1ー2 札幌
気力と体力を使い果して取り調べ室から解放された野村は、レースを終えて巣箱に返るハトのようにアパートの玄関に走り込んだ。願いはただ1つ、何も考えずに眠り続けることだ。まだ外は明るいが、野村はすでに『丸一日部屋から出ない』と心を決めている。公安に捕らえられるという異常事態が、野村の生活のリズムをすっかり狂わせていたのだ。しかも美術館の上司は、宮下からの依頼で野村の長期欠勤を渋々ながら認めている。
だがドアを開けた瞬間、首筋にナイフを当てられたような冷たさを感じた。遮光カーテンを閉じた部屋に〝他人の匂い〟がある。
思わず止めた息をゆっくり吐き出すと、照明をつけた。一目で全体が見渡せるワンルームは、釣りに出た時と変化はない。乱れたベッドの横には、読みかけのブライアン・フリーマントル――その初期の作品で、東西冷戦時代のアンティーク的スパイ小説がある。
イデオロギーが激突した20世紀はソ連崩壊によって終わりを告げ、マネーゲームとテロが支配する21世紀へ移った。そして、米中対立を軸に再び二分化されようとしている。
野村は、世紀末の緊迫感を〝歴史〟として再確認しようとしていた。人々の息づかいが感じられる小説は、第一級の資料でもあったのだ。もちろん、物語としても楽しんでいた。だがその本は、忙しさにかまけて2ヵ月近くも放ってあった。机の上には、完成を間近にした紀要の原稿が耳を揃えてある。後は『山東京伝とその時代展』の最終的な成果を盛り込み、関係者への弔辞と感謝を加えれば完結する。何もかも、部屋を出た日のままだ。
なのに一歩足を踏み入れると『自分が拒まれている』という不安が高まる。
そもそも、警察に拘束されたことが異常だったのだ。テロリスト扱いこそ半日で終わったが、軟禁状態は4日間に及んだ。その間、外へも出られず列像とブラジルの研究者について話し続けた。一度は体調を崩して激しいめまいに襲われ、署内の医務室で半日を過ごすことにもなった。寝違えたのか、首筋には今も妙なしこりが残っている。だが、変化といえばそれだけだ。名目は〝自発的な捜査協力〟だが、実質的な〝幽閉〟だ。野村がアイヌでなかったら、唯々諾々と従うことはなかっただろう。野村は、些細な抵抗が大きな暴力となって返ってくることを経験していた。
気のせいだと言い聞かせたが、不安は去らない。声に出した。
「何を脅えている!」
バスルームの電気も点けて、扉を開いた。潜んでいる者などいない。部屋の反対側の押し入れ開けて、覗き込む。歴史関係の資料で埋め尽くされ、誰かが隠れられる隙間などない。野村の最大の趣味が読書で、ミステリーと歴史書が中心だったからだ。
芸術は、権力者とのつながりが深い。その成り立ちを正確に理解するには歴史全般の知識が欠かせない。特に野村は江戸中・後期の日本史に詳しかった。生の資料の発掘や読みこなしには定評があり、在野の歴史家としても名が通っている。企画展の対象に山東京伝を選んだのも、知識と趣味が存分に活かせるからだ。〝少数民族〟の立場から読み解く歴史観はアカデミズムからは無視されているが、目新しい視点を求める出版社には喜ばれ、ファンも多い。
部屋を調べて緊張を解いた野村はカーテンを開き、カーペットに座り込んでベッドに寄りかかった。
「馬鹿だな……。こんなぼろアパート、空き巣も避けるって……」
そして、神経を逆なでしたのが〝匂い〟だったことを思い出した。香水かオーデコロンの甘い香りはまだ鼻に残っている。この部屋に他人が入ったことは一度もない。女性を含めて、だ。
野村は、アイヌだという理由で他者の視線を意識して育った。その環境が、他人と一線を引く習慣を身に染み込ませた。もはや本能に近い習性となっている。〝民族の尊厳〟を守るために力を尽くそうと決心してからも、私生活までは変えることはできなかった。
友人は多い。アイヌの仲間や、アイヌ民族を正しく理解できる人々、そして何も意識せずにつき合える者たちだ。それでも1人きりになれる〝ねぐら〟は必要だった。10年前の事件のトラウマだとは認めたくなかった。単なる性格にすぎないと思い込もうとしてきた。それだけに、他人の気配には人一倍敏感だった。
