2ー2 ゲーリング・1943年(マイナス82年)

 第二次世界大戦末期――。パリがナチスドイツに蹂躙されてから、早くも3年が過ぎ去っていた。しかし北アフリカには米英軍が上陸し、ヒトラーは〝総力戦〟を宣言するまでに追い詰められている。ナチスドイツは絶頂期を過ぎ、奈落を覗き込んでいた。

 フランスでは依然としてバルビーなどによるナチスの暴虐が続いていたが、ドイツの劣勢は誰もが疑っていなかった。海外からの情報に勢いづくレジスタンスを押さえるために、ナチスドイツの親衛隊は最後のあがきを見せていたのだ。レジスタンスの活動は、市民の隅々にまで浸透していた――。


         *


 標的となった蒸気機関車は、フランス東部の丘陵地帯を疾駆していた。鉄路を囲む山々にはうっすらと雪が積もり、吹き抜ける風は冷たく鋭い。しかし運転席は激しい熱気に包まれていた。

 スコップを握りしめた釜焚きのローランが轟音に逆らって叫ぶ。

「アカは好かねぇ!」

 監視を命じられたドイツ兵は、警備の単調さにうんざりしていた。ローランの酒臭い息に閉口して、顔をそむける。規律とは無縁な若造の姿を蔑み、手にした自動小銃も無防備に床を向いていた。

 事実ローランは24歳になったばかりだ。だが、酒を飲んだのは監視の気を緩ませる手段だった。そして、与えられた任務に昂揚していた。ドイツ兵の表情に気づくはずもない。ローランは不意ににっと歯をむいて笑うと、思い切りスコップを振った。兵士はこめかみを強打されて石炭の山に崩れた。兵士に唾を吐きかけたローランは、レジスタンスの闘士を真似て、精一杯乱暴に言い放つ。

「だがな、ドイツ野郎はアカより好かねぇ!」

 機関士のアンリは、列車の速度を慎重に落とし始めた。同乗するドイツ兵たちに気づかせないためだ。しかし、アンリの表情は暗い。彼の脳裏には、太った女房に尻を叩かれる娘たちの姿が浮かんでいた。万が一計画が失敗すれば、彼女たちとは二度と会えない。こわばった表情で倒れたドイツ兵を見下ろし、つぶやいていた。

「大丈夫なのかよ……こんなことして……」

 ローランは石炭の山から掘り出した赤ワインをらっぱ飲みして、10歳以上年上のアンリの弱気を笑い飛ばす。

「機関車がひっくりかえっちまえば、分かりゃしねぇ」意識を失っているドイツ兵の足を蹴飛ばす。「どうせこいつはお陀仏だ。アカどもに仕切られるのは気にいらねえが、ドイツ野郎に一泡ふかせられるなら命を張っても惜しくねえ。さあ、飲め! 外は寒いぜ」

 ローランはアンリにワインの壜を差しだした。

 だがアンリは、手をのばそうともしない。

「俺は嫌だったんだ、こんな無茶なこと……」

 ローランは再びワインを傾ける。

「根性なしめ。もう引っ込みはつかねえ。レックスも、俺たちが計画成功の鍵だって言ってたしな。何100っていう数のレジスタンスが待っているんだぜ」

 ローランの頭の中にはドイツ軍への復讐心しかなかった。

〝それ〟は、6月の朝だった。駅でローランの帰りを待つ妻と産まれたばかりの息子は、列車を止めようと企てたレジスタンスの襲撃に巻き込まれた。線路に手製爆弾を投げた数人の若者は、通勤途中の群衆にまぎれこんだ。そして、駅に居合わせたドイツ軍将校が全員を足止めした。爆発は枕木を1本ひび割れさせただけだが、将校は規律を重んじる男だった。ローランの妻が将校のいちばん近くにいたことは、不運でしかない。将校は赤子の産着をつかんで奪った。泣きわめく息子のこめかみにルガーを突きつけ『犯人を差しださなければ殺す』と、群衆を脅した。妻は将校にすがって命乞いをしたが、兵士に羽交い締めにされた。理不尽な脅迫はフランス人の誇りを逆撫でし、誰もが口をつぐんだ。群衆の射るような視線に追い詰められた将校は、引き金を引いた。ローランが運転する汽車がホームに入ったのは、2発目の弾丸が逆上した妻に撃ち込まれる寸前だった。すぐに列車を飛び降りれば、将校に飛びかかることができたかもしれない。しかし、ローランの足は動かなかった。

