第2章  軌跡

2ー1 札幌・2025年(現在)

 札幌中心部を貫く『大通り公園』の近くにも、まばゆい陽射しが降り注いでいた。取り壊しを待つばかりの古いビルに、暖かさが染み込んでいく。野村は、大量の文献を分類する手を休めて窓の外に目を移した。

 2階の窓からは、芝生で幼児と戯れる夫婦の姿が見えた。苦い思いが胸を締めつける。唐突に訪れた中西との再会が、捨て去ろうとした記憶を蘇らせていた。

 背後から近づいていた中西が、窓のカーテンを閉じる。

「何度言えば分かる? 窓には近づくな」

 振り返った野村は中西を見据えて、鼻先で笑った。

「真っ昼間に狙撃なんかされるか。こんなカビ臭い部屋に閉じこもっているのも、居場所を隠すためだろう?」

 野村は真駒内基地に幽閉されるものだと覚悟していたが、中西はすでに別の拠点を準備していた。言葉にはしなかったが、隊内からの情報漏洩を恐れたらしい。

「殺されかけたのを忘れたのか?」

 高圧的な態度に怒りを覚えた野村も、炎を吹き上げるベンツを思い返して口をつぐんだ。中西が優秀なボディーガードであることは間違いなさそうだった。自身に満ちた無駄のない動作は、10年の歳月が中西を〝兵士〟に鍛え上げたことを物語っている。

 別人だった。

 すでに3日を共に過ごした今でさえ――いや、今だからこそ、幼なじみであることが信じられない。

 野村は10年前の苦悩を意識して遠ざけてきた。妻子を奪われた喪失感、理不尽な暴力に対する怒り、復讐を焦って煩悶する身体、1人では何もできないという現実――。焦燥、無力感、絶望が諦めに変わったのは、数年が過ぎてからだ。それ以来野村は、芸術の研究に生きる道を見いだし、過去から逃れるために没頭した。

 何があろうと、何をしようと、妻は戻らない。殺された子供も、帰らない。忌まわしい記憶は、封印するしかなかったのだ。

 部屋の中央のテーブルには、列像が無造作に広げられている。野村は机を埋めた歴史書と美術文献の山に目を戻した。意気込みに反して、うんざりとした溜め息がもれる。職場から持ち出したマックブックと資料を記録した外付けSSDは置かれているが、機密保持のためにネットにはつながれていない。マックからは無線LANカードまで外されている。ハッキング対策ではあったが、些細な調べものにも数時間を要しかねない、何世代も前の環境だ。

 3日間、外にも出ていない。長時間座り続けた全身は強ばり、集中力が萎える。その上、『部屋の隅の簡易ベッドで眠れ』と命じられている。息を抜ける場はどこにもなかった。公安に拘束された時でさえ、今より自由だった。しかも中西とは、ほとんど会話もない。警護とは名ばかりで、その実質は〝監視〟なのだ。

 過去のわだかまりが膨れ上がり、解消される希望はない。

 2人は無言で睨みあった。

 と、ドアがノックされた。中西は野村から視線をそらし、ジャケットのボタンを外してドアに寄った。コルトM1911A1を、素早く脇のホルスターから抜く。デルタフォースでの訓練から愛用していた45口径の自動拳銃だ。コルトの弾丸は初速が遅いために敵の身体を貫通せず、体内で止まる確率が高い。流れ弾で人質や周囲に被害を与えにくく、殺傷力も高まるという利点がある。テロリスト制圧に有効な武器であり、中西の腕の一部と化した相棒だった。

「誰だ?」

『レネです』

 フランス語を日本風に変えた発音は、他の者には真似できない。いったん本国に戻っていたのだが、予想外に早い帰りだった。

 意外そうな表情を見せた中西は、銃を構えたまま鍵を外した。

 大型の書類入れを抱えたレネは、部屋に入るなり2人の間の緊張を嗅ぎ取った。かすかに首をかしげて中西に問う。

「何かありました?」

 中西は廊下の安全を確認してから、ドアに鍵をかけた。

「大したことではない」

 部屋に入ったレネは疲れ果てた様子で書類入れをテーブルに投げ出し、ソファーに座り込む。厳しい口調で言った。

「あなた方がいがみ合うことを、わたしたちは好みません」

 野村がレネを見ようともせずに言った。

「個人的なことだ」

 レネの口調の冷淡さが増す。

「セクフィール家は正式に列像調査を支援すると決定しました。中西さんもオブザーバーとして認められました。今後はわたしがセクフィールの代表です。ノーと言えば、その場でチームは解散です」