誰かが部屋に入ったことは間違いないと感じる。野村の許可を得ずにそれができるのは、家主か警察と犯罪者だけだ。しかし、家主が勝手に鍵を開けるということは考えにくい。ポケットからiPhoneを出す。すぐに出た宮下は、警戒心を隠さなかった。
『君には迷惑をかけた。告訴する気かね?』
腫れ物に触るような宮下の慇懃さが腹立たしい。
「終わったことです。それより、俺の部屋を捜索しましたか?」
『いいや。ICPOの要請は君の身柄を拘束することだけだ』
「間違いありませんね?」
『現場には目を配った。不審なことでも?』
警察の高飛車な態度には憤ったが、宮下の人間性は信頼している。4日間も顔を突き合わせていれば性格は読める。野村を捕らえたのは職務であって、差別意識も悪意もない。
「思い過ごしでしょう。お忙しいところ、すみませんでした」
野村は電話を切った。と、積み重ねた美術雑誌の陰に黄色いメモが落ちているのに気づいた。野村の脇に冷たい汗が滴り落ちた。
野村は震える手をメモにのばした。殴り書きの自分の文字で『代休明け、会議にて購入を検討』と記されていた。釣りに出る直前に思いついて、広告欄に挟んだものだ。各種美術品の取り扱い方法をレクチャーするDVDの広告だ。毎年大学から研修に訪れる『博物館実習生』やボランティアの教育を効率化できると考えた備品だ。そのメモが自然に本から落ちることは、絶対にない。
誰かが本を開いたのだ。
何者かが部屋に侵入し、〝何か〟を探した。でなければ、無造作に積み上げた美術雑誌を開く必要はない。しかも、侵入したことを悟らせないために細心の注意を払っている。忍び込んだのが空き巣なら、部屋を荒らしたまま逃げる。警察でも空き巣でもないなら、誰がドアをこじ開けたのか――?
iPhoneを取る。返事を待たずに靴を履き、廊下に出る。
宮下が出た。
『まだ何か?』
玄関から飛び出す。
「誰かがアパートに忍び込んで――」
と、いきなり目の前に白い大型乗用車が現れ、行く手を遮った。車のドアが開いて、大振りなサングラスをかけた女が運転席から身を乗り出す。女の匂いが鼻を突いた。部屋にこもっていた香水だ。野村は身体を翻して逃げようとした。いつの間にか、やはりサングラスをかけた2人の男に挟まれていた。白人のようだ。1人がiPhoneを奪う。聞き慣れない訛がある声で野村に命じた。
「シズカニ!」
腕に痛みを感じた。服の上から注射器が突き立てられていた。
「おまえら……」
舌がもつれ、腰が砕けた。
*
ベッドに横たわった野村の意識が戻った時、傍らには見知らぬ白人女性が立っていた。かすかな体臭が鼻をくすぐる。人の温もりを感じさせるその香りが、最初に安心感を与えた。
だが、目がかすんで遠近感が狂っている。頭は重く、喉は乾き、口が粘つく。疑問が口を突いた。
「どこだ……? 病院か……?」
若い女は、たどたどしい日本語で言った。
「もう、心配ない。悪者、去りました。あなた、助かりました」
その言葉がゆっくりと頭に染み込んでいく。
すべての記憶が一気に蘇った。公安での取り調べ、何者かが侵入した部屋、襲いかかる正体不明の一団、腕に刺さった注射器――。
〝それ〟が起こったのは、襲撃者に車に押し込まれる寸前だった。
襲撃者とは別の一団が現れたのだ。屈強そうな男が数人飛び出してきたことを覚えているが、顔つきまでは記憶にない。明らかに、2つの集団が野村を奪い合っていた。おそらく、彼らはそこで〝衝突〟している。しかし、記憶は途切れている。注射された薬品で意識を奪われたのだ。そして、今はベッドに横たえられている。体に痛みも感じない……。
間一髪で、助け出されたらしい。少なくとも、ここは敵意を持った襲撃者のアジトではない。
……そのはずだ。
野村は、女に焦点を合わせようとした。
「君は……誰……?」
女はにこやかに笑った。
「ハンナ・グレスコ。シベリア、生まれ。ここ、領事館」
野村の頭に、ハンナの言葉が反響する。途端に意識が覚醒した。シベリア――つまり、ロシア領事館だ。
