第1章  波紋・2025年(現在)

1ー1 北海道警察本部

 5月も終わりに近づき、札幌はようやく〝春〟と呼ぶにふさわしい陽射しを浴びていた。だが街を彩る若葉を輝かせる光は、北海道警察の狭い取り調べ室には届いていない。

 厳しい表情の男が3人、視線を絡み合わせている。

 野村誠は怒りに任せ、テーブルを叩いて立ち上がった。

「どうしてこの俺が⁉ フランスには行った事もない!」

 見るからに研究者らしい印象を与える野村だったが、その目には強固な意志が、そして怒りが宿っている。

 野村の背後に立った中年刑事が、肩を押さえてパイプ席に戻す。

「落ち着いて!」

 野村は深い深呼吸を繰り返した。理性は『怒りを見せるな』と叫んでいた。彼の祖先であるアイヌ民族は、〝日本人〟として生きるために激情を押さえる術を身につけ、子孫に伝えてきたのだ――。

 効果はなかった。

 野村にも、それが宿命だと諦めようとした頃がある。だが、いわれなき差別に屈することを潔しとしない人間もいる。32歳という年齢は、丸くなるには若すぎるのだ。

 テーブルを挟んだ野村の正面には、初老の〝刑事〟が座っている。宮下と名乗った男はゆっくりと言った。

「証拠がある。盗難現場で発見された君の名刺は、その1つだ」

 野村の声は、意志の力では押さえきれない怒りに震えていた。

「行ったこともない国にどうやって名刺が置いてこられる⁉ 俺は学芸員で、手品師じゃない。現地で確かめたのか⁉」

 野村には宮下が年季の入った刑事――乱暴なだけでうだつのあがらない現場捜査員にしか見えなかったが、第一印象はすぐに崩れた。宮下は取り調べ室に入ると、何かのスイッチが切り替わったかのように堂々とした落ち着きを見せ、声を荒げることもない。

「ICPOは確信を持っている。どのみち、警察庁の予算では気軽にフランスまでは出かけられない」

 ICPO――国際刑事警察機構はパリに本部を置いて195ヵ国が加盟し、出向してきた警察官によって運営される事務的機関だ。道警が野村を拘束した理由は、ICPOを通じたDGSI――フランス国内治安総局からの要請にあった。

 野村はわき立つ怒りをねじ伏せると、ゆっくりと答えた。

「俺も公務員だ。同じように、いつも予算が足りない。ヨーロッパまでは容易くは行けない。繰り返すが、道南に釣りに行っていた」

 野村は北海道立近代美術館で、特別展覧会を任されていた。ゴールデンウイークは、その開期の最後だった。

『山東京伝とその時代展』――野村はその企画展で、江戸後期の浮世絵師である山東京伝や彼の周辺で活躍した作家や版元たちの交遊を、現代の視点から捉え直そうとした。野村が求めた展示品は浮世絵はもとより、反体制的な洒落本や黄表紙、滑稽趣味でグラフィカルな手拭いにまで至る。一方では、京伝に弟子入りを懇願したという滝沢馬琴の作品群も陳列した。野村はこの時代のクリエイターたちの、破天荒なダイナミズムを可視化したかったのだ。

 企画展の準備は困難を極めた。そもそも、『美術』の領域を外れた骨董品や古民具、古文書を探し出すには、通常の数倍のエネルギーが必要だった。作品の所有者には企画意図を説明して出品交渉を行ない、全国に散った作品を集めた。企画展にはつきもののルーティンワークも、絵画や彫刻が対象ではない分、混乱を巻き起こした。さらに集まった作品を体系的に整理し、カタログを編集、制作し、展示の目的を明確にした論文を掲載する仕事もある。最後には、借り受けた作品を安全、確実に返却しなければならない。その〝苦行〟を乗り越え、ようやく納得できる結果を出したのだった。

 野村は充実感と折り重なった疲れを抱えて、代休を函館周辺での釣りに費やした。ひたすら川とヤマメと戯れ、頭を空にしたかったのだ。釣り旅行から帰った野村は、アパートの前で車を降りたとたんに捕らえられた。汗と泥にまみれた服を着替える間さえなかった。逮捕の理由も知らされず、連れて来られたのは道警本部の『公安課』だ。