 野村は、10年前の出来事に触れたくなかった。説明するには、過去に戻らなければならない。しかし、レネの目は真剣だ。話題を変えたかった。列像を指差す。

「じゃあ列像は、自由に分析していいんだね?」

 絵は12枚揃っていた。ブザンソンでも不足していた1枚は、札幌市内の三岸好太郎美術館が所蔵している複製画で補った。

 レネはうなずいた。

「謎を解くためであれば、破壊しても異義は申し立てません」

「そこまでしなくたって……。X線写真はぜひ撮りたいがね」

 レネは、書類入れを指差す。

「科学的分析データはそこに。透過写真などの基本的な調査は済ませてあります。その他の調査方法はあなたにお任せします」

「俺は何より、セクフィールと列像の関係が知りたい。想像もしなかった歴史が隠されているようだからな」

「その前にあなた方の話を聞かなければなりません」レネは中西を見た。「お2人の間に何があったのですか?」

 中西が目をそむける。

「終わったことだ……」

「わたしたちは3人で列像の秘密に挑むのです。それも、ロシアの襲撃から逃れながら。協力できないならチームは機能しません。中西二尉、あなたを外すのは簡単です。日本政府が困るのでは?」

 中西は、政府がセクフィール家に協力する代償に何を得ているのか知っている。しばらく考え込んでから、野村の顔色を伺う。

「いいのか?」

「勝手にしろ」

 中西はソファーに座ると、ゆっくりと語り始めた。

「私たちは同じ村に生まれた。伝統的にアイヌが多く住む場所だった。私の両親は子供の頃に死んで、野村の家に引き取られた。目に見えない差別は常に感じたが、2人一緒だったからつらくはなかった。私たちは親友――いや、戦友だった。ともに支え合って、アイヌに対する偏見に抗い続けた。あの事件も、戦争のようなものだった……。大学に入ってすぐ、同じ女性に恋をしてね。彼女が選んだのは野村だった……」

 レネは、がっかりしたようにつぶやいた。

「恋と戦争は手段を選ばない?」

 中西は鼻の先で笑った。

「そんなお遊びなら、今ではきっと笑い合っていられる……。野村に負けるなら仕方ないと、私は諦めた。ただ、別の場所で新しい生活を始めたかった。だから、自衛隊の入隊試験も受けていた。あの事件は、そんな時に起こった……。問題は、彼女がアイヌ系ではなかったことだ。彼女は親族の反対を押し切って、野村と結婚すると宣言した。すでに野村の子を宿していて、肉親との縁も切ると言った。だが、彼女の兄が暴力団の組員でね。酔った勢いで仲間を連れてアパートを襲った。野村もその場に居合わせた。妹が妊娠したと知ると、兄は殴り倒した彼女の腹を何度も蹴ったそうだ。野村は半殺しにされ、彼女は連れ去られた。彼女は流産が原因で、数日後に死んだ。そして全ては野村の責任にされた。また、アイヌだ……酒に溺れて、女房子供を殴り殺した……。噂はあっという間に広められた。警察は無実を認めたが、噂は消えない。彼女を殺した兄は、刑期を終えて元の組員に戻っている……。信じられるか?」

「人間の、暗い一面です」

 中西は自嘲するように唇を歪めた。

「さすがにユダヤ人だな……。一部始終を見守っていた私は、心を決めた。アイヌを捨てよう、とね。その結果、自衛隊で危険を扱うプロになった。権限も与えられた。それが、野村には許せない」

 レネの視線に促された野村は、静かに言った。

「俺はあの事件以後、アイヌであり続けることを誓った。それが響子の――殺された女房の信念に応える方法だと信じたから……。いつの日か、すべてのアイヌが笑って暮らせるようになる……。俺の子供のためにも、その日が来るまで戦うんだと……」

