渉を持ちかけてから早くも10年が過ぎ去っている。なのに島から和人は去らない。アイヌの暮らしは悲惨の度合いを増すばかりだ。最大の原因は、将軍の交替にあった。1世紀の時を費やして勝ち取った独立の悲願は、はるか彼方の江戸で起こった政変で呆気なく砕かれた。いったんは独立を認めた松前藩も、田沼失脚によって〝条約〟を無視し、商人たちの横暴を黙認している。希望を失った結果、国後では若者たちが爆発した。出入りの商人を殺しはじめたのだ。ツキノエが源内とともに島を留守にしていた隙の、不意打ちにも似た決起だった。ツキノエが国後を離れたのは、ほんの数日間だ。国後のアイヌに溶け込んでいた源内は、『ロシアの軍事力を江戸に誘導して開国させる』という大博打を決意した。ツキノエは案内役として、共にカムチャッカへ渡ったのだ。

 そこへ『国後の若者たちが反乱を起こした』との報が届き、彼らの計画は開始早々に潰えた。急遽国後に戻ったツキノエにとって、実の息子のセツハヤフが首謀者の中心にあったことは驚きだった。彼らをそこまで追い詰めた己れの無力さが、悔やまれた。


         *


 ツキノエは、若者たちに囲まれていた。

 セツハヤフが涙混じりに訴える。

「なぜ止める⁉ 和人どもが何をしてきたか……一番知っている親父が、『武器を置け』と⁉ このまま奴隷でいろというのか!」

 ツキノエは息子の言葉に心をえぐられ、答えることはできなかった。息子から視線を外し、朝日を浴び始めた島を見回す。

 親子の睨み合いを見守る武装した若者たちには、疲れと高揚感、怒りと諦念が滲み出ていた。生きる望みを奪い取られて武器を取らざるをえなかった苦悩が、一人一人の目に深く宿っている。港を見下ろす位置にある丘には、土盛りをした砦が築かれていた。そこここに放置された和人の死体には、蠅が群がっている。反乱に加わった者は、その和人とともに命を捨てる覚悟を決めている。神々と豊かな土地を蹂躙する手先にされた彼らにとって、もはや己れの命さえ価値はないのだ。だが、反乱を許すわけにはいかない。それはアイヌを滅ぼすことにつながる。

 ツキノエは涙をこらえて息子に目を戻した。

「お前には言って聞かせた。我々は千島を買い取った。あれほどたくさんの黄金を差し出したのに、なぜ戦わなければならない?」

「買い取っただと? 俺たちが手に入れたのは、奴らの文字が書かれた紙切れだけだ。あんな紙切れがなんの役に立つ⁉」

「ロシアは、紙切れの言葉を守って島へ来ない。和人にも約束を守らせることができる」

「現実を見てくれ! 暮らしはひどくなる一方だ! 薄汚い商人や木っ端役人どもが約束を守るなら、命を奪いはしない。だが奴らは、紙切れや黄金のことは何も知らない。島を買ったことは黙っていろと言ったのは、親父じゃないか! 紙切れに書いたことしか信じない和人が、それさえ見せずに島から去るのか⁉ どこか遠くでふんぞり返っている天皇とか将軍とかいう奴らが、悪人どもを退治するのか⁉ 待て、というのはたやすい。だが、いつまで待つ? 何を頼りに待つ? 死んで、神々と共に生きろと言うのか⁉」

 ツキノエの本心は息子と変わらない。だが、それを悟らせて戦乱を拡大させるわけにはいかない。日本は条約締結後に重大な政変を迎え、取り決めは事実上反故となった。松前藩は幕府と手を組み、収奪の圧力を強めるばかりだ。条約を知る者を根絶やしにしようとする悪意さえ感じられた。こんな時に条約書を見せたところで、隠し続けている黄金を奪われるだけだ。頼みの綱は日本の皇室のみ。源内ですら、アイヌを守る方法はまだ見いだせない。

 ツキノエは繰り返すしかなかった。

「すでに殺してしまった者は、仕方ない。宝を差し出して許しを乞う。だが、砦に立てこもったところで無駄だ。松前の兵士は倒せても、幕府は黙っていない。次はもっと強大な軍隊がやってくる」

「そいつらも皆殺しにする」

「そして、もっと強い軍隊を呼び込むのか⁉」

「それなら、ここで死ぬ。奴隷ではなく、アイヌとして。今頃は、海の向こうのメナシでも砦が築かれている。戦いは避けられない」

「それで何が変わる⁉ 今度こそ、島のアイヌは皆殺しだ! どんなにつらくとも、必ず陽は昇る。明日を待つのだ!」

「そうして、また次の一日を同じ苦痛に耐えろというのか⁉ 俺たちは人間だ! 和人の――けだものどもの餌ではない!」

 ツキノエは内心の動揺を必死に押さえながら、うめいた。

「今は待つのだ。ひたすら耐えるのだ。確かに今の日本は、私たちとの条約を認めないだろう。しかし、あと10年たてば……あるいは100年後には、和人も首を縦に振るかもしれんのだ……」