 その上、取り調べに現れた宮下は、道警の上部組織に当たる警察庁に所属していると自己紹介した。宮下は見かけとは裏腹の、超エリート幹部だったのだ。

 白昼の悪夢のような出来事だった。

 宮下は言った。

「5日間も道南を巡って、誰にも会わなかった――か?」

「1人になりたかった。解禁前だから見つかりたくもない」

「私も北海道に長く住んでいた。現地にも問い合わせた。解禁前の釣りは珍しくもないし、処罰されることも滅多にない。大した食料も持たずに何日も過ごせるとは考えにくい」

 野村は宮下に鋭い視線をなげかけた。

「公務員の上にアイヌ系だとなれば、職を失うことだってある」

「差別はなくなったと聞くが? 国がサポートもしている」

「確かに、公的には保護されている。ある意味、珍獣を守るようにね。だがアイヌだと分かれば、学校では仲間の輪に入れないこともある。職場では陰湿な嫌がらせを受け、結婚の障害にもなることもある。だからアイヌの若者は、生まれを隠す。現実に、関東には1万人以上のアイヌが移り住んでいる。都会の雑踏に紛れ込めば、自分が何者かを忘れていられるからだ」そして、悲しげなため息を漏らす。「それに、魚を釣っていて飢える阿呆がいるか? 山菜だって取り放題だ。山で暮らす方法は、親父に叩き込まれた。自然はアイヌの家だ。グランドシート1枚で、真冬でも暮らせる」

「フランスへの往復も5日あれば充分だ」

「じゃあ聞くが、俺はフランスで何をした? なぜ公安が?」

 宮下にも負い目があった。道警に出向していた時期、新興宗教団体が引き起こしたテロ捜査を指揮した。その時、デマに躍らされてアイヌの血をひく女性を自殺に追いやったのだ。彼女が無関係だったことはすぐ判明したが、失態が公表されることはなかった。

 宮下はじっと野村の目を見返した。野村は目をそらさなかった。怒りの奥に、正義を求める気迫が揺らめいている。

「学芸員……と言ったね。具体的にはどんな仕事をしている?」

 野村は不意の質問に戸惑った。宮下が野村の怒りを冷まそうとしていることに気づけるほど、心に余裕はない。

「なんの関係が?」

「美術にはうといものでね。ちょっと聞いてみたかったんだ。他の公務員がどんな生活をしているのか」

 野村はかすかに肩をすくめてから言った。言葉の棘も和らぐ。

「学芸員といっても、一般の目に写るほど高尚でも優雅な仕事でもありませんよ。仲間内では〝雑芸員〟と自嘲するほどでね。美術館に関することならなんでもする、雑用係です」

 宮下にはその答えが意外だった。

「気に入っていないのかね? キュレーターと言えば大学教授並みの身分だそうだが?」

 宮下にも、英語圏では学芸員を『キュレーター』と呼ぶという程度の知識はあった。

「気に入っていませんね。ただし、仕事が、じゃない。日本の学芸員のシステム、美術館の在り方が無茶苦茶なんです。キュレーターは本来、調査や研究、展覧会の企画なんかを担当する専門職です。アメリカの美術館なら、まさしく大学教授に等しい研究者ですよ」

「君は違うのかね?」

「まあ、つい最近も企画展を1つ仕上げましたが、それだけが俺たちの仕事じゃありません。たとえば美術品の管理や受け入れ、そして借り入れや貸し出しに関する事務――これは本来レジストラーという専門職を置くべき分野です。教育や地域との交流、広報、普及担当のミュージアム・エデュケーター、保存、補修に責任を負うコンサバター、関連資料や図書を管理するライブリアンなんかも独立した専門家であるべきでしょう。それが、美術に対して正当な考え方をする国々の普通のあり方です。ところが日本じゃ、その全てが学芸員に押し付けられている。来場者が少ない私立美術館じゃ、館内の清掃や入場券の発売までやらされる始末です。そもそも美術館全体に共通する系統だったシステムがありません。館はそれぞれ独自の方法で仕事をすすめ、一般論が成り立たない。研究一筋の学究肌であるほど、現実に疲れ果ててドロップアウトしていきます」

「君は10年近く続けているんだろう?」

「俺の体質にはこんないい加減さが合う――ということです。今回の企画展でも、ずいぶん我がままを通しましたから。システムがガタガタだから、その隙間に個性が出せたんです。だからといって、日本のやり方が正しいわけじゃない」

