4ー2 エカテリーナ2世・1775年(マイナス250年)

 18世紀も半ばを過ぎた頃、ロシア宮廷は才気を極めた女帝を戴いて、世界に冠たる栄華を誇っていた。ドイツの小国の公女に生まれたゾフィー・フリデリーケ・アウグスタスは、ロシアの基礎を築いたピョートル大帝の血を引くピョートル3世の下に嫁いだ。しかし愚鈍な夫は、こともあろうにプロイセンの王を崇拝していた。まるで、飼い主の足にまとわりついて靴を舐める犬のように。その結果、国王は近衛軍の不満を買い、クーデターで王の座を奪われた。代わって王位を得たのが、その妻・ゾフィー、すなわちエカテリーナ2世だった。それが、公に語られる政権交替の経緯である――。

 現実には、クーデターは政治的野心の権化であったエカテリーナが先導したものだった。国王追放の先鋒となった近衛兵中尉、グリゴーリー・オルローフが、エカテリーナのベッドの相手であったことは公然の秘密だ。グリゴーリーの子を身篭もったことが、国王に反旗をひるがえす引き金となっている。エカテリーナ2世はその後30年以上にわたって、広大なロシアを統治し続けた。

 女王となったエカテリーナは、無能な国王の下で圧し殺していた才能を開花させた。〝ペンの女王〟の異名を取ったエカテリーナは持ち前の教養を発揮し、ロシア宮廷をヨーロッパ随一の文化センターに育て上げた。1764年に建造されたエカテリーナの離宮は、後にエルミタージュ美術館と呼ばれることになる。一方で、エカテリーナ2世の王政は寵臣と貴族、そして官僚による支配体制を固めて農奴制を強化した。貪欲な領土の拡大によって引き起こされる被占領民族の不満、そして周辺各国との衝突も絶える間がなく、不安要素は充満していた。エカテリーナは最高権力を奪取した瞬間から〝剣の女王〟であることも運命づけられていたのだ。

 そのクーデターから13年後――。彼女が愛する男は、エカテリーナを女王の座へ押し上げた功績者の1人でもある、グリゴーリー・アレクサンドロヴィッチ・ポチョムキンへと変わっていた。

 エカテリーナは女王となって以来、真に満たされたことはなかった。欲望がおもむくままに男を乗り換えたが、彼女の才気に釣り合う知性に出会う幸運は訪れなかった。フランス風の優雅さに彩られた宮廷に、性愛の腕自慢は数えきれない。だが、他国の物真似に熱狂する猿では、政治の助けにはならない。国の舵取りに神経をすり減らす女王が求めていたのは、修羅場で決断力を発揮できる補佐役――しかも、愛情に裏づけられた関係を持つ真の男だ。そして、ようやくふさわしい男を見出した。それがポチョムキンだった。

 政治と戦争を操るポチョムキンの手腕を、エカテリーナは高く評価している。むろん、雄としての魅力も――。自分が求め続けた〝分身〟の存在に気づいたエカテリーナは、戦場におもむいたポチョムキンに愛を告白する手紙を送った。およそ1年後、ポチョムキンは彼女の寵愛を一身に受け、正式に補左官の座を勝ち取る。そして2人は1774年の末、ペテルスブルグの聖サムソン教会で密やかな結婚式を行なった。音楽や詩を愛し、外交や経済でも辣腕をふるう戦士――限りない才能を秘めたポチョムキンは、公私共にエカテリーナの右腕として歴史を動かす舞台に登場したのだった。


         *


 その夜も、ポチョムキンはエカテリーナの寝室にいた。過剰なまでに飾り立てられ、広く、天井の高い宮殿の寝室は、そこに1人で入った者に底なしの孤独を見せつける。どんなにたくさんの蝋燭を立てようとも、部屋の隅々に巣食う暗がりから悪魔たちが湧いて出る。搾取される農夫の家がすっぽりと入りそうなベッドの巨大さが、人間の矮小さを思い知らせる。それはエカテリーナの強靭な神経を持ってしても、時にねじ伏せることが困難な〝恐怖〟だった。登りつめた者だけが知る〝権力者の恐怖〟――その恐怖から逃れるためにも、彼女は強い伴侶を必要としていた。

