第4章 発端
4ー1 真駒内駐屯地・2025年(現在)
レネが真駒内駐屯地の地下に戻ったのは4日後だった。その間、野村は駐屯地に缶詰になったまま、情報収集に明け暮れた。中西はレネの到着を知らされて、数分前に会議室に駆けつけている。それまで2日間、野村とは顔を合わせていなかったが、今はテーブルを挟んで睨み合っていた。
レネは、中西の隣の椅子を引いて崩れるように座った。
「再度、セクフィールから全権を委ねられました。わたしの意見はセクフィールの意志だとご判断ください」
野村がうなずく。
「思ったより時間がかかったね」
「内容が内容ですから。セクフィールといえども、世界のパワーバランスには安直に干渉できません。本当に疲れました。で、条約締結の経緯は解明できそう?」
「進んではいる。これまでの知識を打ち壊されるのは苦痛だがね」
中西が言った。
「自衛隊にはセクフィールからの連絡はなかったが、君たちは条約の信憑性をどう判断している?」
「文書はどれも真正だと結論しました。可能な限りの関連機関を極秘裏に動員して分析した結果です。原本が失われているので物理的な検証は不完全ですが、押されている印やサインも現存する古文書と一致するという画像解析結果が出ました。『千島アイヌ条約』、すなわち『アイヌ民族が全千島列島を買い取る取引を完了させた』ことは事実だと認めます」
砦に蓄えられていた黄金は、千島列島を買収する代金として支払われていたのだった。
野村がうなずく。
「問題は、どうやってロシアを納得させるかだが……原本なしで連中を説き伏せるのは難しい。しかも非公式に、『国際条約はフランス語で書かれていなければ無効だ』とごねているという。条約を否定できないのなら、引き延ばしを続けるという作戦だな」
「確かにフランス語の使用が慣例ですね。1867年のアラスカ売却の条約もそうですし……」
中西が自信ありげに言った。
「苦し紛れの言いがかりだがな。事は日露がアイヌと個別に結んだ領土取引だ。しかも、国際法の概念がまだ固まっていない17世紀に、だ。日本もロシアも、代金を黄金で受け取ったという証文を添えている。あれほどの古文書が完璧な形で保存されていたことの方が驚きだ」
「決して錆びることのない黄金で密封されていたましたからね。大した知恵者がいたものだと、お父様たちは驚いていました」
それでも中西の表情は浮かない。
「国際法上から言えば、千島は今でもアイヌの所有地だと言い切れる。だが、現実にはロシアが占拠している。軍が撤退しなければアイヌはもちろん、他国は手が出せない。しかも彼らには、千島列島を手放せない理由がある」
野村の視線が厳しさを増す。
「契約には関係がない」
「だが、ロシアには死活問題だ。有事に海峡が封鎖されれば使える航路は宗谷海峡の北半分だけで、千島の間を抜けなければ艦隊が太平洋に出られない。カムチャッカの基地も、オホーツク海が内海化されていなければ維持が困難だ。ミサイル原潜の隠れ場所は北極海にシフトしたが、軍事力の維持が不可欠な彼らには千島が生命線だ。大量の資源が眠る北極海の囲い込みにも支障が生じる。ウクライナ戦争でヨーロッパ側の不凍港は壊滅状態だから、東側まで失う訳にはいかない。島自体も大きく、経済水域も巨大で世界有数の漁場だ。鉱物資源やメタンハイドレートなどのエネルギー供給源としても有望視されている。島を失う事は、未来を失う事だ」
野村にも、その理屈は理解できる。ため息混じりにうつむいた。
「ロシアの勝手な都合だがな……」