 セツハヤフは嘲笑うように吐き捨てた。

「源内の入れ知恵か? 確かに源内は、俺たちの行く末を真剣に案じてくれる友人だ。だが、主人じゃない。死に方は自分で選ぶ」

 ツキノエはついに声を荒げた。そこには、同胞の先頭に立って和人たちを蹴散らした若き頃のツキノエの姿があった。

「死ぬなら、子孫のことを考えて死ね!」

 2人を取り囲んでいた若者たちが、はっと身を震わせる。

 セツハヤフもツキノエの気迫に息を呑んだ。

「親父……」

 ツキノエは息子を怒鳴ったことを恥じるように、声を落とした。

「何もかも、おまえたちが言う通りだ……。私とて、戦えるものなら戦いたい。この手で和人どもを血祭りにあげて、おまえや、仲間や、女たちを守りたい。だが、今は戦ってはならない。確かに、和人はアイヌを苦しめる。しかし、皆殺しまではしない。いや、できない。アイヌがロシアと結託することを恐れるからだ。働き手を失うわけにいかないからだ。だから、黄金の在処を明かさずとも、こうして生きていられる。我々は100年の長きを耐えた。耐えることが、シャクシャインの願いだった。だから、あと100年を耐えよう。アイヌの血を次の世代に残すには、耐え抜くしかない。いつか千島がアイヌの国だと認められる時まで、耐え続けるのだ……」

 親子の激論は、その後、一昼夜続いた。議論は多くの者を巻き込み、さらに続く。問題は徹底して話し合い、妥協できる道を探る――チャランケと呼ばれる部族会議は、アイヌの伝統だ。そして最後には、若者たちはツキノエに従い、武器を収める決意を固めた。


         *


 総勢260名の松前藩兵による鎮圧部隊が根室のノッカマフ岬に到着した時、彼らは予想外の事態に遭遇した。

 戦いは行なわれなかった。岬の砂浜で、ツキノエらに説得されて武装を捨てた若者たちと、成り行きを見守る1000人以上のアイヌが、整然と鎮圧部隊を迎えた。部隊の指揮官はツキノエに対して『命までは奪わないから首謀者を差し出せ』と命じた。その言葉を信じ、ツキノエは息子を含む37人の若者を藩兵の手に委ねた。鎮圧隊は浜に牢を作り、彼らを収容した。

 だが、約束は果たされなかった。後ろ手に縄をかけられた若者は1人ずつ砂浜に引き出され、処刑の準備が開始されたのだ。鎮圧隊を取り囲むアイヌに、抵抗は許されなかった。兵士が持つ鉄砲に素手で戦いを挑むのは、無謀すぎた。彼らはひたすら神に祈り、若者たちの命が救われることを願った。祈りは、天に届かなかった。

 セツハヤフの首が役人に切り落とされた時、ツキノエは涙をこらえて日本語で叫んだ。

「嘘つきどもめ! 地獄へ落ちろ! 神々はおまえらを許さん! この裏切りを忘れん! 貴様らみんな、孫子の代まで呪われろ!」

 反乱首謀者の処刑を指揮する松前藩の役人は、部下に取り押さえられたツキノエを見下ろして笑っていた。

「汚い言葉を吐くな。貴様の舌も切り落としてやろうか?」

「『1人も殺さない』と約束したではないか!」

「人は殺さん、と言ったのだ。貴様らアイヌは、人ではない」そして、再び腕を振り降ろす。合図を受けた処刑人は、無表情に次の首を切り落とした。「私がそんな約束したというなら、証拠を見せてみろ。読み書きもできん畜生が、人並みの口をきくな!」

 ツキノエはがっくりと膝を折り、浜辺の砂を虚しく握りしめた。

 反乱首謀者を閉じこめた牢を囲んだアイヌの間に、呪いの声が広がる。怒りと怨念がこもったその言葉は、うねるように広がって大地を揺るがした。怯えた兵士の1人が、たまりかねて鉄砲を撃った。それをきっかけに全軍の鉄砲が火を放つ――。

 ノッカマフ岬の砂浜は、その日、数100人のアイヌの血と無念の涙を吸い取った。そして鎮圧部隊の中には、一部始終を声も出せずに見守っている男がいた。

 蛎崎波響――。

 指揮官の1人として討伐隊に参加していた波響は、現実の虚しさに唖然とするばかりだった。若く才気あふれる頭脳に無数の疑問がわき上がり、解決の糸口さえ見いだせずにつぶやいていた。

「兄上は、この惨状を見せるために私を討伐隊に加えたのか? 一時はアイヌの独立を認めたというのに……? 兄上は蝦夷をどうしたいのだ? アイヌと協力できなければ、蝦夷開発は行なえないのに……。自分たちさえ安穏なら、アイヌはどうなってもいいのか? 私が何度もお願いしたことを理解してくださらなかったのか……? 私に全権を預けてくだされば、こんな犠牲は出さなかったものを……。これが松前の姿か? 日本の有りようか? なんだ……この血は、なんだ……? これほどの血の上に、何を作り上げるのだ……? 私は、こんな松前を守らなければならないのか……?」

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