 だが今は、そのベッドの脇に、ダイヤモンドや金の刺繍で飾られた衣装が無造作に投げ出されている。いくつもの巨大な勲章が重すぎると言わんばかりに、ポチョムキンが脱ぎ捨てたものだ。我がもの顔に戦場を駆け、巧みに宮廷を泳ぎわたる彼にとって、寝室など畏怖の対象ではない。砲弾が飛びかう戦場での野宿さえ笑って楽しめるポチョムキンは、人の命が一瞬で消え去ることを知っている。ましてや、物は物にすぎない。彼には建築物を単なる建築として観賞する冷静さが備わっていた。それは、これまでの〝エカテリーナの男〟たちに共通する無神経さとは対極の、体験に裏づけられた諦念だ。そして、エカテリーナが補佐役に求めた〝強靭さ〟だった。

 エカテリーナはポチョムキンを選んだことに満足していた。10歳も下のたくましい身体に貫かれながら、心の底から安心しきっていた。激しい愛撫に身を燃やし尽くした女帝は、肩に腕を回したまま眠ろうとするポチョムキンに語りかけた。ベッドの中でロシアの舵を切ろうとする時の話し方だ。

「イルクーツク長官の話を聞いた?」

 ポチョムキンは、トルコの戦場の太陽で焼かれた顔をわずかに上げた。女帝が政治の話をすると察したとたんに、眠気は醒めていた。片目に、強い光が宿る。もう一方の目は戦場で失っている。

「また、気が重くなる話か?」

 ロシア全土を恐怖の渦に巻き込んだ『コサックの大反乱』を率いたプガチョフは、1ヵ月前に処刑された。『まずは四ツ裂き、その後に首切り』というのが裁判の結果で、死刑はモスクワの大観衆の前で行なわれた。『皇帝は反乱を容認しない』という強烈なメッセージだ。だが、反乱の原因は何一つ解決されていない。対ポーランド・トルコとの戦費を賄うための重税、農奴の急増、ロシアに占領された諸民族の抵抗、宗教の混乱――第2のプガチョフはいつどこに現われてもおかしくない。ポチョムキンはそれを警戒していた。

 しかし女帝は、悪戯っぽく微笑んでいる。

「日本との間の島々のこと、知ってて?」

 ポチョムキンの脳裏に、世界地図が描かれる。宮廷に出入りする商人たちからの情報が引き出され、ロシア最東端の政治状況が焦点を結んだ。しかし、ポチョムキンの情報収集力を持ってしても、データは多くはない。地図の空白地帯だ。

「クリル諸島? 冒険好きの毛皮商人が命を棄てる地の果てだ」

 エカテリーナはさらに笑みを広げた。

「地の果てなどではないらしいわ」

「どういうことだ?」

「そこの原住民……アイヌというんだそうだけれど、彼らが我が国に取り引きを申し出てきたというの。『ロシアがカムチャッカより南下しないという条約を結べば、代償に大量の黄金を支払う』と……。彼ら、クリル諸島を買い取りたいと言っている」

 ポチョムキンは女帝から腕を外し、上体を起こした。アイヌは未開の部族だと聞いた記憶がある。クリル諸島に、条約を提案できる〝民族〟がいることが意外だ。だがそれは、地理学の問題だ。今、重要なのは経済学だ。