 野村は美術館の現状に対する欝憤を吐き出したことで、落ち着きを取り戻していた。それはまさに、宮下が狙った効果だった。

 そして宮下は、野村の人間性も見抜いた。

「『事実は知らせるな』と言われていたが……君を信じてみるか」

 野村は意外そうに宮下を見つめた。

 野村の背後の刑事が慌てて口を挟む。

「宮下さん、それ、まずいですよ。外事課長に出世されたとはいえ、今はただのオブザーバーですから……」

 宮下は刑事を睨んだ

「迷惑そうだな。だが、長く現場を離れていると勘が鈍る」

「そんなつもりじゃ……」

 刑事は視線を床に落とした。宮下には実力に裏づけされた自信がある。一介の刑事では、その眼光に逆らうことは不可能だ。

 宮下はここ1週間、道警本部で極左過激派団体の調査を指揮していた。アイヌ新法制定後に活発化しているアイヌ団体の活動の背後に、外国勢力の暗躍が噂されていたためだ。ユーチューブなどのネットメディアには、虚実取り混ぜて様々な情報や憶測が飛び交っている。情報確認の指揮に組織のトップが当たったのは、宮下自身の判断だった。いわば、警官の勘だ。後進に実務を委ねて〝育てる〟という意味合いもある。そこに飛び込んできたICPOの要請がアイヌに関係していることが、偶然だとは思えない。

 久々に古巣に戻った宮下は、たった1週間で本部長以上に恐れられ、信頼される存在になった。それは地位の高さによるものではなく、警官としてのずば抜けた能力が勝ち取った評価だ。

 宮下の父親も公安刑事だった。激しい学生運動が終焉を迎えようとしていた時代、父親は過激な新左翼組織への監視任務に志願した。しかし彼が命がけで手に入れた情報を上層部が過小評価したために、過激派に惨殺された。鉄パイプで頭を割られた父親の遺体は、今も夢に現れる。世間からどれほど誤解され、嫌われようと、宮下は公安警察での仕事に誇りを持っていた。だからこそ、部下の生命は危険にさらすべきではないという信念を貫き、厳しく鍛え、現場への目配りも忘れなかった。しかもエリート警官としては異例なことに、現場の空気を好む男だったのだ。

 宮下は刑事に笑いかけた。

「責任は私が取る。本部長も一任してくれたし、ICPOの流儀も心得ている。無実かどうかに関わらず、事実は知らされるべきだ」

 野村は詰めていた息をもらして、つぶやいた。

「たったそれだけのことを分かってもらうのに、半日もかかったとはね……ギネスブックに申請するよ」

 宮下は笑わなかった。身を乗り出していきなり本題に入る。

「ブザンソンという街を知っているね?」

 野村の緊張は緩み、口調も柔らいだ。

「あそこの美術館とはよく連絡を取ります。メールやスカイプ、フェイスブックとか。あ、そういえば名刺を同封したかも……」

「君もフランス語ができるのかね?」

「最近赴任した向こうの担当者が日本語が堪能で、翻訳ソフトの必要もなくなりました。日本美術の専門家です」

「美術館どうしのつき合いかね? それとも個人的に?」

「両方。40年近く前に、ブザンソン市立美術館の倉庫からアイヌの族長たちを描いた日本画が発見されましてね。松前藩の蛎崎波響(かきざきはきょう)が描いたものです」

「夷酋列像(いしゅうれつぞう)だね」

 野村は驚きを隠さなかった。

「知っているんですか。俺が捕まったことと関係が?」

「それは後で。今は、君のことが知りたい」

 野村は取りつく島がないというように、ため息を漏らした。

「近代美術館では、列像を買収できないものかとブザンソン美術館と交渉を続けています。アイヌ絵の研究は私のライフワークですから、自然にブザンソンとの窓口になったわけです。俺が就職する前のことですが、現物を借り受けて展覧会も開いています」

「列像は、どうしてフランスに渡った?」

「分かりません。いつからそこにあるのか、誰が持っていったのか、それがオリジナルなのか――それを調べるのも俺の仕事です」

「そもそも夷酋列像とはどんな絵だね?」

「知っているんじゃないんですか?」

「絵の題名を聞きかじっただけなのでね」

「ここで講義をしろと?」

「時間はある」

 野村はまたも溜め息をついてから、肩をすくめた。公安の横暴に憤りを覚えたが、今は従う他はない。しばらく考えを整理すると、週に1回、女子短大で行なっている美術史の口調で話し始めた。

「アイヌはかつて、カムチャツカ半島南部からカラフト、そして東北地方にまたがる広い生活圏を持つ海洋交易民族でした。日本全土に分布していた古代縄文人が、渡来人などと混血して和人――現在の日本人となり、アイヌと枝分かれしていったという説もあります。和人が本州を統治した後は、北海道を中心に独自の文化を確立します。アイヌは自然を神として敬い、多くを求めず、生態系の一部として他の動植物と共存していました。原始共産制の典型といえます。しかし、富と権力を求めて武力抗争を繰り返す和人は、アイヌのコミュニティーを浸食していきます――」