30年前のスパイ小説の世界にタイムスリップしたような感覚だった。米ソ冷戦時代、札幌に置かれたソ連領事館はスパイ活動の最前線で、KGBやGRUといったおどろおどろしい組織が紛れ込んでいた。その正面玄関には日本警察の詰め所が置かれ、〝警備〟という名目の監視が行なわれていた。ロシアが世界経済に組み込まれた今でも監視は続けられている。KGBの対外諜報部門であった第一総局がSVRと名称を変え、にこやかな微笑みを浮かべようとも、本質は変わらない。新生ロシアを強力に率いる大統領はKGB出身で、ウクライナでの戦禍を終結させたばかりだ。現在でも水面下のスパイ活動は継続され、冷戦時代に覇権を争ってきた国々は少しも気を緩めてはいない。
ロシアの大使館員が、〝たまたま〟野村を助けることなどあり得ない。監視していたのだ。公安警察や謎の一団に加えて、ロシアまでがちっぽけな野村のアパートに目を凝らしていたことになる。
飛び起きるように上体を起こした野村は、ゆっくりと言った。
「なぜ助けた? 見張っていたのか? 俺を襲ったのは誰だ?」
ハンナは矢継ぎ早の質問に戸惑い、途切れがちだが真剣に話す。
「私たち、見張っていた、あなた、ない。彼ら、悪者の方」
慎重に言葉を選ぶ姿に、野村はハンナの誠意を感じた。見るからに田舎育ちといった小太りの女性からは、悪意は読み取れない。だが、見た目は見た目に過ぎない。言いなりには、なれない。
野村は何者かに襲われた。注射で意識を奪う手口は素人ではない。そのプロを、ロシア領事館員が見張っていたという。彼らの対立に巻き込まれるのは危険だ。待ち伏せから逃れても、領事館が安全だとはいえない。
国際法上、ここはロシアの領土なのだ――。
野村はハンナに尋ねた。
「悪者、とは誰だ?」
「それは……」
ハンナは口をつぐんだ。語ることを許されていないらしい。
「警察に連絡させてくれ!」
「慌てる、ない!」
慌てているのは、ハンナだ。引き止めるのが任務なのだ。
「俺は――」プライドにこだわっていられる状況ではない。野村はきっぱりと言った。「私は、日本人だ。ロシアに拘束する権利はない。助けてくれたことは感謝するが、ここを出たい。電話を貸してくれ。警察庁の宮下外事課長に連絡を取る。すぐに迎えが来る。彼らも、私を悪者から救ってくれたロシアに礼を言いたいだろう」
宮下の名を出したのは、ハンナを脅かすためだ。外事課の任務は、スパイ監視だ。日本にはいまだにスパイ防止法はないが、いざとなれば公権力を行使することも可能だ。その統括者が介入すれば、迂闊な行動には出られない。
予想通りハンナは言葉を失い、表情が強ばった。
「どうした? 電話だよ! 分かるだろう⁉」
ハンナはうめくように言った。
「許されて、ない……」
「許可など必要ない! ここは日本だぞ!」
「領事館、中はロシア」
野村はぐっと怒りを呑み込んだ。念を押すように言う。
「ではロシアは、国家の意志によって、日本人である私を拉致したのだな。これは国際問題だ。おまえら、日本から叩き出すぞ!」
「わたしには……」
人の良さそうなハンナが、命令との板ばさみになっていることは分かる。だが、同情できない。勢いにまかせて、疑問をぶつける。
「電話をよこせ! でなければ、誰が俺を襲ったのか教えろ!」
ハンナは野村の怒りに首をすくめ、仕方なさそうにつぶやいた。
「ネオナチ、だと……」
「は? ネオナチ? なんで今さら、そんなもんが?」
「今だから、です……ヨーロッパが壊れかけている、今だから」
野村も、過激なファシズムが世界に台頭していることは知っている。パンデミック以降はナショナリズムが力を増し、さらに強力な勢力に成長している。ウクライナでも戦力の中心にネオナチ組織がいたという言説がある。過去には、ナチの残党が南米に根を下ろしてもいた。突然野村に連絡してきたクルト・シュタイナーがネオナチのメンバーだという可能性もある。ロシアを敵視してきたナチスに、領事館が目を光らせることも当然かもしれない。
だが、彼らの抗争に自分が巻き込まれることは信じられない。敵がナチなら、対するのはSVR――ロシア対外情報庁だ。そのSVRを操る人々といえば――。
単に野村の保護が目的なら、警察への連絡を邪魔する必要はない。モスクワからの命令だと結論した。