「だが、正論は軍事力で踏みつぶされる。だからこそ、西側諸国はこの条約の一般公開をためらっている。うかつに公にすれば、その反動が世界を壊しかねないからだ。ロシアは今、窮地に立たされている。国力を支えるのは天然資源と核兵器だけだが、アメリカのシェールオイル生産再開で原油価格は下落している。水素などの新エネルギーも台頭し始めた。結果、ヨーロッパへの影響力も弱まった。太平洋では中国がアメリカに分断工作を仕掛けて勢力を広げようと必死だが、経済的には回復不能だ。だからこそ、人民を犠牲にして軍備を拡張している。しかも中国は、北海道や千島列島にまで権益を広げよう狙っている。それは、地政学的に極めて重要な拠点だからだ。ボードゲームに例えるなら、オセロの角だ。ここを取らなければ海洋制覇はおぼつかない。ロシアと中国は友好関係にあるように見えるが、西側への対抗上、体面を繕っているだけだ。両者とも、軍事力に頼るしかないのが現実だ。だから余計に、暴発させるわけにはいかない。その口実は与えられないんだ」
野村が厳しく問う。
「アイヌの権利を諦めろというのか⁉」
「熱くなるな。正攻法での突破は難しいということだ。打てる手は打った。味方も多い。おまえは、江戸幕府がアイヌと条約を結んだ経緯を解明してくれ。ロシアの逃げ場を封じるには不可欠なカードだ。文科省が極秘の専門家チームを組んだが、御用学者は既成の解釈にしがみつくだけの能無しばかりだ。お前が頼りなんだ」
野村の目が意外そうに中西を見つめる。
「俺が?」
「事実、砦を発見した」
「だが、俺が働くのはアイヌのためだ! 戦争のためじゃない!」
「自分たちは、戦争を避けようとしている」
2人のすれ違いを感じ取ったレネが、仲を取り持つように言う。
「早速ですが、研究の成果を聞かせてもらえませんか? 手がかりぐらいは見つかったんでしょう?」
野村も息を静める。
「確かに、いがみ合っている時じゃないな。条約の正当性を証明できなければ、対抗しようもないし……」
「わたし、早く聞きたくて急いだんです!」
「だな……。第一に分かってきたのは、千島列島の購入はアイヌ側から持ちかけたということだ」
レネが身を乗り出す。
「幕府に密使でも送ったんでしょうか?」
「長くて複雑な話だ。年代の順を追って話す」
中西は仕方なさそうにうなずいた。
「私も聞かせてもらおう。複雑なのは覚悟はしていたしな」
野村は即座に講義の口調に替わった。
「日露双方の歴史を見ると、『千島アイヌ条約』を締結する以前には記録に残るような人的交流はない。漂流民は別だが、日本は鎖国を国是としていた。ロシアとの直接取引は考えられない。ところがその時代でも、ロシア経由でさまざまな物品が日本に入っている。たとえばラッコの毛皮や中国で生産された『蝦夷錦』という織物だ。列像に描かれている族長たちが着ている竜の刺繍がある織物が、蝦夷錦だ。それらの産物は江戸市中にも出回っていた。江戸や大阪の商人たちは、蝦夷地での密貿易で莫大な利益をあげていた。ロシアとの仲を取り持ったのがアイヌだ。アイヌは本来、海洋交易民族としてオホーツク海を自由に行き来していた。日露間に公式の意志疎通ラインが存在しなかったために、アイヌが仲介役になったわけだ。その利点を最大限に生かした。何世代もかけて千島買収の準備を整え、両国に打診した。最初に取引に応じたのはロシアだ」
中西の表情が曇った。
「国家がないアイヌに、それほどの政治力があったのか?」
「政治力とは、結局は経済力に行き着く。アイヌは彼らの注意を引くに足る〝力〟を持っていたんだ。大量の黄金だ。文字は書かなくとも、ロシア語や日本語を理解する者は多い。世界の動きを的確に把握し、日露両国の国内情勢にも敏感だった。現実にエカテリーナ2世は千島列島を売り払った。当時のロシアは征服欲の旺盛な超大国に成長していた。アイヌが大量の黄金を準備していることを不用意に知らせれば、軍事力で奪われる恐れも大きい。だが条約が結ばれた当時、ロシアはヨーロッパでの戦乱に忙殺され、極東の支配は毛皮目当ての商人に任せきりだった。シベリア以東の諸民族はロシアに反抗を続けていた。カムチャッカは当時から極東支配の要衝だったが、軍事的には孤立していたんだ。たとえば1779年、カムチャッカはイルクーツク省の総督に当てた手紙で『助けてくれ』と泣きを入れている。北からはチュクチ族やコリャーク族の攻撃、南からは松前の脅威を受けていたからだ」