 妻が殺される現場を見つめながら……。

 その朝以来、ローランは言葉を失った。2ヵ月が過ぎて再び声が出せるようになった時、自分には勇気が欠けていることを思い知った。ローランがレジスタンス活動に関わりはじめたのは、ドイツ軍の敗北が決定的になってからだ。しかも今でさえ、酒と虚勢で気持ちを奮い立たせなければ震える膝が止まらない。ドイツ人がやって来なければ、ローランは己れの弱さに気づかずに一生を送れただろう。だからこそ、ドイツには報復しなければならなかった。

 むろんアンリはローランの強がりには気づかず、同情もしていた。ドイツ軍を憎んでもいる。しかし、迷いは晴れなかった。

「だけどよ……」

 ローランはワインの壜で前方を示した。

「迷ってる時間はねえ。ほれ」

 目標の鉄橋まで500メートルもない。

 アンリは、さらにスピードを落とす。怯えて震えている。

「だけど……」

「肝っ玉の小せえ野郎だぜ。先に行け!」

 ローランはアンリの背を突き飛ばした。汽車から落ちたアンリの叫びが、線路脇の茂みに消える。ローランはもう一度ラッパ飲みすると、瓶を釜の蓋に叩きつけて割った。

「餞別だ。フランスのためだ。部品は後で拾ってやる」

 それは、自分がなりたいと望む強い男なら言いそうだ、と思ったセリフだった。彼は恐怖で逆流してきたワインを石炭の山に吐き出してから、汽車の外に身を踊らせた。


         *


 汽車が短い鉄橋に差しかかると、その支柱で爆発が起きた。線路がよじれる。投げ出された列車は陽なたでもがくミミズのようにのたうちながら、3メートルほど下の小川に落ちた。車体が引き裂かれる金属音に混じって、吹き出す蒸気と乗客の悲鳴が広がった。

 うっすらと雪に覆われた丘の中腹で、男が岩陰から身を起こした。ジャン・ムーラン――愛称レックス。彼は喉の傷を包んだ白いマフラーにそっと手を添えた。3年前、ドイツ軍はシャルトルの知事だったレックスに、フランス軍の名誉を汚す捏造文書への署名を迫った。脅しに屈することを恐れたレックスは、ガラスの破片で喉を切って自殺を図った。熱烈な共産主義者であるにもかかわらず反共主義者までも組織できるのは、レックスが祖国を愛していたからだ。古傷の痛みは今も、ドイツ軍への憎しみとフランスへの忠誠心をかき立てる。それでもレックスの黒く鋭い目に、悲しみがにじむ。不幸にして〝事故〟に巻き込まれた乗客につぶやきかけた。

「許してくれ……祖国のためなんだ……」

 ドイツ軍への復讐を誓って地下に潜伏したレックスはド・ゴールと英国政府の支援を受け、全国で自然発生したレジスタンス勢力を結集すべく奔走した。今回の作戦は、ようやくたどり着いた初めての統一行動だった。ブルジョアの代表であるセクフィール家と共産党の手を組ませることは、レックスの他にはできない曲芸だ。しかも彼の計画は、英国情報部さえも巻き込んだ大胆不敵な奇策だった。レックスは、ナチスのナンバー2――ドイツ国家元帥のヘルマン・ゲーリングを生け捕り、英国に連れ去ろうと企てていた。作戦が成功すれば動揺は全ドイツ軍に広がり、戦線は瞬く間に崩れる。

