プロローグ

0−0 2015年・札幌(マイナス10年)

「騙すんだ……裏切るしかないんだ……」

 中西健二は息を静めるようにつぶやき、病室のドアを開いた。きつい消毒の臭いが鼻を突く。緊張が高まり、全身に汗がにじむ。

 兄弟のように育った野村誠が救急車で担ぎ込まれてから、すでに4日が過ぎた。生死の境をさまよった末に集中治療室を出たのは、昨夜のことだ。中西は、野村の姿を見ることを恐れていた。親友の無残な姿を前にしても意思を貫けるかどうか、自信が持てない。

 中西の決断は、妻子の危機を目撃しながらも必死にこの世に踏み止まった野村の意志を打ち砕くかもしれない。それでも、伝えなければならないのだ。

 親友の、最後の務めとして。

 面会が許されたのは、わずか10分間――。野村の母親が、中西に譲った貴重な時間だ。日高から駆けつけた母親は、廊下の長椅子で何日も祈り続けていた。にもかかわらず、彼女は中西を面会させることを選んだ。それが息子の望みであることが〝分かって〟いたからだ。血は繋がっていなくても、中西もまた〝息子〟なのだ。

 中西にも分かっていた。

 息子たちが訣別することを敏感に嗅ぎ取った母親は、今後2人が顔を合わせることはないだろうと直感した。最後の言葉を交わす機会を奪う事はできない。どのみち、息子の命は〝神々の意志〟に委ねている――と。

 意を決してドアをくぐった中西は、ベッドの傍らに立った。

 枕元に立つ年配の看護婦は、じっと腕時計に目を落とし、小声で言った。口調は穏やかだったが、明らかな命令だ。

「手短かにお願いします」

 中西はぐったりと横たわる野村を見下ろし、歯を食いしばった。

 野村の顔は包帯で覆われ、隙間から伸びた2本のチューブがベッドサイドの装置に接続されている。視力を回復できるかどうかは、医師にも確信が持てないという。

 気配を察した野村が身じろぎし、くぐもった声でつぶやいた。

「かあさん……? あいつを……中西を呼んできてくれ……」

 中西は、点滴のチューブが差し込まれた腕にそっと手を添えた。

「起きていたのか?」

「健二か?」

 張りを失った親友の声は、中西の胸を怒りで熱くさせた。かき乱された内心を悟られまいと、ゆっくりと答える。

「よく頑張ったな。もう心配ないそうだ」

「響子は⁉ 無事か⁉」

 起き上がろうとする野村を、看護婦が穏やかに押さえる。

「まだいけません」そして中西に鋭い目を向ける。「興奮するような話題は避けて。面会を中止しますよ」

 中西は小さくうなずく。

「安心しろ。響子さんは元気だ」

「子供は⁉」

 看護婦が中西に目配せをして、首を横に振った。事実は知らせられない。

 今は――。

 中西は呼吸を整えて平静を装った。

「もちろん、親子ともども元気だ。奴らだって人間だ。血を分けた妹なんだから、命に関わる怪我はさせられない」

 包帯の奥からうめきがもれ出た。

「嘘……だな……」

 中西は一瞬、口ごもった。看護婦と視線を合わせる。看護婦は必死の形相で首を振り続ける。中西は目を伏せた。

「嘘じゃない。面会してきたばかりだ。おまえが元気になるまで、私が責任を持って守る。奴らには手出しさせない」

「警察は動いているのか?」

「それは……」

 野村は哀しげにつぶやいた。

「俺は見た……響子は、実の兄貴に何度も腹を蹴られた……手加減なんかしてない……腹の子供はまだ5ヵ月だぞ……」

 中西は涙をこらえて言った。

「私を信じろ!」

 野村が答えるまでにわずかな間があった。

「信じていいのか?」

 看護婦が割って入った。

「この方が言ったことは本当よ。奥様はもう元気になって――」

 野村が繰り返す。

「信じていいのか⁉」

 中西はきっぱりと言った。

「もちろんだ。嘘をついたことがあるか?」

 野村が中西の手を握り返す。

 思いがけない力の強さに、中西はたじろいだ。

「ならば、約束しろ。回復したら、責任を取らせる。この身を犠牲にしてでも、復讐する。一緒に戦うと約束しろ!」野村は看護婦の手を押し退けて上体を起こした。「お願いだ、約束してくれ!」