「黄金? どれほどの?」

「船にして50隻以上。長官はカムチャッカの責任者に命令して、実際にそれだけの量が貯えられていることを確認させている」

 ロシアが抱えている問題の多くは金で片がつく。辺境の小島など失っても構いはしない。ポチョムキンは言った。

「売ってやれよ。今は、ヨーロッパが大事だ。記憶によれば、アイヌは文字さえ知らない野蛮人だ。条約などという大それた物がまともに扱えるはずもない。カムチャッカに全権を預け『できるだけたくさんの黄金を奪え』と言ってやれ。どうせアイヌからは税金も取れずにいるはずだ。無理に占領して寝首をかかれるより利口だ」

 エカテリーナは、チェスの盤上に駒を置くように応えた。

「でも、その向こうに控えている日本はどう出る? オランダ人の話では、馬鹿にできない軍事力を持っているそうよ。『兵士は命知らずで、王への忠誠心が強い』と。わたしたちが手出しを諦めたら、アイヌを併合して押し寄せてこないかしら?」

 ポチョムキンはうなずいた。確かに日本の軍事力には侮れないものがあると聞いている。ポチョムキンの頭脳は急激に回転を上げた。答えが出たのは、5秒後だった。

「日本にも同じ条約を結ばせる。クリル諸島をアイヌに売らせるのさ。日本は他国との商売を禁じているが、オランダとアイヌは例外だそうだ。ロシアと日本の間にアイヌの国を作れば、彼らを介して日本との通商路も開ける。国境を定めれば、攻め入られる心配も減る。しかも黄金が手に入るなら、一石三鳥だ」

 エカテリーナは、ポチョムキンの鋭さに改めて感嘆していた。だが、エカテリーナは表情を変えずに、さらに質門を続ける。

「それもそうだけど……ロシアの東に不凍港が欲しくなくて?」

 次の答えには2秒もかからなかった。

「どうせ相手は未開の土人だ。東方開発に力を入れる余裕ができたら、武力で奪い返せばいい。条約など、所詮、紙切れ。燃やしてしまえばそれきりさ。ただし、この件は一切記録には残させるな。そうすれば、100年もすれば歴史に闇に消え去る。今は、トルコを叩きつぶす軍資金が欲しい。ここで勝たなければ、やっとの思いで併合した周辺の民族を押さえつけるのも難しくなる。いったん崩れだしたら、ロシアがこの先どう転ぶか見当もつかない。東方に色気を出しているうちに祖国が消えたんじゃ、元も子もない」

「でも、肝心の黄金はカムチャッカにあるのよ。どうやって運ぶ? シベリアを横断するのでは、現地人に襲われる危険が高いわ」

 ポチョムキンは自分が試されていることを知っていた。そして、楽しんでいた。だが軍人である彼にとって、物資の運搬は消去法で答えが出るルーティーンワークだ。

「船だな。日本の協力を取りつけて、海路を開く。オランダ人は『ナガサキ』とかいう町に出入りしている。できない道理はない」

 エカテリーナは声を上げて笑った。不意の笑い声に目を丸くしたポチョムキンの胸毛に、乳房を押しつけてしがみつく。

「だからあなたが好きなのよ」

 ポチョムキンも女帝の背中に腕を回した。

「で、君の意見は?」

「あなたと同じ。実はもう、全権委任状と領収書をイルクーツク長官に渡しているの」そして、小さくウインクをした。「『できるだけたくさんの黄金を取り上げろ』と命じて、ね」

 ポチョムキンは、エカテリーナが言いだしたら聞かない性格だと承知している。相談を持ちかけられた時には、すでに結論を出していることも多い。複雑な問題を話し合うときには、言い込められることも稀ではない。しかし、彼の意見は常に重要なオプションとして政策に組み込まれてきた。今回の決断にも、不満はない。

「君らしいやり方だ」

「あなたの答えは分かっていたから。でも、運搬方法は意外。日本を巻き込むなんて。具体的にどうしたらいいか、煮詰めてね」

「今、か?」

「いいえ、もう一度わたしを愛してから」

 ポチョムキンも笑い、再びエカテリーナを押し倒した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る