 レックスは小さく手を振って、部下たちに合図を送った。ありあわせの武器を手にした〝浮浪者〟の群れが、わき出すように木陰から現われて脱線した列車に襲いかかっていく。


         *


 平服姿のゲーリングは、大きく傾いた列車の木の床に頬を押しつけたまま、つぶやいた。

「私は……スイス人だ……」

 客車の転倒でしたたかに頭を打ち、意識は朦朧としていた。それでも、破壊工作に遭遇したことは理解できる。目を開いた時には、個室に侵入してきた背広の男に銃を突きつけられていた。男の手の拳銃は、ゲーリングでさえも見たことがない、巨大なものだった。

 ゲーリングは無言の男に再び言った。

「君は……何者だ……?」

 鋭い目でゲーリングをにらんだ男は、ドイツ語で命じた。

「証明書を出せ」

 ゲーリングは太った身体で不様に転がり、胸の内ポケットから札入れを取り出した。侵入者は、ゲーリングを助け起こそうともせずに札入れを奪い取る。しかしゲーリングは、落ち着いていた。たとえ相手がレジスタンスだとしても、身分を見破られる恐れはない。理由を偽って部下に作らせた証明書類は、内容が真実でないだけで、軍が正式に発行した紛れもない〝本物〟だ。自分がドイツ空軍総司令官である証拠は、一切身につけていない。このところ特に疑い深くなったヒトラーの監視を警戒して、1人でリヨンから列車に乗り込んでもいる。彼がフランスにいることを知っている者はいない。帰りの列車の個室を貸し切ることだけが、自分に許した贅沢だ。レジスタンスなどには捕らえられないという自信があった。ゲーリングは身体の傷を気にしながら、ゆっくりと立ち上がった。幸い、出血はない。肩やひじに痛みを感じるだけだ。

 正体不明の男はゲーリングの札入れから身分証明書とフランス国内の旅行許可書を取り出し、薄笑いを浮かべた。

「アルベルト・ヴォルハルト、チューリッヒ在住、美術研究家――。念の入った偽装だな」

 男は書類を握りつぶしてポケットにねじ込み、財布を投げ返す。

 ゲーリングはかすかな不安を覚えながらも叫んでいた。

「何をする⁉」

「同行願います、元帥閣下」

 レジスタンスではない。恐怖が、巨体から冷汗をしぼり出させた。


         *


 レックスの紅潮した顔から血の気が引いた。

「どこにもいないだと⁉」

 ゲーリングがこの列車に乗ったことは、セクフィールがリヨン駅で確認している。部下には車両も服装も知らせてある。なのに獲物は、罠から逃れたというのだ……。

 さらに事故処理担当の副官が丘を駆け上がって、報告に来た。

「乗客に死人はいない。骨折が16人。今、手当てをしている」

 レックスは慌ただしく聞き返す。

「ドイツ兵は?」

「26人。全員、始末した」

 レックスはすがりつくように尋ねた。

「ゲーリングらしい者はいなかったか?」

 副官は驚きをあらわにした。

「私服じゃないのか⁉」

「消えたんだ……」

「なんだって⁉」

「怪我人の手当てをしていない者は、残らず山狩りに回せ!」


         *


 ヘルマン・ゲーリングは、第一次大戦中にリヒトホーフェン飛行中隊を指揮した腕利きの戦闘機乗りだった。戦闘は彼の喜びで、危機は退屈な日常を忘れさせる麻薬だ。それが彼の〝若さ〟だった。どんな状況下でも冷静な判断を下す能力は、衰えていない。だが、鍛えられた筋肉は、長い間の贅沢三昧で大量の脂肪に変わっている。それが彼の〝今〟だ。山道を駆け上がって息を切らせたゲーリングは、うっすらと雪を被った岩に座り込んだ。自分の肉体に鞭打つ精神力はとっくに失われている。かつて大空を舞った複葉機に乗ったとしても、機体が浮かび上がるかどうかさえ疑問だ。