「クレムリンは、なぜ俺を捕らえた⁉」
場外ホームランだった。ハンナは絶句し、誰かにすがるように背後の鏡を見た。マジックミラーの向こうに上司が控えているのだ。その横のドアが開き、農夫を思わせる大柄な男が飛び込んで来た。
男は叩きつけるように言った。
「誤解です! 我々は、ファシストどもの陰謀を監視していただけです。あなたを助けたのは、偶然です! 単なる偶然です!」
偶然を強調することで、〝仕組まれた計画〟だと白状していた。
男はハンナをにらみつけた。ハンナはうっすらと涙を浮かべて、部屋から駆け去った。不用意にネオナチの名を口にした事がハンナの将来にどんな影響を及ぼすか、野村は考えたくもなかった。
野村は力を込めて言った。
「言い訳は要らない! 私を日本の公安警察に引き渡しなさい!」
男は息を整えてから、ゆっくりと言った。
「私はエフゲニー・コツァレフ。当領事館の一等書記官で――」
「自己紹介も要らない! もう一度聞く。ロシアはなぜ私が必要なんだ⁉」反論しようとするコツァレフを素早く手で制した。「ナチを見張っていたなら、空き巣に入った時に阻止できた。なぜ俺を襲うまで待った? それとも部屋を荒らしたのは貴様らか⁉」
コツァレフも観念したようだった。
「ロシアの実情にお詳しいですね」
「スパイ小説を読んでいれば見当がつく」
「では、領事館員が全てを知らされていないこともお分かりですね。我々はあなたの部屋に接近する〝組織〟を調べろと命じられていたのです」そして彼は野村の目を見つめた。「救出したのは、私の一存です。処罰覚悟でした。それをなじられるとは……」
野村は一瞬、その言葉を信じかけた。領事館員なら、国家には逆らえない。美術館への補助金で右往左往する日本の学芸員と大差はない――のかもしれない。
しかし、わずかなしこりが心の隅に残る。突然、危険な世界に放り出された野村の頭脳は、急カーブで悲鳴を上げるタイヤのように加熱していた。言葉のわずかなニュアンスが、過敏に意識される。
「奴らがナチだと、どうして分かった? 捕まえたのか?」
コツァレフは口ごもった。
「それは……」
話せないのだ。自身が上司から監視されていると分かっている。
「誰が怖い⁉ SVRか⁉ 俺が襲われると知ってたのか⁉」
野村の頭脳は疾走していた。
全ては、ブザンソンから始まった。自分が列像に関する〝権威〟であることは疑いようがない。それはアイヌ絵という特殊な分野の研究者が極端に少ないからだ。公安やネオナチ、そしてロシアが求めているのはその〝知識〟の他に考えにくい。列像には、彼らを争わせる〝何か〟が潜んでいる――。
だが、コツァレフの落ち着きのなさは、いかにも素人くさい。野村の目にも、彼は本物の書記官だとしか思えなかった。一方で、アパート前で野村を〝救出〟したのは素人ではあり得ない。札幌には、確かに実力行使を生業にするプロがいる。だがSVRがこの場に待機しているなら、素人に〝獲物〟を預けるはずはない。その印象が正しいなら、情報活動のプロたちは、なぜか今は領事館を留守にしていることになる。SVRたちが戻る前に宮下と連絡を取らなければ、命さえ危険になるかもしれない……。
野村はきっぱりと言った。
「ここを出る」
「許可できません」
「糞くらえ!」
ベッドから降りた。足はふらつくが、歩けるし、服も着ている。門を出さえすればいい。領事館の玄関先には日本の警官がいる。野村はコツァレフを押し退けて廊下に出た。
血相を変えて駆け戻って来たハンナと、鉢合わせをした。
「どけ!」
ハンナは野村を見てから、握りしめていたメモをコツァレフに渡した。彼はメモを開くと息を呑み、野村の腕をつかんだ。
「東京からの指示です。ナチの危険分子は逃亡しました。これ以上あなたには干渉しません。ご自宅までお送りします」
自由になれるなら、騒ぎを大きくする必要はない。警察を頼れば、公安の取り調べ室に逆戻りだ。野村は小さくうなずいた。
「始めからそうすればよかったんだ」
野村は腕時計に目を落とした。午後11時過ぎ。6時間は眠っていた計算になるが、頭の芯に眠気がずっしりと淀んでいた。