 野村の目は、自然と中西に向かっていた。互いの視線を避けようとはしていない。反目が理解に変わる前兆だった。たとえそれが、どんなに小さな変化であるとしても――。

 レネは2人を見比べ、穏やかにほほえんだ。

「事情が分かれば、いいのです。つらいことを思い出させてすみません。これで安心して組めます。わたしも隠し事はしません」

 中西はうなずいた。

「列像の歴史はおおむね聞いた。しかし、情報機関が血眼になる理由は見当もつかない。なぜネオナチまでが関心を持つんだ?」

 レネは普段どおりの口調で答えた。

「黄金伝説が存在するのです。列像のどこかに、一国を興すに足る黄金を隠した場所が記されている――と」

 野村が奇妙な声を上げる。

「は? 『おうごん』って……アイヌの隠し黄金、とかか?」

「その通り」

「なんだよ、それ。どこのアニメだよ」

 だが、中西は表情を変えない。レネの言葉で納得できたようだ。

「情報機関は宝探しには動かない。金額が些細なものなら、だがな。まずは話を聞こう」

 レネがうなずく。

「真偽はともかく、彼らはそう確信しているのです。もちろんクルトも、Bサーキットの命令で黄金探索のチームを率いていました」

「Bサーキット?」

「南米に根を下ろしたマルティン・ボルマン直系の一派です」

「未だにそんなものが……」

 1945年――ソビエト軍の攻撃に怯えていた総統本部には、ヒトラーにつぐ実力者と言われる総統秘書のボルマンがいた。公にはボルマンはそこで死んだとされるが、南米へ脱出したという噂が絶えたことはない。実際、ブラジルやボリビアには、ナチスドイツの残党が多数逃げ込んで、第三帝国復興の夢をつないでいた。

「噂は真実です。ボルマン自身は死んでいますが、取り巻きは世代交代しながら活動を維持しています。特にBサーキットは厳しい機密保持体制を維持し、モサドでさえボルマンの居所を特定できませんでした。あまりの閉鎖性に〝回路〟という呼び名が定着したほどです。しかし、彼らにも弱点がありました。帝国復興の資金調達のために列像に注目したことです。クルトが東洋美術の研究者になったのは、列像の秘密を解くためでした。それを察知したモサドは、クルトを監視してボルマンを狩り出そうとしてきました。クルトの父、ハンス・シュタイナーはヒトラー直属の秘密部隊員で、ボルマンを南米に脱出させた組織の一員だともいわれています」

 野村が首をかしげた。

「本気の話なのかよ……。だったら、列像が1984年に突然ブザンソンで発見されたのは、偶然ではなかったのか?」

「ハンスはブラジルに定住すると、ボルマンの命令で列像を探し始めました。彼らは大戦中から『アイヌの黄金』を狙っていたのです。戦後の混乱が落ち着かないうちから、ハンスはたびたびブザンソンを訪れて列像を確認しています。一方で、ハンスの動きを察知したセクフィールはB回路を殲滅するために、あえて列像を移動させずにおきました。ボルマンを捕らえるための〝餌〟です。しかしハンスはボルマンには近づかず、列像にも手を出さず、息子のクルトを研究者に育て上げることに専念したのです。事態は膠着したまま時が過ぎ、セクフィールは列像の監視役を美術館に置き、日本文化を研究することになりました。ところがある日、父が『日本の関係者に列像の存在を知らせろ』という指示を出しました」

「父? パリの……?」

「ルイ・セクフィールです」

 中西が尋ねた。

「なぜ急に公表したんだ?」

 中西の関心は、セクフィール家とネオナチの対立にあった。

「ハンスの居所が掴めなくなったのです。モサドのエイジェントが何人か行方不明になって……。彼を動かすために、列像を公表したのです。他の組織に奪われることを恐れ、予定を早めざるをえませんから。その計画は功を奏し、活動拠点だけは特定されました。ボルマンへ近づく手がかりを得るために、さらに数10年に渡って監視が続けられました。わたしは監視役を引き継いだ、2代目です」

 さらにレネは、クルトらが美術館を襲うまでの経緯を語った。

 野村が尋ねる。

「で、その後のネオナチはどうなった?」

「ドイツ政界の深部に根を張った組織の全貌が暴かれつつあります。彼らは中東へ大量の武器を密輸することを目論んでいました。アイヌの黄金を資金にして最新兵器を送り込む計画です。アメリカ大統領が再開した中東和平工作を破壊することが第一の目的で、シーア派とスンニ派の対立を激化させ、同時にユダヤとイスラムを全面戦争に巻き込むためです。正当な武器の販売益で瀕死のドイツ経済を立て直し、プレゼンスを高める効果もあります。黄金をユーロに替える、国家予算級のマネーロンダリングだともいえます」

「そんなことをすればテロが拡大しないか?」

 レネは真剣な眼で野村を見つめた。

「再び大量のイスラム難民が流入し、回復しつつある国境管理も無意味になるでしょう。EUは破壊されます。救世主として現れるのが第2のヒトラーです。あなたは狂気の計画を未然に防ぎ、ヨーロッパを破滅から救った英雄です」

 野村は気まずそうにつぶやいた。

「英雄って……それこそアニメだ。だが、そんな黄金が本当に実在するのか? 2世紀前のアイヌにとっては、黄金より鉄の方が貴重だったのに……。それにしても、列像はどうしてブザンソンに?」

 野村の一番の関心はそこにある。

 そしてレネは答えを持っている。

「美術館に絵を運んだのはレジスタンスの闘士たちでした」

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