 宮下は小さく咳払いをした。

「絵について知りたいのだが?」

 野村は挑みかかるように宮下を見つめた。

「背景抜きでは列像の意味は理解できません。嫌なら図書館へ」

「続けてくれたまえ」

「14世紀頃までは少数の和人がアイヌと対等に交易し、北海道の広い範囲で共存していたようです。本州と海で隔てられ、厳しい冬に半年閉ざされるという自然条件が、和人の組織的な侵攻を防いでいたのでしょう。15世紀に入ると渡島半島南部に和人の拠点が確立し、軋轢が表面化します。そして、生活圏を守るためのアイヌの抵抗を招いたのです。北海道での大きな抗争は3つ。最初は15世紀半ばの『コシャマインの戦い』でした。まだ足場が弱かった和人たちは全壊に瀕し、和睦を申し出ました。話合いの余地があれば暴力に訴えないのがアイヌです。和人たちはその掟を悪用し、コシャマインたちを謀殺しました。ヤマトタケル以来の騙し討ちの伝統が、ここでも繰り返されたわけです。謀略の中心だった武田信広は松前藩の開祖となり、道南に和人支配の基盤を固めました。信広は後に蛎崎の姓を名乗り、蝦夷地を牛耳る家系となります」

 宮下が眉を寄せて口を挟んだ。

「ん? 蛎崎? 列像を描いたのは、そいつの子孫かね?」

 野村はうなずいた。

「その通り。それ以後、彼らは本州の豪商たちと手を組み、蝦夷地開発を組織化させていったのです。近年では、アイヌが一方的に収奪されていたわけではないという説もありますが、平等ではなかった事も確かでしょう。2つ目の戦いが有名な『シャクシャインの蜂起』で、17世紀に発生しました。きっかけはアイヌ部族間の抗争だったといわれていますが、無数の砂金掘りが静内川の生態系を破壊したことや、交易を請け負った商人たちの非道が全道的な抵抗運動の背景にありました。この戦いでも和人たちは劣勢を強いられ、シャクシャインを謀殺することで失地を挽回しました。これを機会に和人の支配はさらに奥地へ及んで1世紀後には国後島に達し、文化や生活圏が破壊されていきました。追い詰められたアイヌたちの抵抗が、1789年の『クナシリメナシの戦い』です。この抵抗運動は若者たちを中心に組織的に行われました。ところが松前藩の鎮圧隊が国後に到着した時、反乱はすでにアイヌ内部で押さえ込まれていたのです。国後の族長ツキノエ、厚岸のイコトイといった長老たちは、反乱を口実に民族そのものが滅ぼされるのを恐れたのです。ツキノエらは『命だけは助ける』という松前藩の約束を信じて、反乱指導者たちを鎮圧隊に差し出しました。ところが藩は約束を破り、指導者ばかりでなく、数100人ものアイヌを殺したらしいのです」

「らしい? 確証はないのかね?」

「文字を持たないアイヌ側に記録は存在しませんし、藩の正式な文書にも何も書かれていません。しかし、この事件から30年ほど後に国後を支配した商人の文書に『島のアイヌはすべて斜里や網走から強制的に移住させられた』という記述があるのです。国後アイヌが皆殺しにされたと疑われる根拠の1つです。一方、結果的に和人に協力したツキノエたちは、松前藩から褒美を貰うことになりました。その際に『夷酋列像』が描かれたのです。この絵を残した目的は、12人のアイヌの代表を記録に止め、中央政府に対して北方支配が円滑に行われていることを証明するプロバガンダです」

「政治的意図があったのかね?」

「当時、江戸幕府はロシアの進出に怯え、松前藩の防衛能力に不安を抱いていました。反乱を許したことを理由に領地を取り上げられる可能性もありました。事実しばらく後には、蝦夷地は一時的に幕府の直轄地にされています。松前藩はアイヌの統治が円滑に行なわれていることを誇示したかったのです。列像の作者である波響は松前藩主の末息子で、家老職の蛎崎家へ養子に入った才人でした。絵画ばかりでなく、学問全般、後には政治にも鋭い手腕を発揮しています。列像は、同じ物が2組、あるいは3組描かれたといわれており、当時の天皇の目にも止まり、大変な評判を得ました。数多くの模写が現存していることがそれを証明しています。ところがオリジナルはいつの間にか行方が分からなくなり、それがブザンソンに現れたものではないかとも考えられているのです。国立民族博物館でも調査を続けています。ただしブザンソン・コレクションも12枚のうちの1枚が欠けています。それがなぜ消えたのか、どこにあるのかも分かっていません。私は、列像は明治から大正の間にフランスの画商が持ち去ったものだと推測していますが、決定的な証拠はありません。ブザンソンの列像に関しては何も明らかになっていないのです」そして生徒を促すようにつけ加えた。「他に質問は?」