「少し……休ませろ……」

 そして、汽車の戸棚から持ち出した大きなアタッシュケースを大事そうに膝に置く。

 ゲーリングを追い立てていた男が、彼の額に銃を向けた。

「フランスで死にたいのか?」

 男はゲーリングの腕を引いて立たせようとしたが、動かない。

 ゲーリングの表情には元帥としての自信が蘇っていた。相手の言葉つきや物腰から、おおよその素性が読めていたのだ。

「ドイツ兵だな?」

 男は仕方なさそうにうなずいた。巨体を担いでドイツに運ぶわけにはいかない。これから先は、本人の同意が不可欠だ。

「ハンス・シュタイナー」

 そして男は、ポケットから手帳を出した。黒い革の表紙に鷲の紋章と部隊名が金箔で押してある。

 手帳を見つめたゲーリングは一瞬、息を呑んだ。しかし狼狽を悟られないように、打ち解けた口調で問いかける。

「総統から私の警護を命じられたのか?」

「監視だ」

 その一言で、ヒトラーの意図が読み取れた。ハンスはヒトラー直属の秘密部隊の一員だったのだ。『長いナイフの夜』にレームを抹殺した恐怖の軍団――。ゲーリングでさえ命令のできない相手だ。

 1925年、政治的発言力を強めつつあったヒトラーは、身辺警護のための特殊部隊――SSを組織した。30年にはSSの最高指揮官のハインリッヒ・ヒムラーが活動領域を拡大し、諜報、防諜までをも手がけ、ヒトラーが政権を奪取する基礎を築く。しかしSSには、ヒトラーの盟友である元将校エルンスト・レームが指揮する民兵――SAが対立していた。そこでヒトラーはSS隊員の中から特に有能な若者を選び出し、レームの一味を粛正するための先兵とした。それがハンスが所属する部隊だ。彼らは軍神ヒトラーにのみ奉仕する、SSの中のSSだった。

「総統は私をどうするおつもりなのだ?」

「私に一任されている」

 ゲーリングの目に驚きと落胆が入り交じる。

「貴様のような若造に⁉ 私は第一次大戦の英雄だ! 総統に次ぐ地位を与えられている! なのに、貴様が運命を決めるのか⁉」

「偉大な総統陛下に次ぐ地位など、存在しない。この世の神たる総統に従う者は、全て平等な下僕だ。総統に逆らうものは、抹殺されるべき劣等生物だ。私は、神の刃だ」

「私が劣等生物だと……?」

「総統を裏切るなら、そう判断する」

 ゲーリングの腹の中に、激しい怒りが芽生える。だが、言葉にはできない。遠くにフランス語の叫びが聞こえる。レジスタンスに包囲されるのは時間の問題だ。

「総統を裏切ってなどいない」

 ハンスはわずかに考えた。

「説明しろ。隠密行動の理由を明かさなければ、私は1人で去る」

 ゲーリングは腹を決めていた。列車の転覆は計画的で、レジスタンスは統制の取れた作戦を遂行している。山狩りの標的は自分だ。ハンスを味方にできなければ、生きてドイツに戻れる望みはない。戻る価値があるかどうかは別の問題だ。少なくとも、フランスで得られるのは囚人の生活――最悪の場合、断頭台の恐怖でしかない。

 ゲーリングは無言でアタッシュケースを開けた。中には絹地に描かれた風変わりな肖像画が収められている。

 身を乗り出したハンスは上の一枚を取った。

「この絵が目的か?」

「全部で12枚。ローゼンベルグにも知らせていない。直接、セクフィールと取引した」

 ヒトラーには秘めたる野望があった。彼にとって第2の故郷とも言えるオーストリアのリンツを、フィレンツェを模した芸術都市に改造することだ。その建築資材を得るために、石切り場の周辺の強制収容所では苛酷な労働が強いられ、オーストリアやポーランドの併合時にも美術品の収奪が行なわれた。中でもセクフィール家は最大の標的にされた。フランスが占領された4年間に、2万点以上の絵画を奪い去っている。だがフランスでは、掠奪した芸術品の分配をめぐって幹部が対立した。それを解決するためにヒトラーは、ナチスドイツの御用思想家、アルフレート・ローゼンベルグを調整役に任じていたのだった。ゲーリングも美術品に関してはローゼンベルグの指示に従うべき立場だ。だがゲーリングは、ヒトラーが嫌うフランス近代絵画を収集することで巧みに軋轢を避け、北ドイツの自分の別荘にコレクションを増やしていた。