*
コツァレフは自ら左ハンドルのベンツを運転した。領事館の門を出るまで、野村は後部のシートに横になって毛布を被った。頼み込まれたからだ。入る時も隠れていたので、警官に不審を抱かせないためだという。野村は、ネオナチを退けた礼のつもりで協力した。
市街地を少し走ってから野村は助手席に移り、車はアパートがある円山に向かった。野村はぼんやりと窓の外を眺めた。立て続けの危機にみまわれた野村には、見慣れた町並みが外国の風景のようによそよそしく思える。車のガラスに自分の顔がぼんやりと写っていた。顔色が青く、やつれ、死神に微笑みかけられた老人のようだ。
アメリカ領事館に近づくと、野村は疲労を隠せない声で言った。
「ここで停めてください」
意外な返事が戻った。
「できません」
コツァレフはアクセルを吹かした。
シートに押しつけられた野村の背に寒気が走り抜ける。
「まだ用があるのか⁉」
コツァレフは強ばった口調で言った。
「用がなくなったからです」
「止めろ!」
野村はドアロックに手をかけた。が、動かない。
「すみません」
コツァレフの手には、いつの間にか拳銃が現われていた。
「殺す気……か?」
「国に家族がいます。逆らうことはできません。許してください」
野村はようやく、領事館でメモを見たコツァレフの驚きを理解した。あの時、〝殺人〟を命じられたのだ。隠れて門を出たのは失敗だった。なんとしても宮下と連絡を取るべきだった。
「ここは日本だぞ! 貴様ら外国人が、どうして⁉ 降ろせ!」
コツァレフは右手の拳銃を野村のあごに押し当てた。
野村の頬が、サイドウィンドウに押しつけられる。
「抵抗すると暴発します」
野村は動きを止め、歯を食いしばった。
市街地を通り抜けた車は急な坂道を上がり、小さな峠に入った。町の中心から15分も離れてはいないが、嘘のように人気がない。
と、コツァレフがルームミラーに目をやった。銃が離れる。野村も振り返った。街灯の光の中に2台の大型オートバイが近づいている。車を加速する間もなく、1台が前方に踊り出た。バイクはとたんに転倒して進路を塞ぐ。フルフェイスのヘルメットをかぶったライダーは慣れた様子で路面を転がり、平然と立ち上がった。火花を引きずって滑るバイクに乗り上げたベンツは半回転し、路肩に後輪を落として停まった。
コツァレフはシートベルトを外そうともがく。野村は銃を握った彼の腕を掴み、銃口を外に向けた。
後ろから追い上げてきた2台目のバイクが、運転席の横に停まった。フルフェイスヘルメット被ったライダーは、太い消音器を填めた拳銃をコツァレフに向け、ためらいも見せずに撃った。サイドウインドウが真っ白に濁る。顔面に3発の銃弾を浴びたコツァレフの手から銃が落ちて、シートの下に隠れた。慌てて銃を拾おうとする野村の腕に、激しく痙攣するコツァレフの血が飛び散る。
ライダーは拳銃の握りでひび割れたガラスを落して手を突っ込み、ドアのロックを外して開いた。コツァレフを外に引きずり出し、訛がきつい日本語で野村に命じる。男の声だ。
「オリロ!」
消音器が野村の額に突きつけられた。野村は言葉を失い、コツァレフの死体を越えて外に転がり出た。平然と人を射殺した彼らに、抵抗はできない。ライダーはコツァレフの車に何発もの徹甲弾を撃ち込んだ。ガソリンタンクに穴が開き、路面に炎が広がる。
這ったまま引きずられた野村の先に、新たな乗用車が現れた。アパートで野村を襲った車のように見える。後部座席に押し込まれた野村は、ネオナチを始末できなかったロシア情報機関を呪った。彼らはずっと領事館を見張り、ベンツを追って来たに違いないのだ。
助手席で振り返ったのは、若い女だった。淡いブロンドの髪を無造作に束ねた、グリーンの目の白人。飾り気のないダンガリーシャツが、活動的な性格を表している。まるでフィールドワークを専門にする植物学者のようだ。
彼女は、滑らかな日本語を話した。
「直接お会いするのは初めてですね、野村教授」
「君は……誰だ⁉」
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