「松前藩がロシアと戦ったのか?」
「カムチャッカが日本の軍事力に怯えていた、ということだ。だが、ロシアの中央政府には援軍を送る余裕などなかった。それどころか、ポーランドとトルコを相手に戦う軍資金を求めて喘いでいた。ツキノエは、そのロシアの窮状を見抜いて交渉を開始した」
「大した情報網だな」
「文字を持たないからこそできた離れ業だろう。アイヌは長い年月を重ねて、人の言葉を記憶し、分析する能力を磨き続けた。しかも〝温和な原住民〟として扱われていたため、警戒心を起こさせない。最高の諜報員だよ。カムチャッカに出入りするアイヌが、ロシアの商人や軍人から情報を集める。それをツキノエたちが分析、評価して、交渉を開始した……」
「だとしたら、黄金はどこで手に入れた? 大国を動かす量となると、並大抵のものではあるまい?」
「それこそが、この計画のもっとも驚くべき点だ。俺は『黄金の砦』はカムチャッカ近くにもう1カ所あったと確信している。おそらく千島列島東端のシュムシュ島かパラムシル島だろう。ロシアを交渉に引き込むには、実際に黄金を見せる必要がある。だが国後では、見せるにも運ぶにもロシアから遠すぎる。俺の仮説が正しいなら、当時のアイヌは国後の砦の2倍の量の黄金を準備したことになる。それほどの砂金を2、3年で集めるのは不可能だ。千島には金の鉱脈は少ないようだし、アイヌにとって実用的な価値がない黄金が理由もなく集められるはずもない。千島を買った砂金は、その目的のためだけに貯えられたと考えるべきだ。出所は北海道本島。大雪山を中心にした中央地帯と道南には、何度かゴールドラッシュを起こした金鉱脈がある。何百何千というアイヌがわずかな砂金を運び続け、あれほどの砦をいっぱいに満たした」
「なんだと⁉ それにいったい何年かかる?」
「100年。1世紀という時間をかけて、砂金を集め続けたんだ」
「千島を買い取る計画がそんな前から……?」
野村はニヤリと笑った。
「条約締結より1世紀前にアイヌを団結させた男――」
中西は叫んだ。
「シャクシャイン!」
野村は平然とうなずく。
「シャクシャインの反乱の発端はアイヌ間の部族対立とされてきたが、砂金掘りの和人が静内川の生態系を破壊したことも重要な要素だ。アイヌは当然、和人の黄金への執着を知っていた。裏を返せば、黄金は和人を屈服させる手段になる。シャクシャインは和人の罠によって謀殺されたというのが定説だが、彼ほど類い稀な統率力を持った指導者が、騙し打ちにされたといわれるコシャマインの前例を知らないはずはない。シャクシャインは罠だと知りながら、殺される道を選んだんだろう。彼は正確に未来を予測していた。武力による抵抗は、さらに強力な敵を招き寄せるだけだ、と」
「だから砂金を集めさせた……?」
「和人の侵略は、止めようのない時代の流れだ。たとえ松前藩を全壊させても、徳川幕府は黙っていない。蝦夷地の膨大な資源を手放すはずがない。いったん戦争を始めれば戦火は際限なく拡大し、アイヌは滅ぼされる……」そして野村は、言葉を区切って息を整えた。「ここからは俺の仮説だ。そもそも部族間の抗争というのが、シャクシャインたちの情報操作だったと思う。アイヌが団結すれば、松前には脅威だ。だから首長たちは分裂して戦っていると見せかけて油断させ、アイヌの今後をどう守るかという協議を重ねていた。和人の国は成長と拡大を求める中央集権の階層社会だ。だから軍事的に強い。一方のアイヌ社会は協調と持続性に価値を置き、国家という強大な権力は産み出さなかった。ロシアや日本と交易してきた彼らが、国家権力による支配を知らないはずはない。部族という小さな権力単位も、すでに持っている。だが、国家は作らなかった。作れなかったのではなく、積極的に拒否したんだ」