 ハンスはゲーリングを睨みつけた。

「薄汚いユダヤと取引だと⁉ 代償は何だ⁉」

「ダッハウ収容所の解放。当然、空約束だ」

「どんな約束であろうと、総統は越権行為をお許しにならない」

 ゲーリングはにやりと笑った。

「この絵の秘密を知っても、かな?」

「秘密だと……? 話せ」

 ゲーリングはハンスの目をじっと見つめる。

「絵そのものに価値はない。しかしその中に巨額の黄金の隠し場所が記されている――そういう伝説があるのだ」

 ハンスの目が鋭く輝いた。

「黄金? どれほどの?」

「一国を興すに足る、といわれている」

「そんな情報を誰から聞いた?」

「貴族お抱えの美術商だ。ロシア美術の専門家でな」

「なぜ総統にお知らせしなかった⁉」

「総統も画商も、日本やロシアの美術を認めない。なんの証拠もなしに話したところで、どうせ信じない。しかも謎は100年以上も謎のままだ。報告は手がかりを発見してからでも遅くあるまい?」

 ゲーリングは意味ありげに笑った。それは、首尾よく黄金を手に入れた場合は互いで分け合おうという、ハンスへの誘いだった。

 ハンスも笑い返した。しかしそれは、総統の前に引き出されて萎縮するであろうゲーリングの未来に向けられた嘲笑だった。

「言い訳は、総統に直接するがいい」

 ハンスは絵をケースに戻そうとした。

 と、銃声が轟き、ハンスの肩に痛みが走った。ハンスは反射的に絵を懐に突っ込み、走りながら銃を撃った。狙いは正確で、岩陰から身を乗り出したレジスタンスの若者は顔の半分を吹き飛ばされた。ゲーリングもアタッシュケースを閉じて走り出した。2人の後を、銃声と弾丸の唸りが追う。ゲーリングが振り回したアタッシュケースの角が、岩に当たった。完全に閉じられていなかった蓋が衝撃で開いた。中に残った11枚の絵が岩の陰に落ちる――。

 しかし、激しい運動と恐怖に眩暈を覚えはじめていたゲーリングは、絵が落ちたことには気づかなかった。もちろん、必死に彼らを追うレジスタンスたちも……。


         *


 ローランの後を追うアンリは、心配そうにつぶやいた。

「なにも、山狩りなんか……。銃だって持ってないのに……」

 ローランは振り返りもせずに言った。

「着いて来いとは言ってねえ!」

「冷たいことを言うなよ……」

「足手まといなんだ!」

 慣れない山歩きと激しい不安で疲れ切ったアンリは、足元ばかり見ていた。と、視野の隅に赤い色がちらつく。岩陰に色鮮やかな絵が落ちていた。

「ローラン、ちょっと!」

「うるせえ! 消えちまえ!」

 ローランはひたすら、けもの道を登っていく。レジスタンスの活躍に加わりたい一心で、流れ弾の危険も頭から消えていた。自分の人間性が溶解していくことを食い止めるには、どうしても闘士として活躍し、恐怖に打ち勝つことが必要だ――それは、ローラン自身も気づかない、自己防衛本能の叫びだった。それとも心の底で、流れ弾で死ぬことを望んでいたのか……。

 だがアンリには、銃弾は恐怖でしかない。意外な拾い物は、口実としては手ごろだ。去っていくローランの後ろ姿を見ながら溜め息をもらすと、絵を拾い上げて岩に座り、ぼんやりつぶやいた。

「変わった絵だけど、なんで山の中に? どうすりゃあいい?」

 絵は美術館に飾られるべきだと考えた。幸い彼が住むブザンソンには、1694年に設立されたフランス最古の美術館があった。

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