「ブザンソンの列像が盗まれたようなのだ」

 野村は一瞬、息を呑んだ。

「は? ……まさか⁉ それで、俺が?」

「フランス警察の考え方だ」

「ですが、絵の盗難をどうして公安が捜査するんですか?」

「強奪されたのは5月19日の深夜。美術館の倉庫が爆破され、警備員が2人殺された」

「殺人まで⁉ 倉庫を爆破って、美術館の収蔵品は……?」

「相当数が損壊したようだ。だが、倉庫の瓦礫を精査して、消えたのが列像だけらしいと分かった」

「ばかな……。高価な絵が他にもあるだろうに……。公安が調べてるってことは、テロとかですか?」

「DGSIはそう疑っている。現場の様子や使われた爆薬から類推したらしい。しかしどのテロ組織も声明を出していない。ただ、生き残った警備員の証言から、犯人が〝アイヌエ〟を捜していたことが判明した。彼が君の名刺を持っていたという」

「『俺が犯人だ』と、名刺を出したと? 冗談じゃない。他にも証拠があるって言ってましたよね。なんですか?」

 宮下は再び質問を無視した。

「ブラジルには行ったことがあるかね?」

「今度はブラジルですか? フェイスタイムなら。なぜ?」

 宮下はわずかに身を乗り出した。

「フェイスタイム?」

「iPhoneのテレビ電話機能です。クルト・シュタイナーという、日本美術の研究者が列像のことを問い合わせてきました。半年ほど前から数回、議論しています。直接会ったことはありません」

 宮下はかすかにうなずいた。

「面白い……。犯人は、その線につながるのかもしれない。なんらかの組織が背後に潜んでいるとも考えられる」

「組織……って? 昔のスパイ小説みたいですね。俺は好きですけど。それにしても、どうして美術館を壊してまで?」

「列像を奪ったことを隠したかったようだ。問題は、なぜ隠す必要があったのか、だ。人を殺し、貴重な芸術品を破壊するほどの価値が、列像にはあるのか……」

「列像の値段は、アングルやゴヤには及びもつきません。金銭目当てならそっちを見逃すはずがない。列像に注目する者など多くはありません。私たちアイヌの他には、ね」

「君がアイヌの血を引いていることは知らなかった。失礼があったら許して欲しい」

 野村は宮下の視線を冷静に見返していた。

「同情は要りません。私にとって、アイヌの血は誇りです。できることなら、昔ながらの信仰に従って生きたいと願っています。自然の摂理と一体化した宗教観、戦いを拒む理性、文字さえ必要としなかった高度な文化――羨ましいことばかりです」

「文字がないことが文化なのかね?」

 野村は悲しげに笑った。

「記録が必要なかったのは、口約束が尊重されていたからです。アイヌといえども、普通の人間です。強欲な者もいれば怠け者もいる。嫉妬もするし、強盗や殺人も犯す。しかし、そんなトラブルでも協議で解決するのが伝統です。法律などという不完全な決めごとは存在しない。お互いを認め、信じ、己の言葉を裏切らない誠実さが根底にあるからです。それこそが文化の基礎です。全ては、人も動物も神の下に生かされているという宗教観が生んだ英知です。日本の神道もルーツは同じですが、もはや別物に変質しています。多神教やアニミズムは原始的で低俗だと蔑む者がほとんどですが、ならばキリスト教やイスラム教が何を生みましたか? 己の神だけを信じる一神教は、必然的に他の神を否定し、今でも争いをやめられない。槍や刀が、テロや経済制裁に変わっただけです。敵を作り、殺し合い、憎しみを増幅する宗教に価値があるんでしょうか?」

「確かに。耳が痛い」

「私にアイヌの素晴らしさを教えてくれたのは、列像だったと言ってもいい。彼らの誇り高い姿が感動と自信を与え、今の職業を選ばせてくれました。神々の導きです」

「君には計り知れない価値があるわけだ」

「だからといって、人は殺しません」

「分かっている」

「で、これから俺はどうなるんですか?」

「2、3日は泊まっていただく。ICPOの要請を無視することもできんのでね。君の知識が必要になりそうな予感もする」

 野村には当然『ノー』と言う自由は与えられていなかった。

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