「なぜ……?」
「それが、アイヌだからだ。国家による統制はアイヌの精神世界と相容れない。和人にとって蝦夷地が危険な辺境だった時代は、アイヌは自分たちが望む社会を維持できた。しかしシャクシャインの時代には海産資源は乱獲され、山の木々はシステマチックに切り倒され、生活の基盤である自然が収奪されていた。このままでは、対決は避けられない。だが和人と戦って勝つには、和人と同じ国家権力を作って武装するしかない。それはすなわちアイヌの誇りを、アイヌである事そのものを捨てることだ。神々への裏切りに等しい。解決策は、民族の生存に最低限必要な土地を買い取ることしかない。当時の首長たちは、そう見切った。そしてシャクシャインは、独立への願いを絶やさぬように、罠による死を受け入れた……」
「千島を手に入れるために、歴史を欺いていたのか……」
「結果的には、な。自分たちを無害で純朴な原住民に見せかけ、仲間同士で争う未熟な共同体を装う――それがアイヌの戦略だった。団結して抵抗を企んでいると知られれば隣国の不安をあおり、本当に分断されるからだ。アイヌと直に接触した他国民の多くは、政治権力の統制なしで高い精神文化を保つ共同体への羨望を書き記している。日本人もロシア人も、大方の見方は変わらない。一方では、欲望やねたみのままに財宝を奪い合い、殺し合うような浅ましいアイヌの姿が数多く記録されている。部族間の武力衝突も珍しくないとされている。民族には様々な側面があって当然だが、この2つはあまりにかけ離れている。だが、一方が身を守るための嘘だったなら理解できる。アイヌが『こう見られたい』と望んだ姿が記録され、虚像が定着したんだ。文字を持たないアイヌに自己弁護はできない。する必要もない。当時のアイヌの中ではユーカラによって真実が語り継がれていたからだ」
レネが口を挟んだ。
「土地を売買するという習慣はその頃からあったのですか?」
野村は深くうなずいた。
「江戸市中はバブルに浮かれ、土地転がしが盛んだったそうだ。これほど大がかりな取り引きは例がないだろうがね。蝦夷地という辺境での壮大な取り引きを可能にしたのは、命を捨てて民族を守ろうとしたシャクシャインの夢だ。彼の夢は、民族の夢へ育った。100年もの間、アイヌは和人の収奪に喘ぎながらも黙々と黄金を集めた。和人の支配が及ばない千島に砂金を運び、貯え続けた。黄金を武器にして民族を解放する英雄が現われる未来を信じて……」
中西がつぶやく。
「それがツキノエか……。それにしても、1世紀もの間、アイヌが砂金を集めていることに誰も気づかなかったのか? その仮説が正しいなら、北海道全土のアイヌの組織的な行動だったんだろう?」
「当時、金は掘り尽くしたと考えられていた。これも、アイヌの情報操作だろう。和人と対等な取引をするために、多くの鉱脈を隠していたに違いない。和人が掌握していた地域は蝦夷地のほんの一部にすぎないし、多くはアイヌの言葉を知ろうともしない。情報を得る手段を自ら放棄していたんだ」
「ツキノエは、巨額の黄金を手にしていながら和人の横暴に耐え、じっと時が来るのを待っていたわけか……。大した精神力だな」
「時代は変化する。条約締結当時には、シャクシャインの頃には関わりが薄かったロシアという強敵も現われた。ロシアと日本を同時に交渉に引き込む状況が整わなければ、迂闊に動き出せない。それでも、時代はツキノエに味方した。彼らは好機が到来したと判断し、まずはロシア女帝、エカテリーナ2世に交渉を持ちかけた」
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