 チューブを引っ張られた点滴スタンドが、激しく揺れる。

 野村は情熱家だが、理性的で気性は荒くない。そんな男が全身に傷を負いながらも復讐を公言したことが、中西には驚きだった。

 看護婦が身を滑り込ませる。

「身体に障ります! また鎮静剤を打ちますよ」そして、中西に言った。「これ以上無理です。次の面会は明日にでも」

 野村は中西の手を放そうとしなかった。

「待て! 責任を取らせなければ――」

「面会は終わりです!」

 中西は野村の手を振りほどいて言った。

「とにかく、後のことは任せろ」

 野村は、包帯に覆われた顔を中西に向けた。

「信じているぞ……お前……だけは……」

 中西は心の底を見透かされたような思いに、拳を握りしめた。

 看護婦が中西の肩を押す。

「さあ、外へ!」

 中西はふらつく足で病室を出た。

 廊下では野村の母親が待っていた。ビニール張りの古ぼけたソファーに腰を降ろし、数日で10歳も老け込んだように見える。どっしりと太っていた身体も、空気が抜けた風船のように頼りなげだ。

 中西は息を整えると、深々と頭を下げた。

「ありがとうございました」

 母親はゆっくりと顔を上げた。しかし、中西と目を合わせない。

「早かったのね。あの子は……? 声が聞こえたけど……」

「意識もはっきりしています。私に食ってかかれるほどに、ね。それに、奴には生きる目的がある。だから、死にません」

 母親は目を逸らしたまま、寂しげに言った。

「あなた……どこかに行くの?」

「遠くへ」

「どこ?」

「とても遠くです」

「もう決めてしまったの? やっぱり誠から離れるの?」

「すみません、相談もしなくて……」

 中西の両親は、小学校の頃に死んでいた。働いていた工事現場の事故に巻き込まれたのだ。安全対策の不備が原因だったといわれたが、雇い主は責任を追及されず、わずかな補償金が支払われただけだった。野村の家に引き取られた中西は、ずっと彼女を母親だと思ってきた。今は野村も中西も札幌へ出て、大学を卒業したばかりだった。通う大学は違うが2人は安アパートの同じ部屋に住み、野村は美術史を専攻し、中西は英文学を学んできた。それでも〝家族〟の絆は、彼らを固く結びつけている。

 彼女は、聞き取れないほどの小声でつぶやいた。

「わたし……一度に2人の息子をなくすの……?」

「奴は死にません」

「でも、元の誠には戻れない……。なのに……あなたまで……」

 中西も、野村が復讐を口にしたことが信じられない。実の母親であるだけに、彼女は野村の変化を肌で感じ取っていたのだ。

 一般の日本人は、たとえ親子であろうとも、顔も合わせずに心を通わせられることを信じないかもしれない。しかし彼らは伝統的に、〝超自然の力〟とともに暮らしてきた。母親が息子の心がかけ離れていくのを感じるのは奇異ではない。

「奴は必ずあなたのもとに帰ります。私もずっとあなたの息子です」

 母親は、あふれ出した涙を古びたシャツの袖で押さえた。

「子供たちは旅立つもの……。止めてはいけないのよね……」

「本当に、ありがとうございました」

 母親はようやく中西の目を見た。

「あなたのことを聞かれたら、どう答えればいいの?」

 中西は彼女の目を見つめた。

「何も――。もう会うことはないでしょう」

 中西の決意の固さを知った彼女は、小さくうなずいた。

「元気でね……」

「母さんも、元気で」


             *


 病院を出た中西は、地面から吹き上げる粉雪に首をすくめた。3月も半ばを過ぎたのに、北海道は記録的な寒気団に覆われている。

 ダウンジャケットの衿をかき合わせた中西は、1人つぶやいた。

「信じている――か……」

 たれ込めた雲は、中西の心を映したかのように暗く、重く、寒々しい。もはや野村の命懸けの願いに応えることはできない。

 別れを告げにきたのに、それすら叶わなかった。だが、悩み抜いた末に出した結論は変わらない。

 世界は21世紀を迎えて15年が過ぎた。幼い頃は、〝輝かしい未来〟として語られていた時代だ。だが、戦争を失くすこともできない世界の本質は、100年前と変わらない。そう思い知った中西は、決断するしかなかったのだ。

 世界が変われないのなら、自分が変わるしかないのだ――と。

 もう、戻れる場所はない。

「初めて、嘘をついてしまったな……」

 野村は、その選択を許さない。中西も、二度と同じ世界に住むことはないと覚悟を決めていた。

 10年が過ぎ、『黄金の砦』に引き寄せられるまでは――。

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